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六角形が崩れるときに

作者: 平谷 望

 昔々、あるところに、冬が終わらない国がありました。その国の隣にある雪山が原因です。雪山の頂上には、一匹の竜が居ました。激しい吹雪と寒さの中、竜は頂上から一歩も動きません。

 竜はその場から動かずに、魔法で冬をもたらしていたのです。


 おかげで国に春が来ることはなく、鳥は眠り、花は種のまま芽吹きません。竜は人間よりも賢かったので、自分がどれくらい人間を困らせているか、どれだけ悪いことをしているかを知っていました。けれど、それでも……竜は冬を続けていました。


 そんな年月を百年通り過ぎたある日、竜の元に一人の青年がたどり着きました。山の頂上はとても、普通の人間が生きていられるような場所ではありません。当然、目の前の青年は身体中に薄氷と霜を下ろし、消えた松明を掲げていました。

 けれど、寒さに震える青年は、竜を見て言いました。


「貴方が、この冬の主か」


 竜は少し考えて、頷きました。すると青年は続け様にこう言いました。


「どうか、立ち去ってほしい」


 当然、そう言われるだろうと竜は予想していました。なので予想していた質問に、首を横に振ることで答えました。竜は冬を終わらせるつもりはないのです。

 とはいえ、これで多少面倒なことになるだろう、と竜は思いました。目の前の青年は納得しない筈です。最悪、剣を交えようとしてくるでしょう。そうなれば、竜は青年を倒すしかありません。


 どうか、そうならなければ、と竜が思っていると、青年が言いました。


「おれは冬を終わらせる為にここにきた。つまらないが騎士の物真似をしている」


 青年は騎士を名乗りました。これでは戦いは避けられないでしょう。そう思った竜に、青年は言いました。


「国の民を、これ以上飢えさせる訳にはいかない……が、おれには剣の才能がとんとない。代わりといってはなんだが、寒さには強いつもりだ」


 だから、と青年は続けます。


「おれはここに留まる。貴方が冬を終わらせるまで、おれは帰るに帰れないんだ」


 竜は困りました。目の前の青年の言葉が予想外であったのと、その結果が見えていたからです。この場所は、寒いという一言では言い尽くせません。吐いた息が凍り、まぶたが開かなくなる寒さです。そこに、青年は留まると言いました。見た限り、青年は斧と鞄の一つしか持っていないようです。


 寒さに強いと口にしても、一時間もすれば氷の彫像になるでしょう。竜はやんわりと、金色の目で帰ることを勧めましたが、青年はもう見ていません。何やら足元を掘り、穴蔵を作ろうとしています。


 竜は鼻からため息を吐きました。そして、青年から目を逸らしました。どうせ、この寒さに耐えきれず、すぐに帰っていくだろう、と。


 青年は少しの間穴を掘ると、竜へ背中を向けて帰っていきました。竜はその背中を少しの間見ていましたが、元々それほど興味のない相手です。直ぐに視線を逸らしました。


 暫くして、竜の聴覚が音を捉えました。見てみると……なんと先程の青年です。片手に斧を、片手に兎を掴んでいます。青年は竜を見て、そしてその視線の先にある兎を見ると、言いました。


「運よく兎を捕らえたが、血が凍って地抜きが出来ない。間抜けなことだ」


 肩を竦めながら、青年は穴蔵に潜っていきました。竜はようやく、とんでもない奴が来た、と理解しました。

 それから、竜と青年との暮らしが始まりました。青年は睫毛が凍る寒さに身震いを一つだけして、当然のように山頂に居座っています。朝昼晩に適当な食事を引っ提げては、それを(かじ)って竜に言うのです。調子はどうだ、と。


 当然、他の話も青年は口にします。当たり前ですが、暇なのです。


「貴方は寒くないのか」


「貴方に名前はあるのか」


「貴方は何も食べなくていいのか」


 (しま)いには、竜に食事を分けようとする始末です。そんな日が何日か続いたある日、竜は青年をギロリと睨みました。同時に下ろしていた腰を上げ、牙を剥き出しにして青年を威嚇します。

 もう、ほとほと面倒だったのです。青年の根性は認めましたが、それと竜の機嫌とは話が別です。


 普通の人間では心臓が止まるような威圧を受けた青年は、まばたきを何度かして、言いました。


「殺すなら殺すといい。おれは貴方に勝つ算段なんぞ一桁もないからな」


 おれは馬鹿なんだ、と青年は言いました。まさか、本当に何の考えも無しにここまで来たのか、と竜は疑いましたが、青年は嘘をついているように見えません。どうやら、本当の本当に馬鹿のようです。


