月見草
富士には月見草がよく似合ふと太宰治が言っていたの思い出して、バスガイドの京子は「富士には月見草がよく似合うと太宰治が言っていたそうです。」と思い出した様に鼻にかかったバカみたいな声でそうマイクで喋った。しかしバスの乗客は誰一人として反応する者がいない。皆無関心な様子で唯ジッと窓の外の景色を眺めて居るだけであった。京子は最近の若い人は太宰治も知らないのだと思って教科書にも載っているのに全く知らないんだわと話した自分が非常にアホらしく思え、乗客全員から無視されているような気持ちにすら思えてきた。京子は華やかなバスガイドという職業にせっかく就いてこれから楽しい事が一杯待ち受けているだろうと思っていたのが完全に裏切られた気持ちで一杯だった。
バスガイドという仕事は立ちっ放しであるので生来体の丈夫でない京子は仕事の終わる再に脚がむくんだり脚が夜中にツッたりして布団の中を転げ回らねばならなかった。京子の様な細身の人間ににはバスガイドはとても努まらないという事が入社して半年にして良く分かった。しかも京子はOLを辞めての勇気を振りしぼっての転職だったのでもう年齢は32才になっていたのだった。京子の過去に交際してきた男性は皆京子を可愛がってはくれたが何故かしら結婚しようとは誰一人として言ってくれなかった。そうして今京子はつき合っている男性もいない儘三十路を越えてしまって非常に焦っていたのだった。会社の同僚は皆次々と結婚して退職していく。京子はそれでアパレルメーカーの事務職という仕事に見切りをつけ、子供の頃憧れていたバスガイドの仕事を見つけ、新しい人生のスタートを切ろうとしていた矢先の出来事であった。
京子はワンルームマンションに帰って愛鳥のセキセイインコに餌をやって配達物を確かめて不要なものはゴミ箱に捨てた。
TVを点けると新しいお笑い芸人が新ネタを披露して会場は大ウケとなっていた。京子はクスリと笑って夕食の準備に取り掛かった。ホウレン草とキウイと卵ぐらいしか冷蔵庫の中には残っていなかったので京子は料理をあきらめて外食に出掛けた。
レストランは夕食時の混雑で15分待たされた。京子は1人でいても一番目立たない席を選んで座り栄養のバランスが一番取れていそうなメニューを注文して今後の身の振り方について思案を巡らせた。どれだけ物事の良い面を見ようとしてもそれには限界というものがあった。今の京子にあるものと言えば・・・と考えてなにも無い事に気付き京子はボウ然とした。一体今までの人生は何だったのかと京子はレストランの外を走ってゆく車にすら憎しみを覚えずにはいられなかった。男性に頼らず生きて行こうと決めた割に京子の人生は男性に振り回された人生だった。
オムライス定食というその店自慢の定食を半分も食べずに京子はお金を払ってレストランを出た。マンションに戻って真っ暗な部屋の電気のスイッチをONにして京子は疲れ切った体を癒す為にシャワーを浴びてお風呂上がりに洗濯物を畳んだ。自分の下着を自分で洗い、自分で干し自分でタタムむのは何か情けない気がしてならなかった。
32歳になって始めて親の有難みというものが少しわかった様な気がして京子はホロリと涙が出て止まらなかった。よく言われる様に自分は親不孝をしてきたの来たのだろうか。
もっと親の言うことをよく聞いて結婚を早くに決めておけばこんなことにはならなかったのだろうか。京子はそう考えずににはいられなかった。京子はしかし月見草のことを思い出して例えどんなに不幸であっても月見草のように美しく胸を張って生きて行こうと京子は涙を手の甲でぬぐった。
次の日、又いつもの様に退屈なバスに乗り、退屈な旅に出た京子は、富士山の麓にバスが差しかかるとマイクを取り上げ今度はかすれたしかし可愛らしい花のある声で
「皆サンコンニチハー。私が今度バスガイド二ナリマシタ村井京子トイイマス。皆サンヨロシクオネガイシマス。」
と皆が驚くほど元気な声でそう言った。