第13話:空を見上げてひと息、雲の観測フロアと午後のアイスティー
このダンジョンに、空はある。
けれどそれは、あくまで“再現された空間”だ。
本物の空ではない。
本物の風も、太陽も、雲も存在しない。
それでも、ティアが言った。
「空、作ってみませんか?」
発案はカフェフロアの午後だった。
《ふわ茸》で買ったキノコ三姉妹の新作パン――“ふわ雲ブレッド”を頬張りながら、ティアがぽつりと呟いたのだ。
「空って、見上げるだけで心がほどける気がするんです。だから……このダンジョンにも、そんな場所を作れたらなって」
「見上げるためだけの場所、か」
「ええ。“観測するためだけの空”。ただそれだけ。きっと、それだけで充分です」
俺はしばらく考え、うなずいた。
「作ろう。《雲の観測フロア》だ」
数時間後、ダンジョンの上層階に新たな空間が形成された。
天井は透過式の魔導結晶を全面に使用し、立体空間に浮遊する魔素粒子で雲のような物体を構築。
ゆるやかに流れる風。
光の演出による“時間の移ろい”。
床には白い魔法絨毯。座ると自然にふわりと浮遊する。
そして中央には、木製の低いテーブルと、アイスティーを冷やす魔導容器。
これぞ――
《空を見上げるだけのための部屋》
誰のためでもない。
ただ、自分の心を空へ向けるための場所。
ティアは最初の来訪者だった。
彼女は床に腰を下ろし、脚を投げ出して、
「はぁ……これ、最高ですね」
と小さく笑った。
その横に、ポヨが氷入りのグラスを持って跳ねてくる。
「本日のおすすめアイスティーは、冷やし白桃と風香草のブレンドですっ!」
「ありがとう。ちょうど、そういう味がほしかったの」
「えっ、エスパー!?」
ティアがグラスを受け取り、ストローでそっと吸う。
涼やかな風が、彼女の髪をやさしく揺らす。
「……ああ、これ、ほんとに、癒されます」
「でしょ〜? 僕もさっき一杯やりました」
「それ、アイスティーの言い方じゃないぞ」
午後のひととき。
雲がゆっくりと天井を流れる。
ポヨはふよふよと漂いながら、「雲のかたち当てゲーム」を始めた。
「見てください、マスター! あれ、スライムに見えません?」
「全部スライムに見えてるだけじゃないのか?」
「そんなことないです! あれは……スライムがハープを弾いてる形です!」
「さらに限定された……」
ティアもくすくすと笑いながら、雲を見つめる。
「ねえ、マスター」
「ん?」
「こういう時間って、永遠じゃないって分かってるから……大切に感じるのかな」
「……そうかもな」
「でも、永遠じゃないからこそ、こうして残したいって思うんです」
彼女はそっと魔導ペンを取り出し、小さなノートに何かを書き記す。
「観測ノート?」と訊くと、ティアは頷いた。
「“今日の空と、心の形”。そんな記録をつけてみようと思って」
それは、まるで日記であり、詩でもあるようだった。
その夜、俺は《観測フロア》をひとり訪れた。
雲はもう動きを止め、魔導照明が月の光を模していた。
白い絨毯の上に寝転がると、静けさの中にほんの少し、今日の名残が残っていた。
風のない場所で、風を感じる。
空のない世界で、空を見上げる。
それは、嘘のようでいて、本物よりも真実に近かった。
日記ノートには、こう記す。
【第十三日目:空を見ること、何も求めずに】
・《雲の観測フロア》設置。魔素雲の流れ、良好。
・ティア、空の記録ノート開始。
・誰もが“見上げる”だけで許される空間。
明日もまた、ここに雲が流れるだろう。
誰かが見上げるために。誰かが、何かを手放すために。
この最果てのダンジョンに――空が生まれた。
◇あとがき
今回はとても静かな回でした。
“空を見る”という、それだけのことが、どれだけ心をほどいてくれるかを描いてみたつもりです。
この物語では、何も起きない時間こそが、大きな出来事です。
ティアの観測ノートは今後も、さりげなく物語に混ざっていく予定です。
◇応援のお願い
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