87. 救いの手 ◇
落下に伴う腑が捻れるような感覚に抗いながら、俺は必死で崖肌の蔦を掴もうとした。
だが、手が届かない。
上から見た崖の高さを思い出し、肝が縮む。
嘘だろう!?
死ぬのか、俺は。こんなところで?
嫌だ。俺にはまだやりたいことがある……!
「ジェラルド!」
名を呼ぶ声と共に、シャンタルが降ってきた。いや、落ちてきた。
落下しながら、俺へ必死に手を伸ばしている。
彼女の手が俺の右手を掴んだ。
「風の輪舞!」
詠唱と共に風が巻き起こる。
俺とシャンタルを巻き込むように暴風が唸り、ふわりと身体が浮く。
だが、既に地面はすぐそこだった。
ドガッという音と共に、激しい衝撃を感じた。地に背中を打ち付けたのだ。
身体が跳ね上がり、また落ちる。
そのまま二人で重なり合って転がった。
回転が止まった頃には、二人とも土だらけになっていた。
「うーむむ……。怪我はないか、シャンタル」
地面へ寝転がった俺の上に、うつ伏せ状態のシャンタルが乗っている。
普段ならば大変喜ばしい体勢だが、今は彼女の無事を確認する方が優先だ。
シャンタルがうーんと唸りながら上体を起こした。
見たところひどい怪我はしていない様子に、安堵する。
「何とかね。ジェラルドこそ、大丈夫か?」
「ああ。背中が少し痛いが、大事ない」
「良かった……。重いだろう、今どくよ」
そう言って俺の上から降りようとする彼女の腰を抱き、引き留める。
「いや、全然重くはない。何ならしばらくこのままでも……あいたっ」
叩かれてしまった。
「この状況ですることか!?常に性的悪戯してなきゃ死ぬのか、お前は!」
「愛情表現だが?」
シャンタルは顔を赤くしながらあんぐりと口を開ける。
「照れたのか。愛いな」
「呆れてるんだよ」
ぶつぶつ言いながら立ち上がるシャンタルに続いて、俺も身を起こした。
見上げるとそびえ立つ崖が目に入る。
あの上から落ちてきたのだ。シャンタルがいなければ、命は無かっただろう。
「まさか、君まで飛び降りるとは思わなかった。本当に、君はいつも俺の想像の斜め上を行くな」
「仕方ないだろ!それとも、助けなきゃ良かったのか?」
「そんなわけはない。感謝している。俺を助けようと必死だったのだろう?」
「そりゃあ、目の前で死なれたら気分悪いし……」
シャンタルがそっぽを向いた。その頬は勿論、耳まで赤くなっている。
……もしやこれは。
機会なのでは?
そうと決まれば疾風迅雷が俺の流儀だ。この機を逃しはしない。
眼と声に最大級の愛と甘さを込め、彼女へと囁きかけた。
「君はいつだって、俺の救いの女神だ」
そっと、彼女の頬へ触れる。
シャンタルは一瞬身体を固くしたが、手を振り払おうとはしなかった。俺を見る瞳が揺らいでいる。
いける。
俺は確信した。
「……シャンタル。愛している」
彼女へ顔を近づける。
唇と唇が触れそうになった、その途端。
「殿下ー!ご無事ですか!?」
俺を呼ぶ声が聞こえ、シャンタルが慌てて俺から身体を離した。
もう少しだったのに……。
ガサガサと木々をかき分けながら表れたのは、俺の護衛騎士たちだった。
くそっ。空気の読めない護衛だ。
減給してやろうか。
「よ、良かったあ……。落ちられたときはもうダメかと……」
「シャンタルのおかげだ」
「そうでしたか。シャンタル様、なんとお礼を申し上げれば良いか」
半泣きで俺の無事を喜ぶ彼らに、怒りの矛を収める。
まあいい。
手応えはあった。
もうすぐだ。もうすぐ、シャンタルは俺へ堕ちるだろう。
彼女をこの腕に抱く瞬間が、待ち遠しくて仕方ない。




