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幸福な出立


 一

 

 一之助(いちのすけ)は山手線の電車に跳ね飛ばされて落命した。

 

 夜道を散歩していたときの事故だった。大雪と冬至の合間で日が短く、悉皆(すっかり)帳が降りていた。

 しかし視界の悪さばかりが、目前に迫る車輌に気付けなかった源因でもなかった。

 

 何のことはない。

 将来のことだとか自分のことだとかについて、頭を悩ましていたのだ。

 思春期という、些細な出来事が大きな感情に直結する時期に置かれた書生としては、度々あるような自問である。

 

 しかしなんら運命的でなければ華々しくもない事故によって、彼の人生は幕引きとなり、その思案も無駄になった。

 

 はずだった。

 

 そこで途絶するはずであった道は、強引に別の路線へと繋がれ、続いていったのである。

 

 そして廃線の先にあったであろう、平凡な未来は永遠に訪れない。少なからず抱いていた将来への漠然とした不安は、全く姿を変え、彼の前に立ち現れる。

 

 

 二

 

 

 世界線の長いトンネルを抜けると異世界であった。

 

 僕が降り立ったのは、高い丘だった。

 草が(くるぶし)くらいまでに生え揃っていた。浅い緑が目に心地好い。

 

 眼下には集落が広がっている。大きくはない。区分としては、村と呼んで相違ないくらいのものだ。

 右手の山と左手の林、そして己を乗せた丘に三方を囲われていて、唯一開けた方角には道が続いている。

 

 空が激しく青い。

 それが余りに綺麗だったもので、南国にある人が始めて雪景色を見たように、暫くの間、(じっ)として空を仰いでいた。

 

 「…………」

 

 言葉にすると粗末にしてしまう気がした。努めて感動を口に出さないようにしていた。

 

 春を想わせる爽やかな風が丘に吹く。胸いっぱいに空気を吸い込むと、肺の中が涼やかになったような感じを覚えた。

 酸素の代わりに生命力を含んだような新鮮な空気が、不信と不安の鬱積した心を洗い流す。

 

 「気に入っていただけましたか?」

 

 そうして感動を味わっていると、背後から声を掛けられた。

 

 声の主を振り向くと、佳景とはまた別種の感動で、呼息(いき)の吸い方を忘れた。

 

 そこにいたのは天使だった。比喩ではない。

 美貌。金色の髪。頭上に戴いた輪っか。初雪のように真っ白な翼。

 天使を見たことがない己にも「ああ、彼女は天使なのだな」と理解できる、辞書通りの風采であった。

 

 「ここはどこなのですか?」

 

 「貴女の問いが、地名を尋ねるものでなければ、国名を尋ねるものでもないことは分かっています。しかし、この世界に名前はありません。貴方の生まれ育った世界にも、全ての国を総称する名前はないでしょう」

 

 地球という言葉が該当しなくもない。が、やはり微妙にズレるのであろう。恐らくはそういうことではないのだ。


 「ここは僕の生まれ育った世界ではないと仰るのですか?」

 

 「はい。ここは、貴方にとって異世界であり、平行世界です。この世界に生きる者からすれば、貴方の生きた世界も異世界であり、平行世界になります」

 

 平行世界という言葉が、異世界という言葉とどの点において異なるのか、僕には判然(はっきり)分からなかった。

 しかしそれを問題とするには、まだ大きな疑問が手前の方にいくつもあった。

 

 「死んだのは覚えています。電車に轢かれて、それで僕は死んだのでしょう。そして、この異世界に()ばれたのでしょう」

 

 己の死を昨晩の献立がごとく話す自分に、僕は内心で驚いていた。

 しかしその淡白は生への執着が薄いことに由来するものではなく、単にまだ死への実感が湧かないが故であろう。

 

 「はい。その通りです」

 

 「一体どうして……僕は人生を続ける特別の理由も持っていない、只者(ただもの)であるのに……」

 

 「貴方は天寿を全うせず、予定された人生の半分も行かない内に亡くなってしまった。その為に、採点ができなかったのです」

 

 「採点とはどういう……?」

 

 書生としての僕が学校で聞くその言葉は、どうにも状況にそぐわないもののように思えてしまって、頭にストンと入らなかった。

 繁華街の雑踏に駱駝(らくだ)でも混じっているような、変な感じがしたのだ。

 