 竜が呆れてため息を吐くと、青年は太い眉に積もった雪を落として、兎肉を一齧りしました。どうやら、青年と竜との共同生活はまだ終わるきざしにないようでした。


 それからまた、幾らかの日にちが経ちました。二週間か、それ以上か。けれども、相変わらず青年は竜の足元に暮らしています。本当に竜が冬を終わらせるまで、帰らないつもりなのでしょう。最初こそ気味悪がっていた竜でしたが、ここまで来るともはや慣れがやってきます。


 遂に反応らしい反応を見せなくなった竜の傍らで、青年は毎日話をしました。憧れている騎士の話、好きな料理、自分の家族構成。竜は片っ端からそれらを無視し、青年はそれでも話を続けました。


 そんな日が幾日も、幾日も続いたある日。青年が、自分の知っている童話について話始めました。当然のように竜はその話を聞き流そうとしましたが、聞き取ってしまった言葉尻だけでもその話は面白く、悔しいながらに興味を示してしまいました。

 それをきちんと見抜いた青年は、次の日から童話や物語についての話をしました。


 星を詠む占い師や、神の啓示を騙った神父の話。七色に咲く花と、それにまつわる英雄譚。神々の水瓶と星座の話。


 竜は次第に、青年の話に耳を傾けるようになっていました。次第に、といっても、かなり長い時間を掛けてです。一ヶ月、二ヶ月。それよりも長い時間を掛けて、竜はいつの間にか、青年の話を楽しみにしていました。当然のように青年の持っていた昔話の種は切れ、またいつもの下らない話に戻っていましたが、それでも竜は話を聞いていました。


 竜が話を聞いてくれるようになると、男は機嫌を良くして話をします。


「貴方がたにもやはり、性別はあるのか?」


 竜は頷きました。男は驚いたような顔をしています。余程衝撃的だったのでしょう。男は両目を大きく見開いていました。


「竜というと、皆男のようだという印象が強いが……確かに、そうなれば、どうやって繁栄するのかという話だな」


 青年は手元の兎肉を大きく齧って、もうひとつ質問をしました。


「貴方に、名前はあるのか?」


 竜は少し考えました。少し考えて……そして、頷きました。またまた青年は驚いたような顔をします。その様子を見つめながら、竜は小さくため息を吐きました。そして、一度青年の目を見ました。目を丸くして驚く青年の目は、吹雪の中で溶けるように青く、純粋な目をしていました。


 青年は竜に名前を聞こうとしましたが、当然竜は言葉を話せません。なので半分開いた青年の口には、尖った雹が幾つか入り込んでは閉じてしまいました。


 そんな日から更に幾日、竜はずっとあることを考えていました。もう、一つの季節が巡るであろう時間、青年はここにいます。きっと、これからも青年が諦めることは無いでしょう。それこそ死ぬ位でなければ馬鹿は治らないと、竜はよく知っていたのです。


 けれども、青年には家族が居ました。今まで聞き流していた話の中で、妹が居ることも竜は知っていました。家族を置いて、青年は冬を終わらせる為にここへ向かってきたのです。

 それを知っていて、その言葉を聞いて、それでも冬を続けるのはどうなのだ、と竜は悩んでいました。まるで思う壺だと分かっていても、それでも竜は考えました。


 そして、青年が現れてから、夏が過ぎる程の日々が経った時、竜は決めました。


 冬はまだ、終わらせない、と。


 しかし同時にこう答えを出しました。代わりに、この青年に理由を話そう、と。どうして冬を続けるのか、どうして毎日吹雪が続くのか。


 ある日、いつも通りの雑談が過ぎる中で、竜はゆっくりと四足を起こしました。長く降り積もり、凍っていた雪が音を立てて竜の体から落ちていきます。それを呆然と見上げた青年へ、竜は金色の瞳を向け、そしてずっと丸く巻いていた銀色の尻尾をゆらりとほどきました。


 青年は何が何だかさっぱりでしたが、それでも竜の瞳を見ると、何を伝えたいのかは分かりました。ゆっくりと下ろしていた腰を上げて、吹雪の中を立ち上がると、青年は竜の尻尾のあった場所を見つめました。


