第十ニ話 【線香花火】
陽が傾き始めてから俺たちは仮住まいであった宿泊施設に戻ることにした。服が濡れていて、疲れからも足取りは重たいはずなのに、なぜだかまだまだ遊び足りていなかった。
「ほんと・・・ここはいいところですね。鈴虫の声が透ってて」
歩く速度から疲れが出ていた彗の言葉がやけに軽く聞こえてしまった。人間としての生き方を拒絶している物言いで俺は何も言葉が浮かばなかった。浮かばないなりに歩幅を小さくして彼女に合わした。俺からしたら鈴虫の鳴き声よりも抑揚の差があまりないが地声が高い彼女の声の方が透き通っていて心地よく感じていた。
家に着いてから、シャワーを浴びることにした。先に彼女にお湯を浴びることを勧め、その間に彼女と俺の濡れた服を洗濯機に放り込んだ。
陽が完全に沈み、辺りは真っ暗になる。外からはリーンと風鈴の音とゴウンゴウンと回る洗濯機の音。俺は調理場で食事を作る。俺のいる場所から、浴室はかなり遠いはずなのに強く噴射される水の音がやけに響いてくる気がした。
彼女が体を洗っているということで裸体を想像してしまう。何かを期待してしまうから、耳に入ることのない物音を脳内が奏でているんだと、やましいことは何も思っていない理由を付ける。
少しだけ様子が変わる彗の姿を思い浮かぶたびに調理の手が止まる。
程なくして彗が浴室からあがり、食堂にやって来た。昼間はチノパンにパーカーだったが今は肌着の上に柄物のtシャツに下はGパンを履いていた。
同一人物なのにも関わらず、乾かさない状態の髪の毛や血行が促進され、彼女の美しさに磨きがかかる。まるで別人のようだった。
「ん?どうかされました?あ、えっちですね」
服で隠れているのに胸を隠してくねくねと体を捻らす。本来の彼女はこんな冗談めかしいこともするようだ。
「湯冷めしないうちにもう少し着込んだらいいよ。食べ終わったら出かけたいんだ」
上昇した体温がゆっくりと下がる頃合いに俺特製の焼きそばが完成した。白い湯気が皿の上で舞っている。
「そうでしたか、では早めに食べ終わらせますね」
本来の大勢の人間を収容して皆んなで職を囲むであろうところに二人しかいない空間に白灯の照明。木製のテーブルと椅子しかなく、ここにいると寂寞感に囚われそうだった。
一人は寂しい。____彼女と出会う前には感じていなかった感情が出た。
表情に頬を膨らませて急いで食べる彗をみているとそんな想いは緩和された。俺が彗をみていると彼女も俺を見つめ返した。汗を流していたが表情は崩さないでいた。
食べ終わると、二人で皿を洗い、広間へと向かう。昨晩疲れていてカーペットにカバンを置いたまま解かずに置いてある鞄があった。俺は何個もあるカバンの中から一つ、口を開けた。そしてレジ袋に取り出した。
「あ、花火ですか」
中には大量の手持ち花火が入ってあった。
「そうそうパーキングエリアに売られていたからさ湿気る前に使っておきたくて」
「いいですね!私花火ってしたことないんですよ」
俺は昼に彗が言っていた言葉がずっと心に残っていた。寿命が残り一年しかないのなら、せめて夏らしいことをして楽しいと感じられることを二人でやっていたかった。
「え、そうなの」
一度頷いてから
「施設で催された花火会とかにも参加しなかったので本当に一度もないんですよね」
彼女は未知なものに触れることへの楽しみからか双眸が光っていた。
「そっか施設にいたんだ。それは大変な事情だったんだね」
施設という言葉をスルーすることもできず、無かったことにもならない。もしもそれが彼女なりのSOSという可能性だってある。それなら当たり障りない言葉で会話の流れを作って彼女に話させればいい。もしもここで彼女自身が何も発言をしないのならそこまででこの話題はしなければいいさ。
厨房にあった鉄のバケツとライター、花火を手に持って外へ出た。彗は自分のボストンバッグから絹のカーディガンを取り出し、羽織った。
