第三話 チロシン
続きます。
昼休憩を取って頭の回転が遅くなる平日の午後。グレーの絨毯が床一面に広げられたデスクで、一つの室内で所狭しとサラリーマンとOLがパソコンと睨めっこをしている。
上司が座る机の向うには青空がガラスを通して浮かんでいた。
上司から抑揚のない声で“お前は使えない”と会議に使う資料を上へ全て投げ捨てた。空中で飛散される紙束がスローモーションで目に映る。寝ずに完成させた資料をいとも簡単に投げ捨てられると責任感は上司の二酸化炭素のように消えてしまうようだった。
“自分のなんだから自分で拾えよ”
上司の機嫌が収まるまで床と睨めっこをする。それが社会常識らしい。
価値の無い今この時。成果に繋がらない仕事内容。専門分野がなくとも軽々と言えてしまえる内容を吐く上司。
平社員の上に立つ役員のデスクに毎日呼び出されて、ストレスの当て馬として俺がこき使われる。怒声を身体全体に浴びさせられる。目の前の相手の声は聞こえている筈なのに脳みそにコルク栓が詰まってしまったのか思考が停止する。たまに名前の知らないレコードの音楽が流れ出す。最近では上司の顔には靄がかかるようになった。
突如、社内にいるすべての人が立ち上って俺を糾弾する。場面は変わり、俺は駅のホームに立っていた。白線の前にガードレールが見えなくなるまで連なっている。電車の汽笛が聞こえてきた。自殺防止用の柵が消えていた。快速の列車は俺が立つホームを通過しようとする。
立っているのですら辛いのに足が勝手に一歩、二歩と前へ踏み出していく。死ぬことの恐怖よりも会社での溜まった疲労の方が多くてどうにでもなれと考えるようになった。
この駅には止まらないと放送が告げる。目の前まで迫る電車。眩しいライトが夜の闇を照らし出す。
ギイイイイイイと車輪のレールの鉄と鉄が擦れる音がだんだんと近づいてくる。
あと一歩で死ねる。そこで俺は目が覚めた。
蒸し暑い部屋に凛とした空気が流れる。遮光カーテンの隙間から一筋の朝日が溢れだす。俺の心音以外に音が無い。心地の良い静寂は田舎にいた学生時代の時から変わらない。
息が途絶えたのに自室で夢を見ていたと瞬時に理解した。きっと世界が終わるなんてのも浅はかにも俺の願望だったんだ。ココ最近よく見る悪夢だ。そして目覚めると故郷のことを思い出しては寂しく感じる。ここまでが俺のモーニングルーティンの最初の一歩。
さて仕事に行くかな。
「大丈夫ですか?」
ベット脇で俺の目を覗き込むように彗は見下ろす形で座っていた。柔らかい物言いなのに無機質な声で彗が心配してくれた。
「ま、まぁなんとか」
心臓の鼓動が速い。寝ている最中から息が荒くなっていたと気がつく。
ベッドから出ようとしてタオルケットを剥がした。
出勤しないと・・・・・・。支度をしろと身体が警告音を鳴らす。ベッドから足を出して布団から出したら床に足をつける。スーツが入ってあるクローゼットに行こうとしたら足がふらついた。自分が意識したことに身体が巧く合わせられない。
「まだ寝てて」
そう言って彗が俺の手を引っ張ってベッドに叩きつける。手に力を込めたからか怒気が声にも含まれていた。
「熱が出ているんですから安静にしないとダメですよ」
「でも仕事が・・・・・・」
「きのう日本は崩壊したじゃないですか。だから仕事には行かなくてよくなったんですよ。それに、そうじゃないとアタシたち結婚していませんでしたよね」
寝惚け眼な俺の脳は枕に頭がぶつかった衝撃で意識が冴えた。
そう言われれば事実、世界は1年後には終わりを迎えるらしい。それで酒に酔って俺はゲーセンにいたこの女性に目を惹いた。静かに燃ゆるようにゲームに対して真剣に向き合う姿勢が彗星のような煌めきがあって勢いというかなんというかで結婚を迫ってしまった。俺の家に住むこととなった。
「あぁ、そういえばそうだったね」
無意識的に考えが仕事でいっぱいになっていたがオーバーヒートを起こしていた回路が急激に冷めるように身体が重くなった。ついでに頭蓋骨の神経が脈打つ痛みも走る。
「昨日は確か俺はすぐ寝ちゃったんだよね」
「家に帰ってきてから寝室ですぐに寝ちゃいましたね」
「じゃあ昨日は何も食べてないんだよね。ごめんね、昨日俺が君に結婚してほしいとせがんだ手前、何ももてなせなくて。・・・・・・すぐに朝食を作るよ」
「私は大丈夫です。それよりも安静にしていて下さいよ。もてなしていただけるなら、これからしていただければいいですから」
俺の瞼が重くなったのを見計らって彼女は声を絞ってくれた。
「じゃあ・・・元気になったら、頑張るよ」
「それなら台所借りますね。朝食を作るので食べて力を蓄えて下さい」
ありがとう、俺は掠れた声で言った。もう意識が限界まできていた。
「手、離しますね」
足音を立てずにドアを開けて寝室を出て行った。扉から盛大に日光が溢れる。閉じかけていた視界から微かに後ろ姿のリクルートスーツを見に纏う彗が目に映る。そういえば俺もスーツのままで布団に入ってしまっていたようだ。
彼女の手、冷たかったな。1人で手を繋いでいた形を維持させていた。
彼女が不快だと思っていたのなら離す事は可能だったんだろうな。なのに俺がふらついた時からずっと手を離さないでくれた。昨日今日での仲だからラブコメを期待出来るわけがないので意味深な行動ではないのだろうな。
だけど、まだ彼女の体温が残っている気がした。元々一つの生命だったと認識してしまうほど俺の手には彗の掌が馴染んでいた。じんじんと鼓動を皮膚で感じる度に彼女が生きているというのが直接伝わってくる。そこに無性に感動をしていた。
思い出すと昨日は電車で家に近い最寄りの駅に降りて2人で会話も何かを話していた。だが酒のせいで何を話したのかはもう覚えていない。そして家に帰って来るなりスーツを着替えようと寝室にやってきてベッドで倒れたのだろう。はは、なんて様だ。
あと少しで眠れるのに意識がなかなか昏倒してくれない。妙に頭の回転は良く働く。
きっと彗に何かを期待しているのだ。俺の家で誰かがまな板を叩く音。看病してくれる存在。
一人暮らしだと体調が悪くなると心に余裕が持てなくなる。空いた隙間には寂しさや自己嫌悪などが入り込み、埋めようとする。
今回は彗という女性がいてくれる事の安心感で胸がいっぱいになった。
熱が冷めた頃には彗という人間を完全に信頼しているんだろうと思う。
彼女の少ない口数から優しさが滲み出る。あまり会話はしていないがごく僅かな会話を反芻させていると身体が温かくなり、眠気が押し寄せてきた。
起承転結で言うところの承です。
なろう読者の皆様からしたら進みが遅くて飽き飽きしてくるだろうと思われますが、温かい目で読んでいただければ嬉しいです。
ていうかせっかく変な設定入れてるんだからそれ使えよって思いました。(笑)