第63話『ポヨの記録帳と、欠片が鳴らした“ありがとう”』
その日、ポヨは朝からずっとノートとにらめっこをしていた。
いつものように棚の音を写しているのではない。
彼のペンは、もっと丁寧に、慎重に、ゆっくりと紙の上を這っていた。
ティアはカウンターから紅茶を注ぎながら、その様子をそっと見守っていた。
「今日はまた……ずいぶん静かですね、ポヨくん」
「はい……今日は特別なページを書いてるんです」
「特別?」
ポヨは頷き、そっとノートのページを見せた。
そこには、欠片の名前がひとつずつ並んでいた。
“はじまり星”、“かえり道”、“音星”、“ともしび”――
それぞれの名前の横には、その日最初に鳴った音の記録と、どんな色を灯したか、ポヨの手書きで丁寧に綴られていた。
「ぼく、この記録帳を“ありがとう帳”にしようと思って」
ティアは少しだけ目を細めた。
「ありがとう……帳?」
「うん。欠片たち、ぼくらにいっぱい話しかけてくれてるでしょ? だから、ぼくもちゃんとお返事したくなって」
ティアはポヨの頭をそっと撫でた。
「ポヨくん……それって、とっても素敵なことですね」
ポヨはちょっと照れくさそうに笑って、またペンを動かした。
そのとき、棚の奥から小さな音がひとつ、ぽん、と響いた。
“ぽんっ”
まるで、呼吸の音のように柔らかく、優しく、力強かった。
モグが奥から顔を出し、欠片をそっと撫でる。
「……“おかえし”」
短くそう言ったモグに、ティアとポヨは目を見開いた。
「今の音……ありがとうへのお返事ですか?」
ポヨがノートに走り書きをしながら聞く。
「うん。……たぶん、そう」
モグの声はいつもと変わらない静けさだったが、どこか確信に満ちていた。
ティアは棚に手を添えて、欠片の震えを感じ取る。
「欠片って……もしかして、感情みたいなものを持ってるのかしら」
「うん。音じゃない音、言葉じゃない言葉。……そういう感じ」
ポヨは、そう言いながら“ありがとう帳”の最後の欄に小さな星を描き入れた。
午後、カフェの空気はますます静まり返っていた。
ダンジョンの風が止まり、灯りもわずかに暗くなる。
けれどそれは、嵐の前のような緊張ではなかった。
まるで――深く深く、何かが呼吸している音。
ティアが棚の端に腰をかけて言う。
「今日は、欠片たちが“耳を澄ませて”るみたいですね」
「うん。こっちの音を、聞いてる感じ」
ポヨがページをめくりながら、そう答える。
モグは静かに頷き、ひとつの欠片を指先で弾いた。
“きん”
それは、銀の鈴のような美しい音だった。
ティアとポヨが思わず息をのむ。
「……きれい……」
「ぼく、今の音は“ありがとう”の声だと思います」
ポヨがそう呟いた瞬間、欠片たちが――順番に、音を返し始めた。
“ぽん”
“きぃん”
“とん”
“しゃら”
“ふっ”
音にならない音が、棚の上で重なっていく。
それは旋律ではなかった。言葉でもない。
でも、間違いなく――“気持ち”だった。
ティアはそっと目を閉じる。
体の内側から、何かあたたかいものがゆっくりと溶け出してくる。
「ありがとうって……こんなに、優しい響きだったんですね」
ポヨも頷いて、ノートを胸に抱える。
「ねえティアさん、ぼくたちも返事した方がいいですよね?」
「ええ、もちろん」
ティアは小さな欠片に手を添えて、囁くように言った。
「こちらこそ、ありがとう。今日も、あなたたちがいてくれて」
その言葉に、欠片がひとつだけ、ふわりと浮き上がった。
まるで息をするように揺れたあと、棚に戻ってくる。
まるで“うん”と頷くように。
モグは黙ったままカップを差し出し、三人でささやかに乾杯した。
ティアは少しだけ笑いながら呟く。
「乾杯って、“ありがとう”の一種だと思うんです」
ポヨはそれに頷き、ノートの最後にこう書き込んだ。
『欠片たちが教えてくれた、静かなありがとう』
【第六十三日目:記録帳に綴られた、欠片たちの“ありがとう”】
・ポヨは欠片一つひとつに“ありがとう帳”を作り、その反応を記録し始めた
・モグの弾いた音が“ありがとう”を呼び、欠片たちは順番に短い音で返した
・ティア、モグ、ポヨの三人はそれに静かに返事をし、今日もまた星の音が鳴り響いた




