ジャングルの村で吸血コウモリと刺身包丁で戦った話 etc.
ジャングルの中は、川がまるで葉脈のように枝分かれして拡がっている。
太平洋の干満差は最大で6mもあり、海のすぐ脇に港を作ることが容易でない。
そこで、年中水が流れている川に港を作って、川から海に出るわけだ。
ビダル港は、ジャングルの奥深く、サンティアゴの街から車で6時間ほど走った道路の終点にあった。
ビダル港まで舗装された道があるだけで有り難いとはいえ、道路は所々舗装が剥がれて深い穴ボコが開いており、両手両足でしっかりと突っ張りを作っておかないと、車のドアだのガラスだのに、しこたま頭を打ち付けた。
「ヘススさぁ。もうちょっと、穴ボコを避けて走れないものかね?」
おでこを真っ赤に腫らしたぼくは、ヘススに問いかけた。
「穴ボコを避けると、その先に穴ボコが出てくるんだ。
その穴ボコを避けると、その先にも穴ボコがある」
ヘススもまた、おでこを真っ赤に腫らしながら返答した。
「シートベルトの有用性を初めて知ったよ」
ぼくは助手席の、伸びたまま戻らない、かつてシートベルトだったものを掴んで、ヘススに突きつけた。
「こっちもだ」
ヘススもまた、かつシートベルトだったものを取り出して俺に見せた。
「運転席もか」
どれほどのボロ車であっても、車を個人所有しているだけで、マシなのかもしれない。
職場にも公用車のピックアップトラックが1台あるが、サンティアゴ市の本部と共用している。荷台に板が渡してあって、通勤バス代わりとして使っているので、村に入り込んで仕事をするような用途には使えなかった。
「なんで、道路が穴だらけなんだ?」
「雨期になると、道路が水没して川になるからなぁ」
なるほど。
「あそこのキヨスクで休憩しようぜ」
「ダメだ。登り坂だ」
提案したが、ヘススは拒否した。
コーラの夢が過ぎ去っていった。
彼の年代物の日産サニーは、押し掛けしないとエンジンが掛からない。一人が運転席に乗り込み、鍵、ではなくて配線を直に接続してセルを廻し、一人が後ろから車を押す。エンジンが始動したら、押していた人間は車を追いかけてドアを開けて乗り込むのだ。
従って、停車するには、進行方向が平地か下り坂である必要があった。ああ、喉が渇く。
◆◆◆◆◆
村に着いたときは、夕方になっていた。
ビダル港は、道路沿いの民家が10軒ほど立ち並ぶだけの小さな村であった。
キヨスクが1軒あり、教室が2部屋の学校、民家を拡張したようなレストランが1軒。それと、ジャングルの村には不釣り合いな二階建ての大きな建物。
ただ村人の数からして、村の中心地というだけであって、周辺の広い範囲を含んで村として機能しているのかもしれない。道路は一本道ではあったが、通り道にちょこちょこと民家はあったことだし、ジャングルの中にも民家があるのだろう。
「ヘスス、ぼくには地面が揺れているように感じる」
「船の上だと思えば良いじゃないか」
ヘススはタイヤにもたれ掛かっていた。彼も目が廻って立てないのか。
◆◆◆◆◆
村の村長と覚しき人物は、背の高い白人のじいさんだった。70代くらいか。
村長選があるのかどうかは知らないが、纏め役であることは確かであり、村長と呼ぶことにする。
ヘススとぼくは、3ヶ月間、この村に泊まり込んで仕事をする。
「電気はあるが、水道は夜の10~11時しか出ない。食事は前のレストランで取ってくれ」
宿泊場所は、二階建ての大きな建物だった。
一般家庭と同じくコンクリートの壁の建物は、1階部分は集会所や教室として使われており、台所と2台ほどの車が収容できるガレージがあった。
階段を上がって2階部分は居住区だ。広々したロビーが中央にあり、ロビーを取り囲むようにバスルームと5つの部屋があった。
村長のじいさん自身もここで生活しているらしく、40代くらいの女性が、村長の身の回りの世話をしていた。奥さんではなく、情婦さんらしい。実に羨ましい。
ただ、建物が大きいだけに、彼女一人では手が廻りきらないらしく、清掃が行き届いている、とは言い難かった。利用する部屋を優先的に、という感じだ。
ヘススは村長の隣の部屋が割り当てられ、ぼくはロビーを挟んで奥の部屋を使うことになった。
ベッドに真新しいシーツを掛けてあったが、その部屋はあまり使用されていないことが伺えた。汚れてはいないのだが、所々が経年劣化している。何より、窓ガラスが割れている。
