80. 夕暮れの二人
私はトレイユ伯邸の屋根の上にいた。
この高さからだと屋敷全体は勿論、その外までよく見える。
息を整え、感覚を研ぎ澄ませて精霊たちのささやきを聞く。
どんな場所でも精霊たちはいる。この辺境の地も例外ではない。
今のところ、その中に魔霊の気配は感じられなかった。
昨日邸内を散策していたのは彼らの存在を探る為もあったのだ。あの乱闘騒ぎのせいで中断してしまったけれど。
横に立て掛けていた梯子がギシッという音を立てる。昇ってきたセヴランがひょっこりと顔を出した。
「一番高いところはどこかと仰っていたので、まさかとは思いましたが……。怖くはないのですか?」
「全然」
落ちそうになったら風の精霊が助けてくれるし。
「シャンタル殿はそこらの兵士より剛胆ですね」
「よく言われる」
セヴランはふふっと笑いながら、隣に腰を下ろした。
「狼藉を働いた兵たちの処遇ですが、三ヶ月の謹慎と特別訓練、及び減俸ということで如何でしょうか」
「ジェラルドはなんと言ってる?」
「軽いとは思うがシャンタルが良いのであれば、と仰っていました」
「私はそれで構わないよ。こちらも、騒ぎを起こして本当に済まないと思ってる」
そのせいで、魔獣退治は数日延期になってしまったのだから。さすがに私も反省した。ちょっとだけ。
「部下が無礼を働いたことは事実ですから……。主としてお詫びします。彼らはドミニクにたっぷりしごかせますので」
ドミニク兵士長のしごきはベテランの兵士でも泣くほど過酷なものらしく、地獄の特訓と恐れられているそうだ。新兵といっていい彼らも、三ヶ月後には立派な兵士になっていることだろう。ご愁傷様。
「大精霊士とは凄いものだと、兵士たちが噂しておりました」
「別にあの程度、私の弟子にだって出来るよ」
「では、シャンタル殿は実力の半分も出しておられないと?」
「まあ、ね」
本当は半分どころか百分の一も出していない。
私がその気になれば、この館を全壊させることだって可能だ。
「それはそれは……。貴方をうちの兵団に勧誘したいくらいですよ」
それも面白そうだな、と答えて笑い合った。
もうすぐ夕暮れだ。
近隣の畑や村の家々が、赤い光に染まっていく。その様子をしばらく二人で眺める。
「良い所だ」
「しかし何もないでしょう?ご令嬢たちには、散々何もなくて退屈だと言われました」
この屋敷へ来るまでに通ってきた街や村は、とても活気があった。民が生き生きとしているのは領主が気を配っている証拠だろう。
そりゃまあ、令嬢たちが好む劇場や服飾店や小洒落たカフェは無いけれど。それをこの辺境に求めるのは酷というものだ。
「そんなことは思わないよ。騒がしいのはあまり好きじゃないんだ。王都も悪くないが、お貴族様との付き合いは面倒臭いことも多いからなあ。こういう所なら、好きなだけ家に籠もって研究へ打ち込めそうだ」
「……貴方は本当に変わっておられますね」
「女らしくないってか?」
「いいえ。とても魅力的な女性だと思います」
横を向いて彼を見る。私を見つめるセヴランの目には、真剣な光が宿っていた。
「貴方からそういう風に言われるのは、悪い気がしないね」
そんな言葉が、するっと口を付いて出てしまった。
この男を前にすると妙に素直になってしまう。何でだろうな。彼の実直な性格ゆえかもしれない。
セヴランは目を丸くした後、微笑んだ。日焼けした顔に浮かぶ屈託のない笑顔が眩しい。
笑うと幾分か幼く見える。真っ直ぐな好青年。そんな印象を受けた。
「……ジェラルド殿下が相手では、勝ち目が無いと思っておりましたが。そのように仰っていただけるのならば、私にも多少の勝ち筋はあると思って良いのでしょうか」
その問いには、沈黙で返しておいた。
シャンタルはマッチョな男性が好みという設定で、セヴランはどストライクなのです。シャンタルがセヴランに対して多少態度が柔らかいのは、そういうことです。




