第18話:ダンジョンの春風市――一日限定の“見せるだけの市場”
春の風が、ダンジョンに吹いていた。
人工の空気が動くだけの空間なのに、不思議とそれは“春”の気配を纏っていた。
風があたたかく、空がやわらかく、息をするだけでどこか心がほどけていく。
そんな朝、ティアが呟いた。
「お祭り……みたいなこと、できたらいいですね」
祭り。
ダンジョンで?
最初はその発想に戸惑ったが、ティアの口調はどこまでも穏やかだった。
「にぎやかに騒ぐのではなく、ただ“好きなもの”を並べるだけの、小さな市が開けたらって思ったんです。
誰かに見せたいとか、買ってもらいたいとかじゃなくて、ただ“見てもらえたら嬉しい”っていう……そんな気持ちの」
その言葉に、俺は心を動かされた。
そして、準備が始まった。
イベント名は、ティア命名の――《春風市》
ルールはただひとつ。
“何も売らないこと”
並べるのは、好きなもの。作ったもの。集めたもの。描いたもの。語りたいもの。
それを並べて、ただ春風にさらすだけ。
売買も値札もなし。
誰かが手に取ることも、ないかもしれない。
でも、それでいい。
“ここにあるよ”という気配を、そっと置いていく市だった。
フロアは、カフェの隣に臨時設置された。
土の地面に白木の板を並べ、手作りの布屋根をかけ、そこにそれぞれが思い思いの空間を持ち寄る。
ポヨは、これまでに放送した《最果て放送局》の原稿と台本をファイルにして展示。
「これ、いつか本にします!」と張り切っていた。
キノコ三姉妹は、それぞれの菌糸模様を描いた“発酵日記”を並べた。
中には、謎の「胞子観察絵巻」などもあり、見る人(というか俺)は眉をひそめた。
モグは、石の図書館から“手になじんだ石板”を十枚ほど持ち込み、無言で並べた。
その横に“無言OK”の看板を添えて。
ティアは、小さな花瓶に摘んだ花を一本ずつ挿し、横にメモを添えた。
「これは、春光草という名前の花です。
雨のあとの風にだけ、花びらが開きます」
その手書きの字が、とてもやさしかった。
そして俺は、ダンジョンの記録ノートの複製を持ち込んだ。
ここでの日々、食べたもの、笑ったこと、泣いた夜、作った部屋――
その全てを記したもの。
表紙には、何も書かれていない。
けれど、開けばすぐに“この場所”の空気が流れてくるはずだ。
市は、誰も騒がなかった。
誰も声を張らず、客を呼ばず、ただ穏やかに風に吹かれていた。
けれど――来場者はいた。
図書館の翻訳魔導具が案内を受信し、遠い他所の図書館と“気配”を繋いだのか、
見知らぬ気配が、静かにフロアを通り抜けていった。
「……なんか、誰かが通ったような……」
「ええ。きっと、見ていってくれたんだと思います」
ティアの言葉に、俺は頷いた。
この市は、売らない代わりに、“残す”ためのものだ。
誰かの記憶のどこかに、そっと残ってくれたら――それでいい。
日が暮れるころ、皆がそれぞれの出展物を片付けていく。
けれど、ティアだけは、花瓶の一本をそのままベンチに置いた。
「この春風市の記憶に、一輪だけ残しておきたいんです」
その花は、夕陽に照らされ、風に揺れていた。
誰にも触れられず、誰にも摘まれず、
けれど確かに、この日の“存在証明”だった。
その夜、日記ノートにこう記した。
【第十八日目:売らないことで見えるもの】
・《春風市》開催。出展者:ティア、ポヨ、三姉妹、モグ、俺。
・売買のない“展示”による対話。
・残すことの価値は、与えるよりも深く。
このダンジョンは、誰かの“やさしさ”が静かに集まってできている。
それが目に見えた一日だった。
◇あとがき
今回は、“売らない市場”という逆説的なテーマで描きました。
ものや言葉や時間が、“誰かに見られるだけで報われる”という感覚は、現代社会では失われがちです。
でも、この物語では、それを静かに拾い上げていきたいと考えています。
◇応援のお願い
春風のような市の中で、あなたの心にも何かがそっと揺れたなら――
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残すことの価値を、いっしょに紡いでいけたら。