 「天国へ送るには徳が足りず、地獄へ落とすには業が足りなかったために、人生の続きとして貴方はここへ移されたのです」

 

 意外と愉快から、僕は目を丸くし、そして微笑した。


 「面白い話です。ところで、採点基準が透けてしまいましたが、それはよろしいのですか?」

 

 「その分少し採点が辛くなることは、お教えしておきます」

 

 どうやら僕は、元の世界の人間であった時分よりも、幾分か多くの善行を積まなければならないらしい。


 「均衡は保たれるべきなのです。私達が皆、仕事に対して熱心という訳ではありませんが、仕事に対して公平ではありますから」

 

 損をしたような気分になったのは、採点という言葉のせいであろう。

 この言葉のために、試験というものを連想し、この連想のために、追試というものにまで思考が辿り着いた。

 学校の追試験は、本試験に参加できなかった者への救済措置であるが、問題は難化したものが出題される。

 

 言わば己に与えられた第二の生を、追試験に重ねて考えてしまったのであった。

 

 「そう深刻な顔をなさらないでください。貴方が元の世界で得た知識、友人、財産。形あるものもないものも、全てが無に帰すことを考慮して、特別な恩恵を差し上げます」

 

 「恩恵……?」

 

 「手を出していただけますか?」

 

 要請された通りに、右手を前に出す。彼女は左手で僕の掌に触れると、掌を合わせる形で握った。

 

 彼女の手は人肌の柔さと温度を備えていたのにも拘らず、反対に陶磁器でも触っているような感じがした。

 

 「少しクラっと来ますよ」

 

 充分な心の準備を設えるより早く、情報の激流が脳に流れ込んだ。巨人に頭を(つか)まれて何往復も揺さぶられたような、気持ちの悪さと嘔気(はきけ)を催した。

 

 脳への流入が穏やかになると、次は熱を注射された。彼女と接触している右掌から始まり、腕から胴、胴から頭と脚へ、血管の内を走るように伝導していく。

 

 「っ……これ……は……」

 

 全てを注入され終わると、猿から人に生まれ変わったような急変の感覚が残った。

 

 丘に吹き抜ける涼風(すずかぜ)が、浅い緑の絨毯を波のように揺らしながら、体内の火照りを冷ましてゆく。

 

 そこで僕は初めて、彼女の中のおかしな点に気が付いた。

 彼女の髪は、風の吹く方向に揺れていなかった。

 

 「聖蹟(グラーティア)。神の賜す権能です。貴方が善き人として生き、天に召されることをお祈りしています。恩寵も鞭も、天に在す我らが父の為すままに」

 

 天使の定義を体現した美少女は祝詞(のりと)を残し、陽炎のようにその輪郭を揺らした。

 間もなく黄金色(こがねいろ)の塵となり、姿が薄れてゆく。風に靡かない髪が粒子になって初めて風に流され、空気中に溶けていった。

 

 

 三

 

 

 一人残された僕は当惑した。これから何をどうすればよいのだろう。

 寄る辺も奉公する当てもない。

 

 一先ずは村に降りなければならない。与えられた第二の生を繋ぐために、人と交わり、衣食住のどれか一つでも目処を付けなくてはならない。

 

 丘から村に飛び降りる訳にもいかないので、村へ行くには一度左手にある林を経由する必要があった。

 

 そう決心して、丘を下る。

 

 勾配を降りながら、この土地は難儀だなと思われた。目的の村は三方を林と丘と山とに囲われている。

 林のせいで(はたけ)を広げるのは難しく、雨が降って土砂が崩れれば、落石と土石流に見舞われるであろう。

 

 とても好んで人が生活の拠点とする場所にも見えなかった。

 

 (たぶ)の木の林に入ると、異世界の中で再び異界に迷い込んだような心持ちになった。

 林の内は森閑としていた。椨の木の葉はつやつやとした光沢を帯びていて、太陽の光を眩く照り返していた。半分赤く染まった葉が、蕾のように枝先に集まって閉じている。

 何より木漏れ日が荘厳であった。枝葉を透いた陽光が、木陰の中に降り注ぐ。その明暗の均衡に、別世界の神秘を見たように思われた。

 

 卒然として木の間に悲鳴が通り抜けた。若い女の声だ。

 