「……花、か?」


 青年が見つめた先には、小さな花が一輪咲いていました。竜の目を見て許可を取り、青年はゆっくりと花に近づきました。近づいた花の色は目が覚めるような白で、吹雪の中でもよりいっそう白く、六つの花弁が正方に、慎ましく咲いていました。人間の手のひらに乗るほどの花は吹雪に揺られ、けれども太い茎は軽く揺れるのみで危なげない様子でした。


 青年は、その花を知っていました。この国ではさして珍しくもない、普通の花です。名前も知らないような、そんな凡庸な草です。けれども、この花が少し不思議な性質を持っていることを、この国の子供は全員知っていました。


 この花の花弁は、全て氷で出来ているのです。詳しく言えば、雪を固めた氷です。この花の氷の中に、本当の花が埋まっていて、その花びらが降る雪を少しずつ捕まえて、この花が生まれるのです。

 子供はみんなこの花を手で掴んで、誰が一番長く溶かさないでいられるかで勝負をしていました。


 その花を、竜は守るようにして山頂に居座っていたのです。青年は問いました。


「貴方が冬を続けるのは、この花が()るからなのか?」


 竜はゆっくりと頷きました。そうか、と青年は呟きました。普通の人間であれば、この状況で小さな邪念を浮かべるでしょう。この小さい花を一踏みでもしてしまえば、きっと冬は終わる。百年続いた霜は、きっと溶ける。

 けれど青年は、そんなことを浮かべもせず、こう呟きました。


「そうか。それなら安心だ」


 竜は驚きました。どれだけ酷い言葉を浴びせられるか、内心怯えていたのです。花ひとつの為に何人を殺したのか、凍えさせてきたのか。勝手な自己満足と欲求を満たすために、百年冬を続けてきたのです。

 向けられる言葉の、その全てを竜は受け入れるつもりでした。けれども、青年は吹雪の中で笑いました。


「冬に苦しむ人々を見て悦楽に浸っている、という訳でないだけで安心できる」


 黙りこくる竜に、青年は続けました。


「おれは貴方と話していて、分かったことが二つある」


 一つは貴方がおれのような馬鹿では決してないこと。と青年は言いました。


「もうひとつは――貴方が、おれの思っていた以上に優しい竜だったということだ。貴方がこの花を守るのにも、きっと理由があるのだろう。きっと、絶対、優しい理由に違いない」


 そう言うと、青年は花から離れました。そして、いつもの場所に腰を下ろします。その所作の始めも終わりも、竜は驚きに動けずにいました。そして、青年が欠伸一つに竜を見上げた頃、漸く状況を理解して、竜は笑いました。他から見ればひきつった不器用な笑顔でしたが、笑うことを想定されていない竜の顔で、それでも漏らした笑顔でした。


 竜は慎重に青年の元に寄り、そして青年の目の前の雪面にゆっくりと鋭い爪先を触れさせました。そして、その表面を記憶に(なぞら)えて、丁寧になぞります。暫くして、青年の目の前の雪には、こう記されていました。


『わたしのことをはなす』


 子供が適当に書いたような、乱雑で震えた文字でしたが、青年にはその爪先の力加減がしっかりと伝わりました。ものを壊すための爪で、生き物を殺すための腕で、この文字を書くためにどれだけの努力を積んだのか。

 感嘆する青年の目の前で、その文字は吹雪に埋もれ、そして竜はもう一度爪を雪に触れさせました。


『わたしは、むかし、ひとにこいをした』


『わたしはそのころよわいりゅうだったから、みつかるとひとにねらわれてしまった』


『そのひとは、おそわれたわたしのことをたすけてくれた』


 竜の脳裏で、一つの記憶が交差しました。血塗れで頭を下げる竜と、同じく血塗れの武器を構えた人間たち。竜の体はいい素材になります。武器にも、建材にも、薬にもなります。角や骨は剣に、腱は弓の弦に、翼膜は船の帆に。長く生きた竜であれば人間など取るに足りませんが、幼い竜であれば命を落とすことも少なくなかったのです。


 そんな幼き日の竜の前に、一つの大きな影が掛かりました。目の前に居るのは、大きな斧を片手に持った、これまた大きな人間でした。人間は何だか居心地悪そうに竜の前に立つと、(なま)った言葉でこう言いました。


