接触!!
シケチョジュノザカ。幼虫でもないくせにシワだらけ、それでいて意外性もなくブスな芋虫。オレが発見した。当時は、砂漠での昆虫採集を請け負って生計を立てていた。ふと思い出しただけである。
この街は忙しい。たった今、目の前で新しいビルが完成したかと思えば、次に一歩踏み出すときには、後方から爆破とともに古いビルが崩壊したのが聞こえてくる。そういった変化に次ぐ変化を目の当たりにしたとしても、そう簡単に変わることがないのが人間というもので、この働き盛りの真っ昼間から、思い出を引っ張り出して懐かしんだとしても、ぜんぶ街とオレとのギャップのせいなのだ。
「せいって、ほどなのかあ? 悪いほどことのせいかあ?」
道に住む酔っぱらいが、自販機に寄り添って冬の寒さをしのいでいる。あいつの言うことはいつも耳につくのに、たったの一文字として頭に入ってくることがない。
「ああ、さみいさみい。おい、なんだよお。持ってくな。オレの自販機持ってくな! おい作業着! 勝手に自販機持ってくな! おい待てえ!」
仕事ならば街中に転がっている。そう叫ばれて間もなく一年が経とうとしていた。オレは依頼があると呼びつけられ、仕事をしに向かっている途中だった。
四番街へ入ってすぐのところに、老舗のそろばん教室「阻ま珠算」が軒を構え、その隣に新しくハンバーガー屋ができた。全面ガラス張りの二階建て、テラス席もあれば特定の国籍や思想向けメニューも販売、「レイシストまたはロリコンお断り A級戦犯歓迎」、店先の立て看板にはチョークでそう書かれていた。オレは帽子を深く被り直し、うまくレイシストとロリコンを隠しながら入り口をくぐった。
店内を見回していると、今日の依頼主は一足先に着いていたようだ。手を振って席を知らせてくれている。それにちょうどウェイターが注文を聞きに来ていた。
「私は先に頼ませてもらったよ。君も何か頼むかい。」
「ああ、僕はあまりお腹が減っていないので、じゃあコーラだけ。」
「そうかい。じゃあそれでお願い。」
かしこまりました、とだけウェイターは学生バイトの声色で去った。
「いや、それにしてもよく来てくれた。さっそく本題に入りたいのだけれど。」
依頼主はそれが癖なのか、さっきからずっと片方の手で安全ピンを閉じたり開けたりしている。かなり慣れた手つきである。
「ええ、もちろん。そのために来ましたから。」
依頼主は説明を始めた。それが終わるころには注文も運ばれてきた。
「……まあこんなところだ。なに、そう難しくはないさ。その探してほしい男というのが、実に見分けのつきやすいやつでね。多分、事前に写真を見なくたって問題ないくらいだ。」
「見なくても分かることがあるんですか。一応、写真は見せてもらいたいですね。」
「写真が見たい? そうか、弱ったね。実は写真を持ってきていないんだ。でも安心してくれ。本当に、絶対に見分けがつく男だから。親の目を賭けたっていい。」
「変わった言い回しをするんですね。親の目を賭けるって。」
「そうかもね。新潟か西アジアの海沿いの地区の言葉だよ。」
どちらか二か所の候補が、ここまでかけ離れることなどあるのだろうか。依頼人の曖昧な答えに、オレはどうしても怪訝な顔つきになっていたらしい。
「ああ、幼少期に遠くに住んでいたのだけれど、あんまり小さかったから場所はハッキリと覚えていないんだ。地理を学習するほど長い滞在ではなかったし、それでもこうして方言を吸収してしまうくらいには社交的な子供だったんだ。変な答え方をしてすまない。」
「そういうことだったのですね。けど、人の外見で国内外の見分けはつくんじゃないですか。」
「君は人種差別主義者なのか。」
正体を見破られ、鼓動が早くなるのを感じた。正直、さっきの質問にそんな意図はまったくなかったのだが、道のりは違えど結局は見破られているのである。依頼人はオレのことを軽蔑の目で睨み、安全ピンをいじる手だって止めてしまっている。
だからといって動揺してはいけない。穴だらけの推察にやられてたまるものか。オレはまず、キョトンとした表情をするよう努めた。そんな言葉初めて耳にしましたと、顔で白状する演技だ。