 僕は声の方向を見て、そちらに駆けた。

 そこで目にしたのは、座り込む若い女性と、それに襲い掛からんとする(ひぐま)の光景であった。

 

 羆の目は藍でも点したかのように、青く光っている。

 前足から伸びる兇悪な爪が、間もなく女性の顔に振り下ろされようという瞬間、僕の体は動いた。

 

 「地に耀ける(カルペ)祝福の聖十字(ディエム)

 

 陽光が束ねられ掌中に収斂する。光芒を握り締めると同時に、光輝を纏う十字剣が顕現した。

 

 十(メートル)の距離を一刹那に縮め、羆の剛腕を一閃する。

 

 忽ち血飛沫が荒び、遠く離れた処に前肢が落ちた。

 

 羆は自らの目前に迫る致死に臆さなかった。間隙もなく、左前足で反撃を加える。

 戦いたのはむしろ僕の方であった。生前見たこともないような大出血にたじろいで反応が遅れる。

 

 鋭く尖った爪が胸に突き刺さった。

 それでも、()()()()()()()()()()()()()()()()為に、目一杯の力を込めて横に剣を薙いだ。

 

 羆の首がずれて落ちる。嘘のように紅い血を眺めながら、胸を穿つ爪を抜いた。

 

 服が破けはすれど、傷こそなかった。

 

 思い出したように後ろを向き、努めて笑顔を作る。急度(きっと)上手く笑えてはいないだろう。

 

 「怪我はありませんか?」

 

 

 四

 

 

 少女は怯えていた。体長は僕とあまり変わらない程度だったから、(とし)は然程離れていないように見受けられた。

 彼女の(おもて)には、恐怖が食い込んで離れていなかった。

 

 思えば己も、羆の返り血を多分に浴びている。

 彼女に害を為そうとした羆と同じく、己もまた、彼女の目には()く映っていないのかもしれないと得心する。

 加えて武器も手にしたままであった。

 

 剣を離すと光の繋がりが(ほど)けて散らばり、大気に溶けてゆく。

 血に汚れるのを厭わず膝を着き、彼女が怯えないよう同じ目線で語り掛ける。

 

 「立てますか?どこか痛むところはありませんか?」

 

 「わ……私、生きてるの?」

 

 「はい。生きていますよ。大丈夫、もう貴女を傷付ける者はありません」

 

 少女は落涙しながら、僕に抱き付いてきた。

 

 「よ……良かったぁ……私、死んじゃったかと思った……」

 

 抱き締められるという経験を生前受けた覚えのない僕は、こんなときだというのに動悸を急進させていた。

 

 いやいやそんな場合ではないと、忸怩たる想いで心を持ち直した。変なことを考えないよう努めて、彼女を安心させる為だけに、彼女の背に腕を回して抱き締め返した。

 

 「もう大丈夫ですから。どうか安心してください」


 女性が泣いている姿というのは不思議な力があるもので、どうにかしてあげなければという想いが熊羆(ゆうひ)の爪牙よりも深く胸を衝く。

 こんなことをして本当に好いものだろうかと惑いながら、彼女の頭に手を置いて撫でてやった。

 撥ね除けられる様子のないのに安堵しながら、そのままの体勢で暫く動かなかった。

 

 そうして何分か過ぎた後に、彼女は辿々(たどたど)しい口調で「ありがとう。もう大丈夫」といった。

 

 人肌に触れる経験がない半生であるが故、その体温を離す寂しさにむしろ僕の方が泣きそうになる始末であった。勿論声にも面にも出さないよう努めた。

 

 「貴方の方こそ怪我は?」

 

 彼女は僕の胸元を見ながらそういった。

 

 「僕は何ともありません。ほら、ご覧になってください」

 

 胸の返り血をハンケチで拭うと、いった通りの完膚(かんぷ)が現れた。羆の爪が食い込んだ痕は(ごう)も残っていない。

 

 「どうして?貴方は天使様なの?」

 

 天使と(うたぐ)られたのが可笑しくて、思わず吹き出してしまう。

 彼女は僕の反応が不服であったようで湿った視線を遣ってきた。

 

 「む~。どうして笑うの?」

 

 「失礼。只者であるのに天使と思われたのが異な感じだったのです。気に障ったならどうか許してください」

 

 「それはもちろんいいけど。それで貴方は何者なの?」

 

