第16話:音のない雨と、傘のない散歩――雨の中庭と乾いたコート
ダンジョンの天井が灰色に染まるのは、初めてのことだった。
それは、予告されていない変化だった。
「マスター……今日の空、少し違いません?」
ポヨの声に頷きながら、俺も《観測フロア》の天井を見上げる。
いつもの優しい青空ではなく、雲が重く垂れ込めていた。
その雲の隙間から、透明なものがふわりと――
「……雨、か?」
人工的な空であっても、魔導気候制御で天候は操作できる。
だが、今日のこれは“設定されていない”ものだった。
ティアがフロアに入ってきて、静かに言う。
「……ダンジョンが、雨を降らせたんですね」
彼女の声は、どこか嬉しそうだった。
「私は、雨が嫌いでした。濡れるし、服も重くなるし、匂いも籠もる。
でも……ここなら、きっと違う気がするんです」
雨に濡れるための場所を作ろう。
そう決めた。
そしてその日の午後、《雨の中庭フロア》が完成した。
天井の魔導結晶が完全開放され、人工雲から“静かに、けれど絶え間なく降り続ける雨”が生成される。
地面は軟らかな土と、歩きやすい敷石。
濡れても沈まないし、音も吸収される設計だ。
フロアの周囲には、花々が配置された。
雨を受け、色合いを深めていく植物たち。
中央には、屋根のないベンチがひとつだけ。
傘をささずに座るための、それだけのベンチだった。
最初に濡れに出たのはティアだった。
コートのフードを下ろし、まっすぐに、ゆっくりと雨の中へ。
彼女の髪が、肩が、胸元が、少しずつ濡れていく。
けれど、どこか心地よさそうに、目を閉じていた。
「……音が、しないですね」
ティアの声に、俺は頷いた。
「ここでは、“雨音”は排除されてる。完全に」
「ふふ……それって、変ですね。雨って、あの音があるからこそ雨なのに」
「……だからこそ、“音がない雨”を感じてみたかった」
ティアは濡れた髪をかき上げ、空を見上げた。
「不思議です。濡れてるのに、冷たくない。濡れてるのに、重くない。
……なんだか、涙と似てます」
「……そうかもな」
俺たちは、しばらく黙って雨の中を歩いた。
ポヨは、「僕、濡れると溶けそうなんで外野で応援しますね!」と観測フロアで解説放送をしていた。
キノコ三姉妹はと言えば、「この湿気、最高です〜!」と雨に転がっていた。
雨は、誰にとっても違うものになるらしい。
夜。
ティアがそっと、濡れたコートを脱いで焚き火にかけた。
「このコート、ずっと着てたんです。街を出た時から、ずっと。
濡らしたくなかった。傷つけたくなかった。汚したくなかった。
でも、今日……ようやく“洗えた”気がしました」
コートは、焚き火の火に照らされ、柔らかく揺れていた。
まるで、息をしているように。
ティアはそのまま、コートに手を置いて、ぽつりと呟いた。
「明日から、もう少し軽く歩けそうです」
その夜、日記ノートにこう記した。
【第十六日目:濡れることで、洗い落とされるもの】
・《雨の中庭フロア》完成。無音の雨、継続。
・ティア、コートを濡らす。心の“防水”を解除。
・誰も避けない雨も、あっていい。
雨がすべてを奪うのではなく、
ときに何かを“洗って”、残すこともある。
この最果ての場所では、そんな雨が、静かに降り続けている。
◇あとがき
今回は“雨”をテーマにした物語でした。
異世界スローライフといえど、“心の重さ”は時に降り注ぐものです。
その雨と、どう向き合うか。今回は“濡れること”を選んだティアの物語でした。
次回から、少しずつ彼女の歩幅も変わっていきます。
◇応援のお願い
雨音がない世界で、もし静かに心が動いたなら――
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その一滴が、次の物語の“水脈”になります。