『子供一匹に大人が集まって、情けねえことしてんじゃあねえよ』


 当然、竜を襲った人間たちは納得しませんでした。お宝が目の前に倒れているのです。しかし、男も竜の前から動きませんでした。人間たちが剣を抜いて脅しても動きませんでした。終いにはたった一人、斧一本で人間たちと戦い、全員を追い返してしまいました。

 とはいえ、その体は竜と同じく傷まみれ、血まみれで、立っているのもやっとな傷でした。


『いってぇな』


 それだけ言うと男は竜を背中に背負って、竜を自らの山小屋へと連れていったのでした。その時、男の背中から伝わってきた熱が、竜に憧れと幾ばくかの感情を芽生えさせました。

 その男が、竜の初めての恋の相手でした。


『かれはきこりだった』


『わたしは、かれのおおきなせなかがすきだった』


『だから、たくさんことばをれんしゅうした』


 笑顔も覚えた。喋れはしなかったけれど、彼は不思議にわたしのことを理解してくれた、と竜は雪に綴りました。そして、それまで無意識に柔らかく曲げられていた瞳が、寂しそうな曲線を描きます。青年には、竜の指先が小さく震えているように見えました。


『けれど、あるひ、かれはすこしのあいだでかける、といった』


『すぐかえる、といっていたけれど、わたしはしんぱいだった』


 駄々を捏ねる竜を予想していたように、男は竜を山の上につれていきました。そこには……一輪の、小さな花が咲いていました。男ははにかみながらそれを指差して、こう言いました。


『この花が溶けるころにゃ、帰ってくるさ』


 その頃、ここは四季のある国でした。一年の内、雪が降ることはあまりなく、雪の花も山の上でなければ咲いていないような国でした。加えてその頃季節は冬の終わり頃で、竜はそれなら、と渋々納得をしました。

 納得を……してしまいました。


 吹雪が僅かに強まり、竜は幾らか呼吸を置いて、こう綴りました。


『けれど、かれはかえってこなかった』


『はるがきて、はながゆっくりとけても、こなかった』


 簡単な話です。ずっと前に、竜を追い詰めた人間たちの中に、とても高貴な身分の人間が居たのです。それを傷つけた男は、人間からすれば大罪人でした。

 山奥に住む彼を誘き出すために、人間たちは男と面識のあった人間を、男の代わりに処刑すると宣言しました。


 同僚のきこりと、その家族。子供の頃からの親友。学校の恩師。それを、自分一人の身勝手の為に殺させる訳にはいきませんでした。だから、男は一輪の花を残して、竜の元を去ったのです。もう二度と出会えないことを知りながらも、いつも通り笑ってみせたのです。


 ただ一言……ごめんな、という言葉を飲み込んで。


 残された竜は、ひたすら男の帰りを待ちました。ゆっくりと溶けていく花の姿に恐怖を覚えながら、それでも男を待ちました。けれど……それでも、男は帰ってきませんでした。

 日々が過ぎるにつれて、竜の心は段々追い詰められていきました。捨てられたのか、そんなはずはない、と何度も考えました。


 考えて、考えて、考えて……そのあいだにも時間は過ぎていきます。季節は巡っていきます。

 そして、雪の花の花弁が一つ千切れ落ちようとしたとき、竜は思いました。


 ――まだ、この花は溶けていない。


 そうだ、溶けていない。まだ、きっと彼は帰ってくる。



 この花が溶けることさえなければ。



 だから、竜は冬を生みました。男と過ごす間に育てた力で、精一杯の雪雲を作りました。考えに考え抜いた竜が出した決断が、これでした。竜は受け入れられなかったのです。大切な人が自分を置いていったという現実が、どうにも耐えられませんでした。


 竜の守る花は、男との大切な約束の証明書であって、心の底からの思い出であって――彼からの、最後の贈り物でした。


『わたしがふゆをつづけるのは、かれがたいせつだからだ』


『かれに、きえてほしくなかったからだ』


 不器用な、不器用な恋でした。身の丈に合わない恋でした。竜が人に恋をするなんて、馬鹿馬鹿しいほどのお伽噺とぎばなしでした。

 竜は少し悩んでから、もう一度爪を雪に触れさせました。


『もしかしたら、わたしはにんげんをうらんでいるのかもしれない』


『だから、きみのことばは、すこしこわかった』


 冬に苦しむ人々を見て悦に浸っているのでなくて良かった、と青年は言いました。竜はほんのすこしだけ、この言葉が怖かったのです。


 そんな、竜の言葉と理由を全て受け取って、青年は少しの間、考えるような顔をしました。とても、一人の人間が背負える話ではありません。けれど、青年は真摯に考えました。考えて、こう言いました。