「え、違いますよ。」
しかしここで意味を深く聞いてはいけない。知ったかぶりをするのだ。本当に知らない人間ならこの場面で、知識よりも面子を大切にするはずだからである。そして相手にターンを渡さないよう、すかさず話題を戻す。
「で、その男はきっとよっぽどの顔なんでしょう。さあ特徴を聞かせてくださいよ。」
「ああ、そうだったね。アイツの特徴ね。」
依頼人は片手で安全ピンをカチャカチャするのを再開した。
「うーん、口で言うのもまた難しいのだけれど、まあなんだ。カーペットを頭に一周巻きつけた、そんな顔だ。」
「それも方言ですか。」
「東京弁で言葉通りさ。」
「ますます分かりませんね。」
「言っただろう。口で言うのは難しいんだ。アイツの姿を見れば、きっと君だって私と同じ症状になるよ。自分の言語野が、焼けるような渇きを訴えだすんだ。」
依頼人は安全ピンの方の手を頭の横で震わせて、その焼けるような渇きを表現し、一度でコップの水を飲み干した。オレは、理解しなければバツが悪いような気になった。
「けど同時に、その感覚が発見の合図でもある。合図を感じたら、奴にこの封筒を渡す。そしてアイツからも頼まれるだろうから、それからは二人で仕事だ。さあ、会計はしておく。さっそく探しに行って欲しい。思ったより時間を食ってしまったから急いでくれよ。」
オレは封筒をポケットにしまい、ハンバーガー屋を後にした。全面ガラス張りだったせいか、あまり外へ出たという解放感は少なかった。
人探しはどうしても手当たり次第にやっていくしかない。特に今回のように、事前情報が少なければなおさらである。オレはとりあえず人の多いところへと、最寄りの樽米駅へ向かうことにした。
樽米駅前はいつ訪れても変わりなく、見渡す限り人でごった返していた。それは狙いの通りではあったものの、却って探しづらいのかもしれないという今更過ぎる懸念を生んだ。それでも手当たり次第にやるのは変わらないのだが、樽米駅構内に入ったあたりで、オレは、ひどく喉が渇き始めた。あんまりにも急だったので、オレは周りの目もはばからず、自販機の水を買ってその場で飲んだ。飲み干して、また自販機で買って飲む。これも飲み干すと買って飲んで買って飲んで、とうとうボタンに売り切れの表示が浮かんできた。
「おいおい。やめろよ、今から一緒に仕事だってのに、みっともないよ。第一、君が乾いているのは喉じゃないだろう。自分の頭がおかしくなっているのをそろそろ認めたらどうだ。」
「誰だ、誰だ。今はやめてくれ。しんどい。」
朦朧と声の方を振り返る。するとその声の主こそが、ハンバーガー屋で探すよう頼まれた男なのだと、確信せざるを得なくなるような、気ダルい水星の臭気にオレの頭は支配されてしまった。
「支配されてしまった。」
「は?」
口を動かすことすら辛いというのに、湧いてきた言葉を発さずにはいられない。まったくの制御不能。こいつだ。「こいつだ。」封筒を。「封筒を。」
「ああ、そうだ。封筒だ。君が倒れちまう前に受け取りたい。ほら、くれ。どうした。腕が動かせないのか。しょうがないな。右のポッケかな……あったあった。封筒、確かに受け取ったよ。」
「封筒を取り出そうと、右ポケットに手を突っ込む。おかしい、封筒が失くなっている。ここに入れたはずなのに。記憶違いかと、左のポケットも探すが、こちらにも封筒はない。まさか駅まで歩く間に落としてしまったのだろうか。あるいは盗まれるほどのものだったのか。」
「おーい。貰ったからね。おーい聞いているのか。」
「オレの焦りを知りもしないで、男がしつこく話しかけてくる。オレは余裕なくイライラしてしまい、なんだよ! ちょっと黙っていてくれ。おいそれ、オレの封筒じゃないか! なんでアンタが。」
「だから貰ったって言っているだろう。」
「貰ったって、そんなこと言われてもどういう……。そこで口をつぐんだ。自分がいつの間にか仕事を済ませていたことに気がついたからだ。理由や仕掛けは分からないが、別に報告書をつくる訳じゃない。吹き出た汗が一斉に引っ込んだのが分かった。」