室内にはベッドの他に大きなクローゼットが備え付けられていて、ぼくはクローゼットを開けてみた。
木製のクローゼットの中は、シロアリに食い荒らされたように幾つも穴が開いてボロボロになっている部分があり、その穴から蜂が這い出てくるのが見えた。スズメバチほどではないが、アシナガバチよりはやや大きい。
ぼくはクローゼットの扉をソッと閉め、二度と開けないことを心に刻んだ。
うん、何も見なかった。
今のことは忘れた。
ノープロブレム。
実際のところ、熊のような大型獣や毒蛇よりも、蜂による死者の方がはるかに多い。アナフィラキシーショックにより死亡するのだ。日本だとショック症状が出て20分以内に病院に行けるかどうかが生死を分けると習いはしたが、ここでは机上の空論だ。
蜂を駆除するような道具も薬品もない状況では、刺激しないことが得策だろう。
窓ガラスは、手動でクルクル廻すブラインド式。日本のような大きな窓ガラスの窓ではない。
ブラインド式の窓は、窓の面積全体から光と風を取り入れることができるし、ガラスの生産コストや輸送のしやすさの面で合理的だ。大きく開け放つタイプの窓は、地方では木製のものしか見ていない。
ガラスの一部が割れているので、蚊や虫は入り放題だが仕方ない。
「おおい、飯だ、飯」
ヘススがぼくを呼びに来た。
◆◆◆◆◆
宿の前のレストランは、4人用のテーブルが2つしかなく、看板も何も出ていなかった。
横にドラム缶ほどの大きさのプラスチックの容器があり、水が溜めてある。
横に椰子の実を割って作った、水を掬うコップ。
「水道水が飲めるのか?」
とレストランのおばさんに聞くと、
「雨水を溜めて使っているの」
と返事が返ってきた。
この国では毎日決まった時間、午後3時くらいに雨が降るので、
水不足で悩まされることは少ないのかもしれない。
食事はいつものものだった。
「いつもの」とは、塩で味を付けた長粒の米に、フリフォーレスという小豆色の豆を煮込んで掛けたものだ。
味や色は全く異なるが、カレーライスのような食べ物だと想像して欲しい。
時々、その上に焼いた肉が乗ったり、揚げた魚が乗ったりすることがあるが、
食事のバリエーションは、その程度の変化でしかない。
多くの国で、人々は毎日同じ物を食べる。
日本のように、毎晩食事内容が異なる方が珍しい。
庶民に経済的な余裕、それもよほどの余裕がない限り、長年の食習慣もあって食生活は変化しない。
長粒米は日本の短粒米のように弱火で蒸らして焚くのではなく、水と塩を入れて中火で一気に炊きあげる。一応蓋はするのだが、蒸らす意味ではなく虫が入らないようにだと思う。
米に粘り気は少なく、冷めるとさらに粘りがなくなってパサパサになってしまう。暖かいうちは悪くない味だが、冷めると不味いので犬や家畜の餌にされる。
こんな食事だと、ビタミンCなどが不足しそうに思われるかもしれないが、南国ゆえ果物は豊富だ。とても瑞々しい。
果汁を搾ったものに、少量の水とサトウキビの固めたものを溶かしたチチャというジュースを、人々は毎日飲んでいる。基本的なチチャはオレンジで、これは果汁が絞りやすいからだろう。
オレンジは日本で見るミカンやオレンジとは、果物としての次元が異なる。
オレンジの上部、ヘタの部分を切ると、果汁が吹き出るように溢れ出してくるのだ。皮を剥いて果実を食べることが不可能なくらいに果汁が溢れ出てくるので、手でコップに絞って果汁だけを飲む。
伊予柑くらいの大きさのオレンジ1つで、コップ1杯分の果汁が絞れてしまう。
余談だが、ナランハ・ハポネサという種類のオレンジがある。直訳すると日本の蜜柑で、人々は日本から伝わったオレンジだと言うのだが、溢れるように果汁が吹き出す蜜柑など、日本にはない。謎である。
「港って言うけど、川はどこにあるん?」
食事を終えたぼくは、レストランのおばさんに尋ねた。
「森の中を10分ほど歩けばあるよ。海まで4時間くらい」
「えー、4時間も掛かるの?」
「これでも近い方よ。他の村はもっと遠いわ」
そうなのか。4時間というと大概な距離に思えるが。
◆◆◆◆◆
■ネズミの糞で口の中がジャリジャリな日々
明くる朝。
ぼくはベッドで目を覚まして、違和感に気が付いた。
口の中がジャリジャリする!?