「……まず、事情も知らずに貴方に軽々しい言葉を投げたことを、どうか謝りたい。すまなかった」


 許可も無しにやってきて、簡単に心を抉るような言葉をかけてしまった、と青年は謝りました。竜は驚きに動けずにいましたが、青年は気づかずそのまま言葉を続けます。


「けれども、その上で、おれには冬を終わらせる理由が一つ増えた」


 白い睫毛から、精強な瞳が竜を捉えました。


「おれは先程の男が言った台詞に、覚えがある」


 ()()()()()()()()()。青年はその言葉が心に引っ掛かっていました。というのも、この花にまつわる遊びがもう一つだけあったのです。


 この花は、元々小さな花を持っていて、それが雪を捕まえて氷を生みます。だから、咲いたばかりの花に物をくっ付けると、それを取り込んだまま花が咲くのです。あたかも本に栞を挟むように、氷の中に物が埋まります。


 この国の子供たちは自分の誕生日にこの花の種を植えて、思い出の品を花の中にしまっておくのです。いつか手のひらで溶かして、もう一度昔を懐かしむ為に。


 それを青年は竜に伝えました。そんな事を知りもしない竜は目を大きく見開いて、続いて尻尾の近くに咲いた花を見ました。

 あの中に、もしかしたら――


 けれど、それは難しい決断でした。この百年を続けてきた全てを、自ら壊すのです。大切な思い出を、溶かすのです。竜の金の瞳が激しく揺れました。


「貴方が悩むのは、百も承知だ。おれも、こういってはなんだが、言い出したくせに怖くなっている。……だが、それでもだ」


 それでも、今のままで居てはいけないだろう、と青年は言いました。


「思い出にすがっていれば、見えるものも見えない。見上げた先で誰かが笑いかけていても、見えない」


 百年、貴方は下を向いていたのだ、と青年は言いました。それはこれまでにない、優しい声音でした。

 竜は悩みました。考えました。いつかと同じように、もしかしたら、それ以上に真剣に。


 そして、竜は青年の目を見つめて――ゆっくりと頷きました。


 それを確かに見届けた青年は、ほぅ、と一つだけ深く息を吐きました。湿った吐息は直ぐに凍って、白くなります。そうやってできたあやふやな靄を、青年の首が静かに掻き分けました。目指すのは、白く咲く雪の花です。


 ゆっくりと、青年は花の前に跪きました。そして、雪より白いその花弁を覗き込んで……荒れた指先で、そっと撫でました。

 白い表面が少し削れて、粗い氷が頭を出しました。海の青さにも似たその氷の中には――何か、暗い物があります。


 青年は竜を見ました。竜は不安そうに青年を見つめています。


 青年は凍った唾を飲み込んで、雪の花を見て……それを、両手で優しく包み込みました。ゆっくりと、冷えた感触が青年の両手に伝わります。同時に、手のひらの氷が水へと戻っていくのが分かりました。


 一分か、二分か。もしかしたら、それよりもずっと長い時間、青年は強い吹雪の中で花を握っていました。両手の隙間から、冷えた水を滴らせて、青年は静かに指先を動かしました。


「……あるぞ」


 最早怯えているような様子の竜に、青年は言いました。そして、ゆっくりと折っていた膝を伸ばして、竜の元へと歩いていきます。

 吹雪は益々強まり、一面の銀世界となった山頂を、青年は震えることなく歩きました。


 そして竜の目の前で、ゆっくりと合わせていた手のひらを退かしました。


 濡れた手のひらの上にあったのは――一つの、小さなブローチでした。


 それは、繊細な鉄細工で出来ていて、春に咲く桃色の花を象っていました。そして、その花の中央には……竜の瞳と良く似た、金色の宝石が嵌められています。


 それを見た瞬間、竜の中の時間が止まりました。いえ、竜だけではありません。山の、空の、国の時間が止まりました。降り注ぐ羽のような雪は止まり、吹雪も嘘のように消えました。

