京洛御伽草子(きょうらくおとぎそうし) くれなゐの月を空恐ろしと思ひし者ありたるに
「甲斐の国」の話より、時間軸は前です。
朱い月を見た時は、いつでも、はっとしますよね、という話です。
同じ舞台で他作も書いてます。よろしければ、そちらも。
朱く、大きな月が空に昇ってきました。夕闇の頃です。
何となく目を反らして、人びとは帰路を急いでいきます。特に月に背を向けて行く者は、背筋に何とも言えない感触を覚えています。
朱い月が、自分だけを追いかけてくるうような。
朱い月が、自分の後ろを歩いている者を取って喰ったのではないだろうか。
ほら、だから、後ろがしん、としている。
振り返ったら、何かと目が合いそうで。
空恐ろしさに背を押されて、少しずつ早足になります。
月が見えなくなる角を曲がって、家の戸を開いて、灯りを燈せた人は実はとても幸運なのです。
月の目を背中に浴びたまま家の戸に手をかけ、ああ、無事に帰って来れたと境を越えようとしたとき。
背に、さわざわとしたものを感じたら。
----きっと、そこには…、
「!! いやあ・・・!!」
と、稚い悲鳴を上げて、童女はあけのの膝に縋りついた。
「あまり怖がらせないでもらえるかしら。」
背中を撫ぜながら、あけのがやんわりと言う。「怖い話して」とねだられたとはいえ、情操によくない。
三枚のお札くらいが適当だろうに。
「いや、これは大丈夫だよって話だよ。はーる。」
「いーやっ、」
「お月さま、見に行こう?」
いや、どういう流れだ、とあけのは呆れた目をしたが、本人は大まじめだ。
「朱くて大きくて、綺麗だぞ?」
「お月さま、人食べる!」
「はるは食べられないよ?」
「----食べない?」
「うん。」
「どうして?」
膝でにじり寄った少年を、あけのの腰にしっかりしがみついたまま、振り仰いだ。
「賢いなあ。そうきたか。」
少年は、にっこりと笑った。手を伸ばして抱き取ると、抵抗なく童女は腕に収まった。
「----早瀬、」
当人には才はなくとも、とびきりの術師と長く暮らしてきた女性だ。何か感じるところはあったのだろう。短く、幾つかの取り決めを申し出た少年の、合わせた目の奥の色に静かに頷いて、手を引いた。
童女を抱き上げたまま、からり、と戸を開けた。敷居の外で下ろし、
「閉めて、」
と言った。童女が一生懸命戸を引いて、閉まった戸に満足そうに頷いて、少年に向き直った。ほぼ、同時に家の明かりが消えた。
夜が深くなり、前庭の向こう、朱い月がより目に迫るように映る。
「…お月さま、見てる…?」
「見てるな、」
屋敷の境まで手をつないで歩く。
----朱い月に向かって。
ごく小規模な敷地だが、垣がめぐらされ、簡単な作りの門も設えられている。少年は童女の手を解いて、戸を開け開いた。
真正面に、朱い月が、…いる。
袖にしがみついている童女の髪を撫ぜてから、少年は月を見据えて、手を高く一回、低く一回、打ち合わせた。
「月は絶対にはるを喰えない。」
「ほんとう?」
「本当だ。」
撃てば響くように応じる。
「だから、試してみよう?」
童女の体をくるりと反転させて、朱い月に背を向けさせた。
「俺がここでちゃんと見ているから、振り返らずに歩いて、戸を開けるんだ。」
「戸を開けたら、はるは頭からかじられて消えちゃうんじゃない!?」
「俺がいるのに?」
「…はやは月より強い?」
まだ「せ」がうまく言えないのだ。
「どう思う?」
じ、と黒目がちな瞳を瞠って見返していたが、
「うん、」
と、納得の頷きを一つ。少年は、最近白拍子宿の妓女たちに、将来かなり有望と言われる笑みを、ふんだんに浮かべている。
「こういうのを、肝試し、というんだ。振り向かなかったら、はるの勝ち。」
とん、と肩を押した。
童女が一歩踏み出すのと同時に、笑みをするりと消した少年は腰から二本の扇を抜いた。
一本を無造作に足元に落とす。地面に突き立った扇は、ひとりでに開いた。
御
垣
守
衛
士
の
焚
く
火
の
夜
は
燃
え
扇から吐き出されるように宙に浮かび上がった文字は、少年の体を中心に置いて螺旋を描いた。篝火から少し離れた闇が深くなって、姿を隠すように、少年の存在が希薄になっていく。
開いたままの門戸が、風もないのに揺れる。
何かが滴るように朱い月の形が歪む。濡れた布を引きずるような跡が、童女を追うように地面に現れた。
見ようによっては童女の影のようにも見える。
月は背後なのに。
カゲはゆらりと起き上がる。みるみると厚みを増して、童女の背と同じになり、頭を越え、----海坊主のようにのっぺりとした頭部の、顎のあたりがバクリと割れた。口。真っ黒なのに、見えた舌は朱い。白い歯を剝きだすように・・笑う?