 「僕は只の人ですよ。天使に会ったことはありますけれど」

 

 「本当?」

 

 「はい、本当です。そのとき天使に、『傷が強さに変る魔法』を恵まれたのです」

 

 「そう……なんだ。普通だったら信じないけど、目の前で起こったことだもん。信じるしかないよね」

 

 「良かったです。頭のおかしな奴だと思われる、と覚悟していました。貴女が純真な方であったのは幸運です」

 

 「えへへ、なんか照れるな……。そうだ。ちゃんとお礼言ってなかったね。本当にありがとう。貴方がいなかったら私は死んでた。一生恩に着る」

 

 無垢な笑みを浮かべて彼女は礼をいった。

 ようやく心が死地から離れられたらしく、彼女が本来持っていたであろう朗らかさが表れていた。

 

 「どういたしまして。ところで不躾なお願いではあるのですが、僕を貴女の住まう村まで案内(あない)してほしいのです。実はあの村まで行く途中でして」

 

 「うん、喜んで。ところで、まだ名乗ってなかったよね。私はファノ。よろしくね」

 

 「僕は……イチノスケです。こちらこそよろしくお願いします」

 

 

 五

 

 

 彼女の(うち)に上がり林の中であった悶着を物語ると、ファノの父―ゴーントと名乗った―は(こうべ)を垂れた。

 

 「本当に感謝いたします。貴方は私どもの恩人です」

 

 「恐縮です。ところで、僕には行く当てというものがなく、今晩の食事すら目処がないのです。いずれは街に出て働くつもりですが、宜しければ生活の安定するまではご厄介になることを許していただけないでしょうか?」

 

 娘を救った直後のこれでは、まるで「見返りを寄越せ」と言わんばかりの態度のようで

、苦々しい思いをした。

 

 救いの手を差し伸べ、その手は返礼を受け取ることなく引っ込めるのが善行なのだと、僕の中に定義付けられていた。

 打算の交じらない純粋な人助けのまま終われないのが口惜しい。

 

 「居候という訳ですね。勿論喜んで面倒を見させてもらいますよ。そのくらいじゃ御恩は返しきれないくらいです」

 

 ゴーントは笑ってそういった。しかしその先は(かげ)のある表情で続けた。

 

 「ですが街に出て働くというのは無理でしょう。大きな街はすべて悪魔に支配されているのですから」

 

 「悪魔?暴君が苛政(かせい)でも敷いているのですか?」

 

 丁度ファノが僕を天使と疑ったように、ゴーントは独裁者を指して悪魔と呼んだのだと理解した。しかしそれはゴーントの否定によって覆された。

 

 「いいえ。文字通りの悪魔です。一年前突如として封印を破り現れた十体の悪魔は、主要な街や市を各自(めいめい)の支配下としました。人間には抗し得ない、圧倒的な力で以て」


 「……俄には信じがたい話です」

 

 己の知る世界との違いが、予想からじわじわと大きくなっていくのを感じる。

 文化や常識といったものよりずっと大元の部分から世界が異なるのだ。異世界転生というものの意味が、一秒ずつ、より濃厚に更新されてゆく。

 

 「しかし事実です。私どもは大都市を離れ、この辺境で生きていくことにしました。この地はどの都市からもそれなりの距離があり、わざわざ遠征をするほどの価値もありませんから」

 

 この地を見下ろした折、人の住み好い土地ではないと感じたことを思い出した。

 それにはこういった経緯があったのかと納得する。

 

 「そんな訳です。この村を離れても、ここより好い場所があるとも思えません。イチノスケさん、この村に永住することをお勧めします。どうしてもと仰るのなら無理に引き留めはしませんが、私どもには食客として迎える用意があります。どうされますか?」

 

 この提案を悪いものと受け取る者は一人もないであろう。しかしどんなに有り難い申し出でも、己の背負(しょ)わされた運命と並べてみたとき、素直に飲むことは叶わないのであった。

 

 「少し……考えさせてください」

 

 

 六

 


 一人になる為に再び丘の上に登った。

 

 「貴方には力がある。そしてそれを理解している。だから悩むのでしょう?」

 

 切り株に腰掛け顎を撫でながら迷っていると、天使が現れた。

 

 「驚いた。もう会えないものと思っていました」

 