「いつまでそれを続けるつもりだい。一回あっちの壁のところで休もう。ここじゃ人の邪魔になる。」
「そうする。肩でも足でも貸してくれないか。」
「そうしてあげたいのだけれどね。君のその症状は明らかに私のせいだ。ここまで酷いのは珍しいけれど。とにかく、私に触れてしまえば君の症状はさらに悪化してしまう。悪いけど自力で頑張ってくれ。」
頑張った。壁にもたれた。
「先に言っておくけど、私の顔を見てはいけないよ。一度見ただけでそれだから、今また見てしまったら多分君は死ぬだろうね。」
ガムを脳に吐き捨てられたみたいな、親和性の高い吐き気が、憧憬にかかった霞の先にチラつく。
「口数が減ったのを見ると、どうやら初期段階は越えたみたいだね。今はきっとロクでもないことしか思いつかないし、それが幻覚になって映ったりしているだろう。だから少し休んで、十分まともな思考を取り戻したらまた教えてくれ。仕事はそれからとりかかろう。」
「大丈夫、まともだ。早く仕事をしよう。」
「バカ言え。まともな人間が、そんな風にまともだと言い張るものかい。仕事のことなら気にしないでいい。今回求められるのは速度よりも精度だ。君は一つ仕事を済ませたのだから、次に向けて休憩する義務があるんだよ。」
さっきから、茶毛の子犬が電気コイルに組み込まれ続けている。三匹で一つ。もう終わりだ。オレはじきに職を失う。あと三時間持つかどうかも定かではない。それをここでじっと待っているくらいなら、その間に少しでも砂漠の方へ逃げ始めるべきなのかもしれない。そうだ、逃げよう。
「ああ! ゴーグルとジープを買いに行くんだ。」
「こらこら、どこへ行くんだ。ほら動くな、そこに座れ。」
「触るな! 失業する!」
「たしかに今逃げたら失業だろうがね。いいから君は休むんだ。」
「分かっている。ヤギにかじられてばかりいられない。休めってんだろう。休むさ。そんなの働くより簡単だよ。休むまでもない。」
卒業式の一同起立で、たくさんの上履きが一斉に体育館の床を蹴り、その傍らにパイプ椅子の接合部分が軋んでいる、あの音が鳴りやまない。自分も式に参加しているというのに、ずっと地平線の先から迫ってくるかのような他人事で、オレはその音に耳の遠近感が破壊され、なぜか天災の前触れかしらと疑った。「自分の目の前にミニチュアの地球があって、その地球上で一同起立が発令された場合、あの音は近くに聞こえるか遠くに聞こえるか」という疑問が生じると、その疑問はあざとく、人類の古典になりたかったと言った。あくる日の朝、別れ際の列車から身を乗り出し、涙が頬を伝って恋人は手を振り返した。
体育館の隅で、女の子が一人えんえん泣いているのに気が付いた。
「大丈夫かい。お母さんとはぐれちゃったのかな。」
「えーんえんえんえん。えーんえんえんえん。」
自分の記憶なのに疑いたくなるほど、本当に文字通り泣く子供だった。
「よしよし、泣かないで。お母さんのこと一緒に探してあげるからね。」
「違う、違うの。」
「迷子じゃないの。じゃあどうしてそんなに泣いているんだい。」
「うぇっぐ……明日が来るなんて容易い!」
「えっと、明日学校へ行くのが嫌なのかな。」
「容易いからこそ、幸福は遠くなっているのだということを、この数日間に何回も何回も悟り、ついさっきから辟易してしまっていたのです。えーんえんえんえん。」
「いや、お嬢ちゃん賢いな! 大丈夫。それだけ賢かったら、きっとお嬢ちゃんの将来にはステキなことが沢山待っているよ。だから元気出して、ね。」
「へーきえきへきえき。へーきえきへきえき。」
「……驚いたね。まさか、この泣いている状況すら、シャレで楽しんでやろうってことかい。すごいなーお嬢ちゃん。それだけの余裕はね、大人にだって中々ないものだよ。お嬢ちゃんすごいよ。」
「うぇっぐ……ありがとうございます。実はママにスマホ取り上げられていて、自己肯定感やばかったので助かりました。それじゃ。」
女の子はすっかり元気になって、スタスタと阻ま珠算教室の中へ姿を消した。気が付けばオレは、四番街に足を踏み入れたところだった。