ネズミが深夜、天井裏をドタバタ走っていたのは知っている。聞こえた。
ネズミの糞と埃が乾燥して粉々になったものが天井の隙間から落ちてきて、シーツの上に薄い茶色の砂となって降り積もっていた。
寝ている時に口の中に入ったのだろう。
気持ち悪いを通り越して、これは病気になるのではないか。
必死になって、ジャリジャリ入りのツバを吐きだした。
バスルームに駆け込み、水道の蛇口に飛びついた。水道の水は飲めないということは、その時は頭になかった。蛇口からは水は出なかった。
水が出るのは夜の10~11時の1時間。くそっ、こんな伏線があったのか!
村に不釣り合いな二階建てのこの建物は、外国人か誰か、外部の人間が建築したのだろう。二階建てということで天井があることに疑念を抱かなかったが、天井があると虫や小動物の巣窟となる。
一般的な民家には天井がない。それは単なるコスト削減ではなかった。壁がコンクリートなのは、耐久性や気候、掃除のし易さを優先した結果だろうし、壁の色が水色と白で塗られているのも、現地人は「綺麗だから」としか言わないが、自然界にない明るい色で、虫や小動物の侵入が分かりやすい。
合理的な判断で選別されてきた結果が、今ある物であり文化だと気付けよ、ちくしょう!
ぼくはこの建物を建てた人を強く恨んだ。
ヘススも同じ目に遭っているのかと思ったが、ヘススはいつもと変わらないように平然としていて、不満の言葉を飲み込まざるを得なかった。
ぼくの部屋にだけネズミの糞が降るのかと考えはしたが、問いかけることはできなかった。
ぼくの仕事は現地人のなかに溶け込むことが重要だ。日本人として特別扱いを求めて、現地人との間に距離を作ってしまうと拙い。同じ物を飲み、同じ物を食べ、同じように寝起きしない人間を、仲間として認めてくれるかというと難しいだろう。所詮余所者だと思われてしまえば、命の掛かる場面で真っ先に切り捨てられてしまいそうな怖さがあった。
この国は、仕方がないから諦めよう、のボーダーがとても低い。それは人の命に対しても、だ。
口のなかのジャリジャリは、諦めるしかなかった。
せめてシーツを頭まで被って寝ることにしよう。
◆◆◆◆◆
■つぶつぶ蟻コーラ
月、火、水、木を何とか過ごし、金曜日の仕事が終わった。
「一度サンティアゴに戻るがどうする?」
ヘススは尋ねた。
絶好のチャンスだ、一度退却だっ!
ここでは何も買えぬ。いや、煙草とコーラだけは買える。
飲み水の入手が難しい地域で、コーラは偉大である。毎日5本は飲んでいた。
コカコーラではない、ペプシだ。
ジャングルの奥地の村でも、ペプシは買える。
人生で最も大事なものは何か?と言えば、それはペプシである。
酒飲みはビールと答えるかもしれぬが、ビールは仕事中に飲めないではないか。
あとはマルボロライトとライターがあれば、取り敢えずは生きていける。
だが、偉大なるペプシにも、問題があった。
夜間はキヨスクが閉まってしまうのだ。
水筒が欲しい。魔法瓶であればなお良い。
首都に出て魔法瓶を買おう。ぼくはそう心に決めた。
「ぼくも戻る」
「そうか、じゃあ、ちょっとレストランによるから待ってくれ」
ヘススはそう言って、レストランに入っていくと、オウムを連れてきた。
黄色いくちばし、赤い頭、緑の羽と身体。色鮮やかな20cmを越える大きなオウム。でけぇ。
「オウムか?」
「おぅ、捕まえてくれって頼んでおいたんだ。娘が欲しがっていたからな」
流石はジャングルの村だ。
「知っているか?オウムは賢い。人間の言葉を覚えるんだ」
いや、それは知っているけど。
オウムは僕らの顔を見て喋った。
「ビール! ビール! ビールをくれ!」
レストランに繋いでおいたのが拙かったらしい。
◆◆◆◆◆
月曜日。
ビダル村に戻ってきたぼくは、意気揚々としていた。
新兵器を手に入れた気分だった。
魔法瓶だっ。首都で買ってきた。
黄色いスケルトンのボディをした魔法瓶で、
Made in Chinaと書いてはあるが、15ドルもした高級品だぞ。
これでキヨスクの開いていない朝も夜も、ペプシを飲むことが可能だ。
月曜日の夜は幸せの時間だった。
火曜日の夜も幸せの時間だった。
水曜の夜も幸せの時間を過ごしたが、木曜の朝。
寝起きのぼくは、魔法瓶を手にして蓋を開け、
ペプシをゴクリと飲んだ。
ペプシは粒々入りだった。
ん? つぶつぶ入り? どういうことだ???