 これが僕という人間の是非を見定める試験ならば、監督であるところの彼女は、僕の解答中に語り掛けてくることなどないと思い込んでいたのだ。


 「嬉しいですか?」

 

 彼女から目を逸らし、遥か遠く高く空に浮かぶ大陸を仰ぐ。現実感を霞ませ、実感を薄めるような、丸きり幻想の一景である。

 

 「……貴女が味方なら、嬉しいですね」

 

 「味方といえるかは分かりませんが、公平を逸しない範囲で貴方の利になることなら喜んで致します。聞きたいことがあるなら、お答えしますよ?」

 

 僕が内心で考えたことを読んできたかのように見抜かれている。

 実際に何もかも透けているのだろう。己の体が薄紙にでもなったような気分である。

 

 「この聖蹟(グラーティア)で悪魔を倒せば、僕は天国に至れますか?」

 

 「それは万人を救う善行。(まさ)しく救世。文句のつけようがなく、天国に送る条件を満たします」

 

 「では、そんな戦いに身を投じずとも、この村で素朴に生き続けても、天国には至れますか?」

 

 「貴方次第です。純粋に日々を生きる中で、貴方がどれだけ善く在れるかに懸かっています」

 

 目線を村に下ろす。農夫が畑の作物に水をやったり、子供が犬と共に駆け回って遊んだりしている。

 

 ただ生活を営む中で、僕は何を積み上げられるのだろうか。

 それは難度の高い第二の生でも、尚難しい道なのではないだろうか。

 

 戦乱と安寧。

 悪魔から人々を救う生き方と、安全に生活を送る生き方。

 この選択が、与えられた第二の生を決める、最大にして最初の分水嶺(ぶんすいれい)なのである。

 

 「模範解答は前者なのでしょうね」

 

 この村を出て悪魔討伐に身を投じることが、確かに天国へと繋がる道なのだ。

 

 「因みに、悪魔の存在を知りながら看過するのは、あまり善い選択ではないことを、お伝えしておきます」

 

 この瞬間に僕の運命は決した。

 無論、それでも頑として穏やかな方に進路を向けることもできたし、そもそも第二の生だけの充実を考えるという手もあった。

 

 それでも、天国があるなら、どうしても行きたい理由があった。

 

  「僕は世界を救います」

 

 天使は微笑した。

 勇者を導く慈愛に満ちた女神のように。或いは、獲物を袋小路へ追い込んだ猟犬のように。

 或いは、電気信号に従うだけの何かの機械のように。

 

 彼女の思惑がどこにあるのかはさして重要でもなかった。たとい裏があっても表だけで充分承るに値する賞品であった。


 「ですがどうしても念を押して聞いておかなくては気が済まないのです。本当に天国はあるのですね?」

 

 「はい。ありますよ」

 

 「天国でなら、僕は幸せになれますか?」

 

 緊張から、肺腑(はいふ)の中に固まった空気でも入っているような錯覚を起こした。

 天使の次の言葉までが長く感じられる。

 

 「万人が幸福を得られる場所と約束します」

 

 その言葉を聞いて、僕は肺の中に固まった空気を吐き出した。

 

 第一の生で失い掛けていた生きる指針を、ようやく見付けることができた。終点が見えているのなら、それへ向けてひた走れば良いのだ。

 もう暗中で藻掻いて苦しむこともない。

 

 彼女が天使の格好をしていなくとも、そう呼んでいたと思えるくらいに、彼女に対する感謝の念を抱いた。

 

 「ありがとう。名も知らぬ天使様」

 

 彼女はなんとも答えなかった。

 ただ怜悧(りこう)そうな目で僕を見下ろしていたが、やがて点頭(てんとう)して姿を消した。

 

 

 七

 

 

 「本当にこの村を出ていくの?」

 

 夜も更けた頃。

 村を二分する小川に架かる橋の上で、欄干(らんかん)(もた)れながら夜空を見ていると、ファノが声を掛けてきた。

 

 星影(さや)かな夜の中、月の光が彼女の髪を煌めかせる。

 憂慮や不安といった情を孕んだ眼差しが僕の心に訴えた。

 

 「はい。僕にはやらなければならないことがありますから」

 

 「私は嫌だよ。会ったばかりの私たちに対する遠慮なんていらない。他の人に対する親切なんていらない。この村で、一緒に暮らそうよ」

 

 「……」

 