鉄の引き戸を開ける。錆びているから重く、黒板を引っ掻いたような不快な音が鳴った。
「夜だと森の雰囲気も違いますね」
銀色の満月が顔を出していて全てを明るく照らしてくれるわけではない。木々が生い茂っている森では一つ一つの葉が重なることで月の灯りを通すことはなく、ここから先は純粋な闇の入り口のようだった。
湿度が高く、背筋を舐められている気持ち悪さがあった。
彗が持つ懐中電灯が唯一の道標になった。多少は心許ないが川辺までの道のりは知っている分、気にならなかった。幽霊と遭遇さえしなければいいのだが・・・。大学時代、外でキャンプをしていた時に焚き火を中心に陣にして怖い話をしていたのを思い出す。
サークル内で手よりも口の方が動くやつがこの地では一人だけ自殺した人がいたらしく寂しさから魂を抜くなんてはた迷惑な話をしていたな。嘘であることを願う。
川辺に着くと、まず先に川からバケツで水を汲んだ。
「さて始めるか」
俺はレジ袋に入ってある手持ち花火を砂利の上に敷いた。
ライターで取っ手の先に伸びる紐に火を付ける。火薬に着火し、音を立てて緑色の炎が噴射された。
「わ、綺麗」
花火をみて彗は満面の笑みを浮かべる。俺は花火の光に照らされる彼女の顔をみていた。心から嬉しそうな表情をしていて、一緒にできてよかったなと思った。
持ってきた花火にも様々な種類があり、持つタイプや置くタイプ。それらを交互に火をつけて楽しんだ。
この川の付近には木が生えておらず、上を見れば真上には月があった。俺は座って彗をみていた。
「あぁこんな日常もあるんだな」なんて静かに口に出す。まるで自分は一度も手に入らなかったような発言。
月の明かりが彼女を照らす。どんなに遠くに彼女が言っても見つかりそうなほどの光が夜を切り込む。
俺は夜が嫌いだった。理由は夜になると色々と今日の仕事のことを常に考えてしまうからだった。日中は気持ちが沈まないくせに夜になるとたちまち体が重くなってしまう。煌々とどちらの星も輝くクセに月は俺に何もしてくれない。
そう憤っていたが今夜はそんな気持ちにならなかった。きっと目の前で、初めて花火を見てはしゃぐ彗のおかげだった。
「ねえ朝陽さん。大学生の時はこの場所でどんなことをしていたんですか」
俺の隣に置いてあるバケツに彗が火薬切れの花火を放り込んだ。
「うーんそうだなー」
俺は大学時代のことを思い出して、それを語った。その当時つるんでいた友達とここでキャンプを張って酒を飲んで、気がついたら、寝袋じゃなくて砂利の上で寝ていたこと。夜更けに誰もいない場所に友達が女の子を呼び出して告白をして見事に玉砕されたこと。
それを聞いて彼女は笑っていた。俺も彼女の笑う顔をみて、当時抱いた感情を思い出から引き出したように笑った。
ほとんどがバケツの中に沈み、残るは線香花火を二人でやろうとしていた。
すると何かが打ち上がる音が近くでした。瞬間、月に近い距離で花が咲いた。打ち上げ花火だ。ぱらぱらと黄色い粉末が落ちて消えていく。
「綺麗だね」
一発目を皮切りに花火が何発も咲き乱れた。月よりも明るく、街灯よりも辺り一面を照らす。
「どんな人が花火を打ち上げているのか見に行きませんか?」
「ああ、いいね」
空に咲く花火を目印に俺たちは川辺を歩いた。
彼女はずっと空をみていた。森はザワザワと風を吹かして恐怖心を煽いでくる。でも隣にいるのが彗だったからちっとも恐怖はなかった。
花火を打ち上げる主は、宿泊所から反対側、山を抜けた先にある無人パーキングの駐車場前にいた。
そこには着火させ空へ種が離陸するのを真剣にみている一人のハッピをきた男がいた。
空に打ち上がる音は間近で聞くと鼓膜が揺れるほどの轟音だった。男は俺たち二人が近くにくると
「君たちが花火をしていた人たち?」
俺と彗がきた道を指さして訪ねた。
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