8. シャンタルの置き手紙 ◇
「マティアス、状況はどうだ?」
私室へ向かって歩いていると、ばったりと兄のテオフィルに会ってしまった。この時間は、王太子用の執務室に籠もっているだろうと思っていたのに。こんなことなら、別の廊下を使うんだった。
「何のことですか、兄上」
「シャンタル殿のことだよ。彼女に謝罪はしたのだろうな?」
兄上には関係ないだろう、と内心イライラしながら俺は答える。
「手紙を送ったところです。問題ありません」
「本当か?芳しくないのであれば、早めに報告しろ。父上はかなりお怒りだからな。俺が手を貸してやってもいい」
「……大丈夫です。兄上の手を煩わせるほどの事ではありません」
去っていく兄上の背を見ながらチッ、と舌打ちする。
いつもそうだ。俺を見下すような、あの目つきが気にくわない。
子供の頃から、兄は勉学においても剣術においても、俺より常に上だった。
仕方ないじゃないか。兄は王太子となることが決まっていたから、最高の教師や師範を与えられていた。俺だって、兄と同じような環境を与えられれば、あのくらいできた。
婚約者だって、兄は他国の姫君、俺に与えられたのはあの平民娘だ。いくら王太子だといっても、差別が過ぎないか?
父上の怒りは誤算だった。ナディーヌの実家であるクラヴェル侯爵家は、手広く運輸業をやっているので羽振りがいい。クラヴェル家を取り込むのは、王家にとっても悪い話ではないはずなのに。
私室の扉を力任せに開けると、俺は側近のファビアンを怒鳴りつけた。
「シャンタルからの返事はまだこないのか!」
「まだ届いておりませんが」
「何をモタモタしている!それならば、催促を出せば良いだろう」
ファビアンは慌てて使者の手配をし始めた。
全く愚鈍な奴だ。こういう時は、主君の意を察して自ら動くものじゃないか?
まあいい。
アニエスを側室に迎えれば、シャンタルとて俺に従うだろう。
そうだな。アニエスが精霊士に昇格するのなら、少しは可愛がってやってもいい。
侯爵令嬢の正妃と小精霊士を側室に持つとなれば、父上や兄上も俺を蔑ろにはできなくなる。いずれは兄を引きずりおろして、俺が王太子の座に収まることも可能かもな。
シャンタルのもとへ向かわせた使者が戻ってきたのは、俺が午後のティータイムを楽しんでいる時だった。
「この俺が折れてやったのに、側室入りを断るだと?しかもこの人を小馬鹿にした文面……。もう許さん。兵士を差し向けて、シャンタルをひっとらえろ!」
「家はもぬけの殻でして……。この手紙だけが置いてありました」
「それを早く言え!!」
ファビアンに調べさせたところ、シャンタルとアニエスがマグノアの街へ行ったところまでは分かった。
だが、その先の行方が知れない。
馬車夫をしらみつぶしに当たらせたが、それらしき女の二人組を乗せたという者は見つからなかった。
「一つ、気になる情報が。マグノアの宿の主人によりますと、シャンタル殿には三人の男が同行していたそうです」
「男だと?」
「宿泊名簿と検問所の入国記録を照らし合わせたところ、ラングラル国の商人という記録が残っていました」
まずい。国外へ逃げられては、手が出せなくなる。
しかし、何故ラングラルの商人が?
「宿の主人によれば、やたら眼光の鋭い、護衛らしき男もいたとのこと。商人が連れ歩くには不相応だと思ったそうです」
「身分を偽っていたということか」
「かの国の間者という可能性もあるかと」
俺はにんまりとした。これで、あいつらを追いかける理由ができた。
「すぐ騎士団に後を追わせろ。売国奴を捕まえるのだ」
「し、しかし。陛下の許可無く騎士団を動かすことは……」
「そんなもの、後から何とでもなる。いいから言うとおりにしろ!」
シャンタルには、先日殴られた恨みもある。父上に怒られるので殺しはしないが、腕の一本くらい折ったって構わないだろう。
あの生意気な年増女が泣き叫ぶ姿を想像するだけで、楽しくなってきた。
痛めつけられた師匠の姿を見れば、アニエスも大人しく側室になると言うに違いない。そうだな。俺に逆らったアニエスにも、少しおしおきしてやらないとな。