39. 蠢動 ◇
始まりは些細な欲だった。
ラングラル東の国境にほど近い村。周囲には畑くらいしかない田舎だ。
彼は村の鼻つまみ者だった。
元は農夫だが、飲んだくれてろくに仕事をしない。畑は人手に渡り、女房にも逃げられた。
今は畑仕事の手伝いで日銭を稼いでは、酒に費やしている。
ある日、彼のもとへ見慣れない男がやってきた。
何だこいつはと思った。
横柄な態度と高そうな服で、金持ちだということは分かった。それが俺に何の用だ。
男はやって欲しい事があると言って、金貨を見せてきた。
殺しか?と聞くとそうではないと言う。
懐から袋を出すと、この中の物を近くの湖に沈めて欲しい、礼として金貨十枚をやろう、と男は言った。
湖というより池と言った方が良いレベルだが、あるにはある。村の貴重な水源だ。
実はここへ来るまでにも、男は何人かの村人に同じ依頼をして断られていた。飲み水にも使っている水源に、そんな訳の分からない物を入れられない、と。
この飲んだくれは知る由も無かったが。
そんな簡単なことで金貨十枚が貰えるなんて。
この村じゃあ、十年働いても手に入るかどうか分からない金額だ。
彼はその話に飛びついた。
なぜ男が自分でやらないのか。なぜこんな辺鄙な村を選んだのか。
少し考えれば、不審な点はいくらでもあっただろう。
だが、金貨に対する欲が彼の目をくらませた。
袋を受け取ると、ガチャリとガラスの音がした。
壊れ物だ、気をつけろと男が慌てる。
へいへい、分かりましたよ。丁寧に運べばいいんですね。
そんな事を言って、彼は湖へ向かった。
男はといえば、遠くの方からこちらを見ている。監視のつもりらしい。
彼は袋の中身を湖に投げ入れた。
ガラスの瓶に何か黒い物が入っているようだったが、すぐに沈んでしまったのでよく見えない。
約束通り男は金貨を支払い、逃げるように帰っていった。
何かヤバいものだったのか?と少しだけ思ったが、手に入った大金が彼の気を大きくした。
金持ちが何かやらかして、証拠品を隠したかったんだろう。
第一、この村の奴らがどうなろうと、俺の知った事じゃない。散々、俺のことを除け者にしてきたんだから。
数週間後、彼の遺体が見つかった。
最近は仕事もせず酒ばかり飲む様子を見ていた村人たちは、飲み過ぎが原因だろうと噂した。
ろくでなしがいなくなってせいせいした、という者もいた。
村人たちは墓地の隅に彼の遺体を埋め、それ以来彼のことを思い出しもしなかった。
だが数日後、村に異変が起こり始めた。
まず村の年寄り数人が亡くなった。
今年の夏は暑かったからな。当初はそう楽観的に考えていた村人たちは、子供や女たちに病気が流行り出した時点でようやく、尋常ではないということに気がついた。
みな高熱を出し、衰弱していく。小さい子供を亡くした夫婦もいた。
しかも悲劇はそれだけにとどまらなかった。秋の収穫を前に、村の作物が枯れ始めたのだ。
唯一その原因を知っている男は、冷たい土の中である。
村人たちは訳の分からない事態に、ただただ翻弄されるだけだった。




