0. プロローグ
「アニエス・コルトー!貴様との婚約は破棄させてもらう!」
華やかな夜会の会場が、しんと静まり返った。思い思いに会話を楽しんでいた貴族たちは、何ごとかと声の主を見る。
大広間の真ん中に、先ほどの発言をした青年がふんぞり返っていた。さらりとした金の髪に優美な服装の彼は、このハラデュール国の第二王子、マティアスだ。その脇には、ブロンドの髪をアップにして、これでもかというくらいドレープのかかったドレスに身を包んだ令嬢が、寄り添うように立っている。
一方で、アニエスと呼ばれた令嬢は、困惑した表情で立ち尽くしていた。背丈は低く痩せぎすで、ブラウンの髪を肩へ垂らしている様子からは、幼い印象を受ける。身にまとっている簡素なドレスは、ブロンドの令嬢の豪奢な服装とは比べ物にならない。
「あの、マティアス殿下。どういうことでしょうか?私どもの婚約は国王陛下からのご命令で……」
マティアス王子がふん、と鼻を鳴らした。
「そもそも、貴様がこの俺の婚約者に選ばれたのは、精霊使いだからだろう。だが先日、このナディーヌも精霊使いの素質を持っていることが分かった。それならば、平民のお前よりクラヴェル侯爵家の令嬢である彼女の方が、俺の妃としてふさわしい」
言葉を失ったアニエスへ見せつけるように、マティアス王子はナディーヌの細い腰を抱き寄せる。「殿下ったら人前でこのような……」としなを作りつつ、ナディーヌは底意地の悪い笑みを浮かべていた。
「平民のお前がこの俺と婚約したこと自体、前々から納得いかなかったのだ」
「きっと殿下と結婚したくて、師匠に頼み込んだのでしょう。平民の癖に、さもしい女ですわ」
「ちょっと待ったぁぁー!!」
観衆を掻き分けて現れたのは、ウェーブのかかった赤い髪を腰までたらし、赤いドレスに身を包んだ女性だった。ドスドスと足音を立てて歩み寄ると、彼女はアニエスを庇うように、王子たちの前に立ちはだかった。
「おお、シャンタル殿だ」「あれが”炎のアルカナ”と名高いシャンタル殿?」
観衆たちの目はシャンタルにくぎ付けだ。尤も、男性陣は彼女の豊満な胸が見えそうで見えない、大胆に開いた胸元の方に注目していたが。
「引っ込んでいろ、シャンタル。これは俺とアニエスの問題だ」
「なに言ってんだい。私はアニエスの後見人だよ。婚約破棄とはどういうことか、説明してもらおうか」
「貴様、王子たる俺に向かって何だ、その口の利き方は!全く、お前みたいな師匠に育てられたから、アニエスが常識のない女に育ったんだ」
「はああ?こんな場で突然婚約破棄を言い出す殿下こそ、王族としての常識をどこかに落としてきたんじゃないかねえ?」
図星を突かれたマティアス王子の顔が赤くなった。
「だいたい、私の可愛いアニエスのどこが不満だってんだ。頭もいいし気立てもいい。器量だって悪かあない。おまけに精霊士見習いとしても優秀だ」
「精霊使いならばこのナディーヌにも資質がある。しかもアニエスと同じ三属性だ」
「ふうん?」
シャンタルがじろり、とナディーヌを見る。眼光の鋭さに慄いたのか、ナディーヌはマティアス王子の後ろに隠れてしまった。
「そこのご令嬢に、精霊使いの素質があるとは思えないけどね。ま、いいか。婚約破棄は承ったよ。こっちだって望まない婚約だったんだから。アンタみたいな尻軽王子には、そこの頭の軽そうなご令嬢がお似合いだ」
「何だと!大精霊士だか何だかしらんが、そっちだって所詮、魔法を使うしかない根なし草だろうが」
「精霊使いと精霊士の違いも分かってないのかい。尻だけじゃなく頭も軽いんだね」
「お、落ち着いて下さい、お師匠様!」
もはや子供の喧嘩である。
観衆たちは彼らを冷めた目で見つめていたが、興奮した当人たちはそれに気づくどころか、どんどんヒートアップしていった。
「アニエスだって令嬢として色々足りてないだろう。特にそのちんちくりんで色気のない身体が気に喰わん。少しは外見を磨けばいいものを」
「……この場は我慢してやろうと思っていたのに。愛弟子をそこまで言われて、この私が許すと思うかい?」
シャンタルの顔が怒りに染まっている。弟子の制止する声も耳に入らないようだ。
彼女の振り上げた右手に、炎が現れた。炎は生き物のようにくねり、大きな拳の形になっていく。
「炎の鉄槌!」
シャンタルの詠唱と共に、炎の拳がマティアス王子に直撃した。
大広間に轟音が響き渡る。
マティアス王子が悲鳴を上げる間もなく吹っ飛ばされ、壁に激突したのだ。
「きゅぅ……」
「殿下、殿下!お気を確かに!」
その場に残されたのは、気絶したマティアス王子に縋りつくナディーヌと、顔を覆っているアニエス。そして、(やっちまったな……)という顔で彼らを眺めている貴族たちだった。