第15話:“一冊の本”とティアの涙、夜を越える読書室
夜が深まると、このダンジョンはほんとうに静かになる。
焚き火もなく、虫の声もない。
ただ、空に浮かぶ擬似月が、魔力で照らされた露台を淡く染め、
空間に柔らかな白の重みを落とすだけ。
そんな夜に、ティアが言った。
「マスター、本を読みたい夜って……ありますよね」
言葉の真意を問う前に、彼女はゆっくりと椅子に腰かけ、両手で紅茶のカップを包み込んだ。
表情は穏やかで、けれどどこか、距離がある。
「今日、モグさんの《石の図書館》を見て……思ったんです。
誰かが書き残した言葉って、そこに“誰もいない”ようで、“誰かがいる”ってことだなって」
ティアは、ゆっくりとした口調で続けた。
「私はずっと、何かを書くことができませんでした。
評価が怖くて、言葉が空になるのが怖くて……でも、モグさんの図書館を見て、やっと、“読んでみたい”って思えたんです」
だから、と彼女は言った。
「“読むための部屋”がほしいです。誰も邪魔しない、小さな灯りの下で、ただページをめくるだけの空間を」
そうして生まれたのが――
《夜読書の書架》
ダンジョンの奥、音を吸う魔法壁に囲まれた半円形の部屋。
中央には丸い読書机と、古い木製の棚。
天井には時間と連動して輝く“月灯”が設置され、室温と光量が常に心地よいレベルに保たれる。
魔素で作られた“影のカーテン”は、外界の気配を完全に遮断し、ただ“ひとりになる”ことを許してくれる。
そこに、モグがそっと一冊の石板を置いた。
翻訳されたその表紙には、こう記されていた。
『記憶の果てに咲いた花』
それは、誰が書いたかもわからない、名もない書き手の残した物語だった。
ティアは、その本をそっと手に取ると、椅子に座り、深く深呼吸してから読み始めた。
ページをめくるたび、彼女のまぶたが僅かに揺れる。
物語は、こんな始まりだった。
――「世界の果てで、少女は風を待っていた」
俺はそっと入口のカーテンを閉じ、音を立てないように離れた。
ティアが“読む”という行為と、どう向き合っていくのか。
それは彼女にとって、過去と対峙することになるだろうと思ったからだ。
1時間後。
廊下に座っていた俺のもとに、ティアが現れた。
目の端がほんのり赤く、手にはあの一冊の本を抱えていた。
「……泣いてしまいました」
その言葉に、俺はなにも返さなかった。
ただ隣に座り、しばらく黙っていた。
ティアが続ける。
「……“忘れても、残るものがある”って……そう書いてあったんです。
それは名前じゃなくて、言葉じゃなくて――“気持ち”なんだって」
俺は少し間を置いてから言った。
「きっとその本、君の中に届いたんだな」
「……はい」
ティアは微笑みながら、もう一度本を抱きしめた。
その夜、読書室には小さな付箋が貼られていた。
【推薦書】
『記憶の果てに咲いた花』
ティアより
その横に、ポヨがつけた別のメモもあった。
【泣き度目安】★★★★☆(ティア4滴)
……たぶん、彼なりの読書レビューだったのだろう。
その夜の記録はこうだ。
【第十五日目:読むこと、泣くこと、それは一人でできる優しさ】
・《夜読書の書架》完成
・ティア、初読書と涙
・記憶の言葉は、静かに、深く届く
本を読むという行為は、“もう一度、生きなおす”ということなのかもしれない。
少なくとも、彼女の涙は、それだけの価値があった。
そしてこのダンジョンにはまたひとつ、誰かの“心の灯り”が生まれたのだった。
◇あとがき
今回は“読む”ということ、“ひとりになる”ことをテーマにした物語です。
誰かに話さずとも、ページの中で涙を流せるというのは、すごく尊い時間だと感じています。
静かであたたかい時間が、このダンジョンにはよく似合います。
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