ぼくは魔法瓶を持っている手を見つめた。
蟻がいた。たくさんの小さな蟻がうごめいていた。
魔法瓶を床にダン!と置くと、バスルームに駆け込んだ。
ゲーゲーと蟻を吐き出そうとしたら、蟻たちは口の中で噛み付いた。
ぼくは床を転がり廻りながら、口の中に指を入れ、蟻を掻き出そうとした。
何故だ! 密閉は完璧だったはずだ!
しばらくして落ち着いたぼくは、蟻の集った水筒のところに戻り、現場検証を行った。
黄色いスケルトンの樹脂製の奥に蟻の群れが入り込んでいた。
作りが雑で隙間があったらしい。
それでも密閉には何の影響もないはずだと、パッキンを確認すると、
ゴム製のパッキンが蟻によって食い破られていた。
◆◆◆◆◆
■吸血コウモリと刺身包丁で戦う
日程も半分が過ぎ、ジャングルの生活にも馴染んできた頃である。
その晩はヘススも村長も、出掛けてしまっていなかった。
「いってらっしゃい」
ヘススを送り出したぼくは、ロビーにあるテーブルでノートパソコンを開け、
資料の整理と報告書の作成を行っていた。
夜も既に更けている。
書籍を取りに自室に戻ると、ベッドのシーツの上に1匹のコウモリがいた。
コウモリを見たのは初めてで、ぼくは興奮し、写真を撮らなければいけないと
スーツケースを開け、一眼レフを取り出して、コウモリににじり寄った。
その時、コウモリがキィーと吠えた。
コウモリはシワのある男性の顔をしていた。
開いた口の上顎に2本の長い牙が見えた。
吸血コウモリか!?
なぜドラキュラがコウモリに例えられたのか、即座に理解してしまった。
この顔を見て、悪魔と思わなかったとしたら、そっちの方がおかしい。
興奮は一気に冷め、背筋に冷たいものが走った。
一眼レフをポトリとベッドの上に落としたぼくは即座に反転し、スーツケースの中に仕舞ってあった刺身包丁を掴み取る。
刃渡り 9寸(270mm)の綱で出来た業務用の刺身包丁が、考えうるなかで最も役に立ちそうな武器であった。
吸血コウモリは襲いかかってきた。
自室から大急ぎで脱出して、ロビーで刺身包丁を構えた。
義定と銘打たれた刺身包丁は、ぼくが左利きなこともあって、この国に来る前に打って貰った特注品である。
鋭く研いだ刃で一刀両断にしてやるよ!と必死に振り回したのではあるが、しかし尽く空を切った。
ロビーを照らすのはノートパソコンの灯りと、自室のドアから漏れる灯りだけであり、周囲は見渡せなくはないが、ロビーが広いこともあり暗かった。ロウソクの明るさくらいだろうか。
コウモリが黒いことも相まって、距離が離れ、灯りの位置からも遠ざかると、コウモリは闇に滲み消えてしまう。
パタパタと微かに音を立てることはあるものの、滑空に入ると無音。闇から現れ、高速で滑空し襲い来るコウモリは、上手く太刀筋に捉えたと思ったにも関わらず、刃が直前に来るとカクンと角度を変えて躱してしまう。ツバメに似た飛び方ではあるが、奴らは野球のスライダーやフォークのように急に角度を変えることができた。
腕に、ズボンに、胸元に、背中にと、コウモリ達は取り付いて、その鋭い牙を突き立てようとした。
噛まれる前に払い落としてはいるものの、いつしかコウモリは3匹に増え、形勢は不利に傾いていった。
ぼくはロビーでの戦闘を諦め、脱出を考え始めていた。
コウモリの数がさらに増えてくれば、どうにもならないことが一目瞭然だったからだ。
1階まで駆け下り、鍵を外し扉を開け、外に出た。
そして犬と目があった。犬は駆け寄ってきた。
外はダメだ、外はダメだった、忘れていた。
昼間は大人しい犬達ではあるが、深夜は村の警備のために放し飼いにされており、見知らぬ人間を襲うように訓練されている。
大急ぎで屋内に戻り、扉を閉めると、犬が扉に一度体当たりをしてきた。
二度も同じヘマはするかよ、と犬の体当たりしたドアに鍵を掛けた。
