129. 熱帯夜(2)
「アニエス、僕の部屋へ遊びに来ない?」
そういうわけで、私はイヴォン殿下の私室へ向かっていた。
後宮なので、お共はナタリーだけだ。お師匠様は陛下に呼ばれて行ってしまったし、ジュディットはまだ体調が思わしくなさそうなので休ませている。
殿下の部屋へ入ったところで、側仕えの女性たちがナタリーにわらわらと群がった。ナタリーは慌てて私の前に立って彼女たちを近寄らせないようにしたが、囲まれてしまう。
「ナタリー様、お話しましょう!」
「あっずるいわ、私もよ!」
「も、申し訳ありませんが、私にはアニエス様をお守りするという任務が」
「彼女たち、君と話したくてうずうずしてたんだ。相手してやってよ」
「ち、ちょっと待っ……」
側仕えたちの目的は私ではなく、ナタリーだったらしい。そうして彼女たちはナタリーを強引に連れ出していった。
「やっと二人っきりになれた!いっつも誰かがアニエスの側にいるんだもの」
そう仰ったイヴォン殿下が、私へ近寄ってきた。そして両手で私の手を握る。
「アニエス、僕の気持ちは分かっているだろ?ラングラルなんかに帰らないで。このままずっと僕のそばにいておくれ」
「殿下……ご冗談ですよね?」
「本気だよ。このために、父上に頼んで君を招待したんだから」
私は驚きのあまり、固まってしまった。どうしよう。機嫌を損ねないように断らないと……。
「お気持ちはありがたいですが。私には婚約者が」
「変わり者で、男色家っていう王子だろう?そんな男と結婚したら不幸になるだけだ。君が我慢をする必要なんて無い。僕が君を幸せにしてあげるよ」
「ええ!?」
フェリクス様が男色家なんて聞いたこともない。それなら、そもそも私と婚約してないだろう。
そういえば、侯爵令嬢お二人との婚約を先延ばしにしていたせいで、色々言われていたらしいとお師匠様が言っていたっけ。多分、それが尾鰭を付けて伝わったんだわ。
「殿下。私は我慢して婚約しているのではないですし、フェリクス様は男色家でも変わり者でもありません。真面目すぎるところはあるけれど、素晴らしい方です」
「でもそういう噂が立つってことは、何かしら問題があるんじゃないの?」
「それは、ちょっと事情があったんです」
「ふうん……。でもさ、ラングラルより、ここにいる方がずっと贅沢できるよ。服だって宝石だって、好きなものを買ってあげる!僕はさ、君と一緒にいるのが本当に楽しいんだ。君となら人生を楽しめると思う」
殿下は引き下がってくれない。私へぐいぐいと身体を寄せてくる。
「私はそのような贅沢に興味はありません。今でも十分な暮らしをさせて貰っています。それに殿下には、あんなに慕って下さる婚約者が三人もいらっしゃるじゃありませんか」
「あいつらが慕ってるのは僕が王子だからだよ。上辺だけさ。それに何でもかんでも『殿下の仰るとおりに致します』としか言わないから、つまらないんだ。子供の頃はもう少し面白い子たちだったのに」
私は少しカチンときた。
シビーユ様たちは、本当にイヴォン殿下を慕っていると思う。彼女たちが殿下へ従うのはそうあるべしと育てられたからだ。この国に入ってからひしひしと感じる、女性に対する差別感情。それを子供の頃から仕込まれてきたのだから。
「それは、彼女たちが殿下へ服従するように言われているからでしょう!?そのような仰りようは酷いと思います」
「何を怒ってるの……?分かったよ。そんなにあいつらが気に入らないなら、婚約は破棄するよ。僕は君だけいればいいもの」
「なっ……!」
マティアス殿下に婚約破棄を言い渡された、あの記憶がまざまざと蘇る。
私ですら、しばらく引きずったのだ。まして高位の貴族令嬢であるシビーユ様たちは、どんなにお嘆きになるか。
この方はゼナイド様と同じだ。
目下の者が何に苦しんでいるかなど、考えようともしない。
「婚約破棄なんて軽々しく言わないで下さい。それがどのような結果をもたらすのか、少し考えたら分かりませんか?シビーユ様たちをこれ以上苦しめないで!」
「なんであいつらにそこまで気を使わなきゃならないのさ」
激怒する私に対して、イヴォン殿下はきょとんとした顔で答える。
「王族なんだから、下の者に対してあまり踏み込むなって父上は言っていたよ」
「それは、執政者として高い目線にあるべきということだと思います。自分の周りの人たちを大切にしないのとはまた別の話です。少なくともフェリクス様は私のことは勿論、部下も大切に扱っています。そんな彼を私は尊敬しているし……愛しているの」
殿下が目を見開いた。
「イヴォン殿下。貴方の素晴らしい行動力と、新しいものを好む柔らかな感性を尊敬しております。どうかもう少しだけ、周りの人々の声に耳を傾けて下さいませ。そうしたら、きっと貴方は立派な王族になられるでしょう」