童女の手が戸にかかった。先ほどと同じように、一生懸命力を入れて引き開ける----口が、耳まで裂けるごとくに開いた。一口で、かぶりつこうとする、その時。
内で明かりが灯った。
「お帰りなさい。」
見鬼の才のない常人でも感じられる禍々しさだと少年は思うのだが、見えない人の感覚は逆に分からない。とにかく、童女に向けたその笑みは、常のままだ。
「ただいまっ、」
小さな冒険を終えた童女は、満足そうに境を越えて、温かな腕の中に迎え入れられた。
灯と言霊に、境を明らかにされて、ソレは後ろにたたらを踏んだ。
手を打ち鳴らす音。先とは逆に、低く、高く。
室内の明かりを受けて延びる自分と童女の影を見下ろした女は、影が届かない向こうで、いま一本の扇を手に立っている少年を見て、頷いた。童女の後ろ髪を撫でながら、別の手で戸を閉める。
かくて、断ち切られた異界には、カゲと少年が残った。
「我が家のお姫様は、極上品だからな。狙いは間違ってはいないんだけれど、」
手の中の扇を、開いたり閉じたりしながら、けれど少年の気は張りつめている。
「手に入るかどうかを、判断する知性か、危険察知する本能が、正しく働かなかったのは残念だ。」
童女のかたちに近くなっていたカゲは、身丈を低く、平たくなっていく。
四つ足だ。生臭い臭いが、僅かな風に乗る。
放たれる弓のように、全身をたわめた。
飛び掛かってくる! と思えば、少年の脇をかすめるように走って、敷地から出て行こうとした。
ギャンンッ、と獣のうめき声がして、見えない戸に体当たりしたかたちとなったカゲが、その衝撃で伏して痙攣している。
その上に、少年は扇を投げた。
闇
な
ら
ば
う
べ
も
来
ま
さ
じ
は
る
の
花
咲
け
る
月
夜
に
出
で
ま
さ
じ
と
や
今度は文字は炎を纏って、まるで雨のように上からカゲに降り注いだ。カゲの大きさは少しずつ小さく丸く変じていく。
炎の文字は互いに偏を伸ばし合うようにして結びつき、籠目を作った。雀の子を捕らえる仕掛けのように、カゲをその半円の中に閉じ込めた。
そのまま燃やしてしまうことも、勿論できたわけだが----。
ふむ、と少年は腕組みして、燃えている籠を見下ろした。
「麻生さんに、式を教えてもらおうと思ってたんだよな。」
百鬼夜行に参るのだから、まあまあ力はあるあやかしだろう。
「----よし、」
月は高度を上げて、少しずつ朱を薄くしていく。月から滴って、狩られずに狩を終えたモノたちが、戻っていくカゲを----朱い月下の百鬼夜行の始末を、少年の目は捉えている。
喰われたものも狩られたものも----あやかしも、ひとも。同じ地平に、いると、実感する、
「・・・いい夜だ。」
独り言ちて、少年は暫く昇りゆく月と見合っていた。
くれなゐの月上りし夜には、百鬼夜行起こることありぬと云ふ。空恐ろしと思ふこと正し。運悪しく行きあひへば、背をむけることなかれ。あやしきことに、己が影、背にて立ち上がれば、ことに心すべし。とく、灯ある処へ入らねば、影、その人をおおひて、夜行へ引き入れぬとか云ふ。
注釈
①「三枚のお札」的な昔話が、この時代にあったかは不明です。
②作中の和歌について。
一つ目は作者は「御垣守」は「大中臣能宣」の上の句。
二つ目は「闇ならば」は「梅」を「はる」に書き換えて使用しています。もと歌は「紀女郎小鹿」の作。
③古文的なのは、自作です。文法はそれっぽくしているだけですので、あしからず。
④黎は出張中w