……先月、10匹以上の犬の群れに取り囲まれて、にっちもさっちもいかなくなっていたところを、レヒーナさん(7歳)に助けて貰ったばかりである。実に情けない話ではあるが、土地勘や現地の常識に欠けていると、あちこちでミスを犯してしまうものなのだ。
犬からは逃げ切った。
だが、吸血コウモリのいる建物に、閉じ込められてしまった。
身体に張り付いてくるコウモリをはたき落としながら、逃げ込める場所を探す。ヘススや村長の部屋、他の空き部屋には鍵が掛かっていた。台所の窓にはガラスがなかった。僕の部屋の窓ガラスは一箇所割れている。
最後の可能性はバスルームだ。バスルームに飛び込んだ。ここがダメなら、万事休すだ。
幸運なことに、バスルームも隙間が空いている箇所はあるものの、対処可能だった。
Tシャツを脱いで、バスルームのドアの下に詰め込んで、隙間を塞いだ。
シャワーの上方にある穴には、バスルームのカーテンを丸めて差し込んで蓋をした。
これで一安心。
だが、安心すると同時に、吸血コウモリに襲われた恐怖がこみ上げてきて、寒さと恐怖に震えながら、刺身包丁を握りしめたまま、夜が明けるのを待った。
昼間は蒸し暑いジャングルでも夜は寒い。
長く眠れない夜を過ごし、バスルームから這い出たぼくは、手近な村人を捕まえて、コウモリのことを尋ねた。
「ジャングルに吸血コウモリはいるのか?」
「吸血コウモリ? いるね。時々牛が殺されて困っている」
やっぱりいるんだ......
いやまて、こいつ今、とんでもないことを言わなかったか?
牛が殺される? 血を吸われて? 牛が?
いや、そうじゃない。牛は血を吸われて死んだのではない。病気をうつされて死んだのではないか?
写真を撮ろうとしたときは、興奮のあまり忘れていたことではあるが、コウモリは危険である。
狂犬病の保菌率がコウモリ全体の数%だと言われている。狂犬病を発症して助かった人は今まで1人だけ。発症したら助からないのが狂犬病であり、極めて恐ろしい病気だ。
コウモリは狂犬病だけなく、他の感染症の病原菌も保有しており、エボラ出血熱の発生源はコウモリではないかと疑われていた。霧状の糞尿をして病原菌をまき散らすため、噛まれなくても飛沫感染してしまう。病原菌のデパートとなっているのがコウモリだ。
「けど、吸血コウモリは人を襲わないよ。大丈夫だ」
いや、昨夜、襲われたんですけど!
◆◆◆◆◆
吸血コウモリにトラウマを植え付けられたぼくは、後日、メキシコにコウモリの専門家に会いに行った。
彼を知り己を知れば百戦して危うからず、と孫子も言ったではないか。
メキシコのグァナファト。ミイラ博物館のある都市に、コウモリの専門家は住んでいた。
「コウモリは世界中に数百種類もいますが、吸血コウモリは1種類しかいません。
コウモリには吸血鬼のイメージがありますが、たった1種類なので恐れる必要はありません」
その専門家は説明してくれた。
ぼくはその1種類に襲われたんだよ!
彼はぼくを彼の家の中に案内し、暗室へと導いた。
彼はコウモリをたくさん飼育していた。
「この子が吸血コウモリです。どうです? 愛らしいでしょう?」
その吸血コウモリはしわくちゃの人間の顔をしていなかったが、
……ぼくは吸血コウモリを飼育する変態から、後ずさりして逃げ出した。
この短編は、山の上の海洋センターのストーリーの一部となる位置付けにあり、中途半端に始まり中途半端に終わっています。ごめんなさい。
この後、ビダル港の謎を解き明かしてしまい、なぜ山の上に海洋センターがあるのか?が判明する流れになるのですが・・・そもそもが実話なので、機密事項をどう回避してストーリーを架空の物語に見せ掛けるかのプロットを思いついていないのです。
それで、ストーリーとは深く関わらない部分を切り出して短編で揚げたのがこれとなります。