 山頂は百年ぶりの静けさを取り戻し、竜は驚きに固まって……嗚呼と(うな)りを漏らしました。


 震えるような、崩れるような唸りです。同時に、竜の瞳が小さく揺れました。

 瞬きや呼吸を忘れ去って、竜は青年の持つブローチを見つめていました。そんな竜の様子に、青年は控えめに言葉を漏らしました。


「……きっと、貴方への贈り物だろう。貴方に、持っていて欲しかったのだろう」


 青年はそう言うと、ブローチを竜の角先に着けました。白い角に小さな金色が、柔らかな調子アクセントを生んでいました。青年は続けます。


「あの花は、確かに貴方にとって大切な贈り物だったのだろう。けれども、この飾りもきっと、彼の大切な贈り物だ。貴方は見えていなかったんだ。百年、氷の箱にそれをしまっていたんだ」


 竜の目が、青年を捉えます。潤んだ金色に、優しく微笑む青年が映っていました。


「彼は、貴方を捨ててなんていないだろう。その花が……きっと、何よりの証左だ」


 百年前の冬から、百年後の冬へ。まるで雪解けのように、春先の花が咲きました。

 百年越しの、男から竜への大切な贈り物は、幾つもの感情であり、小さなブローチであり――そして同じく、小さな春でした。


 この花が溶ける頃にゃ、帰ってくるさ。


 そんな彼の言葉が、竜の脳裏を春風と共になびいて……竜は、大粒の涙を溢しました。竜は、自分の目から流れているのが何なのか分かりませんでしたが、それでもその一滴が流れる度に、竜の心は温かく揺れました。


 ああ、そうか、と竜は思いました。

 貴方を待った百年、そうして来た春の中に……貴方は居たんだ。


 竜が溢した沢山の涙は、その真下にある雪を溶かして、ずっと凍りついていた大地をも溶かしました。剥き出しになった茶色の大地に――ゆっくりと、緑が茂りました。竜の涙を養分にして、凍っていた種が芽吹いたのです。緑は瞬く間に青々と繁り、雪はそれよりも早く溶けていきます。


 竜の魔法が解けたのです。


 青年は、目を見開いて山頂と、空を見上げました。鉄のように動かなかった雪雲が縦に割れて、息をするのが痛いくらいの冷たさが消えていきます。そして、長靴が踏みしめる大地が、色とりどりの花を咲かせました。


「春が、来る」


 青年は無意識に言いました。竜は子供のように涙を流しながら、角先のブローチを感じていました。そこだけまるで、春に笑うように温かいのです。錯覚であっても、竜にはその熱が懐かしいと思いました。懐かしい、熱でした。


 あの日……傷だらけの大きな背中から伝わった温もりと、似ていたのです。


 竜はもう一度、大きな涙を溢しました。その涙は真下に咲いたばかりの小さな花を濡らして、小さな光を灯しました。


 ありがとう、という意味を込めて、竜は青年に声を漏らしました。全く意味をなさない唸りは青年の鼓膜を揺らして、その心に伝わりました。


「礼は要らない。おれは一応……騎士の真似事をしているのだ。誰かを助けるのは、当たり前だろう」


 青年は軽くはにかんで、ゆっくりと後ろへ振り向きました。向いた先には、ずっと前に凍えながら登った山道がありました。そこに積もっていた白い雪はみるみる溶けていき、その後を鮮やかな緑と花々が覆っています。

 いずれ山の麓にある国の雪も溶けるでしょう。溶けて、春が来るのです。


 花飾りを付けた竜をかたわらに、青年はもう一度空を見上げました。快く晴れ渡った空が、青年の青い瞳と鏡合わせのようになっています。目を細めた青年の頬を、温い風が撫でていきました。


 百年冬が終わらなかった国に、ゆっくりと、春が始まっていました。


 六角形が崩れるときに、春が来る。


ご一読、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読んでいて、涙が止まりませんでした。 素敵な物語を読ませていただいて、ありがとうございました。
[一言] 「お、お前、女だったのか~~~?!」 茶々入れて申し訳ございません。 とてもすてきな贈りものでした。愛の証を残す話ってとても好きです。 あと、題名のセンスがすばらしいと思いました。 ありが…
[良い点] うーん、とてもいい話でした。読ませていただき有り難う御座います [一言] やはり良いものですね。短編長編両方書けるのは素敵なことです、頑張って下さい
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