第25話『雨の日の来訪者と、香りの消えた朝』
雨が降った朝、ダンジョンの空気はしっとりと静まり返る。
香菜草の香りも、湿気に溶けて淡く感じられた。
その日、店の前に濡れた外套をまとった来訪者が立っていた。
「……ここに、“香りを知る者”がいると聞いた」
その声は低く、けれどどこか懐かしい響きを帯びていた。
客の名は、“記憶香師”と呼ばれる男だった。
彼は香りに宿った記憶を“読み解く”ことができるという、旅する語り部だった。
「この場所に残る香り……とても深いですね。
懐かしさ、温もり、そして少しの寂しさが混じっている」
そう言いながら、彼は静かに香菜草の鉢に手をかざした。
不思議なことに、香りが一瞬、鮮明に浮かび上がったように感じた。
「これは……“誰かを思う気持ち”が染み込んだ香りです。
あなた、ここで誰かを待っていたことはありませんか?」
俺は思わず、昔のことを思い出した。
このダンジョンを手に入れて最初に来た客――
小さな子どもを連れた女性冒険者。彼女がもう一度来る日を、どこかで待っていたのかもしれない。
記憶香師は香りに紐づいた“過去の情景”を、言葉として再構築してくれた。
それは、俺ですら忘れていた“瞬間の記憶”だった。
ティアもポヨも、思わず耳を傾ける。
「……香りは、記憶の器。
忘れられた気持ちは、香りの中に眠っている」
その夜、香菜草のひと鉢が急に香りを失った。
枯れてもいないのに、香らなくなったのだ。
記憶香師は静かに言った。
「香りが“全うされた”のかもしれません。
誰かの気持ちが報われると、植物も一息つくんです」
俺はその無香の鉢を、特別席のテーブルに飾った。
“香らないことで語る記憶”も、たしかにそこにある気がしたからだ。
翌朝、雨が上がるとともに、記憶香師は去っていた。
香りも、彼の気配も、まるで風のように消えていた。
だが香菜草はまた、新しい芽を出していた。
そして、かすかに――甘い雨上がりの香りを乗せて。
【第二十五日目:香りを失った草がくれた静かな記憶】
・“記憶香師”来訪、香菜草から過去の記憶を言葉に
・かつての訪問者を思い出すきっかけに
・香りを失った草は、役目を終えた証として飾られる
今日も静かな店内に、忘れられた思い出の香りが流れる。
そして、それを知る者だけが、そっと席に座ってくれるのだ。
◇あとがき
今回は“記憶と香り”をテーマにした、雨の日の静かな来訪者との一編でした。
日常の中にある懐かしさを、香りという形で掘り起こしてくれる人――
読者の皆様の中にも、ふと蘇る香りの記憶があれば嬉しいです。
◇応援のお願い
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今日も、静かなダンジョンの片隅で、
温かな香りを用意して、お待ちしております