 なんとも(いら)えない僕の傍に彼女は寄ってきて、袖を(つか)んだ。

 

 「ねえ」

 

 「僕は……。確かに、遠慮はありますが、親切はないのです。出会ったばかりの人に世話になる申し訳なさを感じるくらいには、常識ある人間だと自分ながら考えています。ですが、会ったことのない誰かを助けたいと思うほど、善良な人間ではないのです。僕はただ、僕の抱える事情と目標のために、悪魔を倒して人々を救うのです。結句僕は無辜(むこ)の民の為ではなく、自分の為に彼らを救うのです」

 

 「事情ってなんなの?それは自分の命とか、そういうものより大事なものなの?」

 

 「ある意味では、現世を全て支払ってもよい目標なのです。それの為に、僕は急度報われるのです」

 

 「だから!それがなんなのか教えてよ!」

 

 ファノが大声を上げた。

 敵意とか悪意とか害意ではない大声というのを自分に向けられるのが初めてで、僕は激しく狼狽した。

 

 「僕は、天国に行きたいのです。世界を救う力を僕に与えた天使が、そうすれば天国に送ると約束してくれたのです。僕は現世に期待をしていません。この世界で幸せになれるとは思っていません。だから、現世を(ほう)っても、確実な死後を手に入れたいのです」

 

  かつての世界でも、今いる世界でも、人間というものの本性はさほど変わらないであろう。

 人類全部が変わらず、(こと)に僕が変わらない。

 

 「幸せになれないなんて言わないで。だって私は貴方に救われた。だから今度は私が貴方を救う。絶対に出ていかないで。私が貴方の為にできることなんだってするから。貴方を幸せにするって約束するから、その天使様との約束、忘れてほしい」

 

 ここまで誰かに求められたことが一度でもあっただろうか。

 しかし美しい感情を向けられるには、その為の器が余りに小さかった。

 

 「ファノさん」

 

 僕は彼女を抱き締めた。こんなことは人としての人生というもので、もう二度とはしないであろう。

 

 「ありがとう。けれど貴女は優しすぎる。僕に(かかずら)うには綺麗で純真すぎる。どうか幸せに生きてほしい。僕なんかに人生を費やして台無しにしてしまうより、もっと素敵な人と結ばれてほしい」

 

 腕の中で、彼女が震えながら嗚咽を漏らす。

 いつまでもそのままでいると、遠慮の言葉とは裏腹に、心優しい彼女に執着(しゅうじゃく)してしまいそうで、腕を外すことにした。

 

 ファノの目は親愛に濡れていて、月の光を残酷なくらい跳ね返した。

 

 継ぐべき言葉を探して黙った。けれど甲斐性もない男なので、何も言えなかった。

  

 「もう戻りましょう。風邪を引いてしまいます」

 

 情けなくも、人として浅く、男として弱い僕からは、そんな言葉しか出てこないのであった。

 

 

 八

 

 

 諸々の装備を整えて、僕は村を出立することとなった。

 

 「身に余る歓待(もてな)しでした。どうかお元気で」

 

 「いえ、碌なお礼も出来ませんでした。どうかご武運を」

 

 玄関口でゴーントに別れを告げ、村の入り口へと歩き出す。迷いはないが、未練はあるのかもしれない。

 僕の足取りがどうであるかは、僕自身よく知らない。


 「えっ」

 

 村の門を(くぐ)ろうとしたところで、ファノに袖を攫まれた。

 

 「あの……何故?」

 

 「諦めるなんて一言もいってないし、思ってもないよ?」

 

 彼女の態度のどこにも(てら)う様子は認められなかった。


 「えぇ……困りました」

 

 「だからさ、もう止めないけど、いつでも戻ってきてね。全部綺麗に終わった後でも、途中で辛くなって諦めたときでも、いつでもいいから。戻ってきてから、続きを話そうよ」

 

 そういって彼女ははにかんだ。

 

 「はは……敵いませんね。約束しましょう。僕は必ず帰ってきます。そして、貴女が傍にいないときでも、貴女を忘れません」


 己の人生で初めて、幸せだから笑った。

 笑って、一時の別れの言葉を口にする。

 

 「またお会いしましょう。ファノさん」

 

 「うん。待ってる」

 

 どこまでも青い空が、瞳を洗ったように一層、綺麗に見えた。

 

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