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望月の夜にゆびきりを

作者: 淡園オリハ


 月明かりに照らされた鉄格子は、かすかな光を反射しながら冬の空気を押しのけて存在感を放っている。夜闇に鈍く光る銀色に触れる。冷えた空気をたっぷりと吸い込んでいるのだろう、ヒヤリと冷たい感覚。

 その鉄格子を手前に引く。

 ギィ、と重厚な音が牢獄の廊下に五月蠅く響いたけれど、もう誰もいないのだから、気を使う必要もない。僕はゆっくりと独房に足を踏み入れた。

 後ろに付き添っている男も、足音に気を使うことはないと判断したのだろう。茶色の革靴をコツリ、コツリと鳴らし、僕に続いて牢屋に入る。

 僕も彼も、囚人ではないし看守でもない。

 ただ、一人の女性に会いにきただけだ。

 石づくりの床は冬の冷気を防ぐことなく、空間を底冷えさせている。にもかかわらず向こうの壁側を向いて床に座り込んでいる影があった。僕と彼の目当ての女性だ。

 隣に座り込むと、彼女はおもむろにこちらを向き、口を開いた。

「……あ、なた?」

 泣き叫んで彼女に縋りつきたい衝動を抑えながら、押し殺した声を出す。

「……僕だよ、分かるかい?」

「えぇ、分かるわ。少し老けたかしら。あと、痩せたわね」

「そうかもしれない。君は、変わらないなぁ」

 僕の本心からの言葉を受けて、彼女は嬉しそうに言った。

「そう? ねえ、わたし、綺麗?」

「……ああ、綺麗さ。すごく、綺麗」

 彼女はふふっと小さく微笑んで、幼稚園に息子を迎えにきた母親のようなまなざしを僕に向けた。二人で独房の壁を向いて座り込んでいる姿は、どちらかと言えば二人とも幼稚園児らしいと言える。

 僕は彼女の息子ではないし、彼女は母親になった経験もないけれど、確かに彼女は僕に対して慈愛や親愛の類を抱いていた。それが、手に取るようにわかった。

 手に取るように、というのは比喩ではなくそのままの意味だ。

 僕はそっと、彼女の左手を包むように握っていた。僕の右手の指の間に、彼女の細くて白い指を滑り込ませて、固く、固く結んだ。

 その手から、彼女の感情はよく伝わってきた。

 愛でるように親指で僕の手の皮膚を撫でる彼女。時折僕が手を握りなおそうとして指の力を弱めると、不安げな赤子のようにギュッ、と力強く握り返す彼女。顔を見ると、眉をハの字にして困ったように笑いながら、瞳の奥で僕をまっすぐ見据えて動かない彼女。彼女。彼女。

 繋いだ手を起点にして僕らの体温は混ざり合う。互いの体が発した熱が、鼓動が、感情が混じり、二人の皮膚が触れ合っている部分から、徐々に同化していくような感覚。

 このまま、僕と彼女は一つになれればいい、そう思った。

 壁に背を預けるようにして座り込む彼女に並んで、僕も床に腰を下ろしている。お尻が冷えてきたし、床は石だから硬くて痛い。けれどそんな瑣末なことで腰を上げることは僕には出来なかった。

「わたし、どれくらいの間寝ていたのかしら?」

「ほんの少しだけさ。三十回ほど夏を巡った」

「それ、全然ちょっとじゃないわ」彼女はくすくすと笑って「だって、三十年ってことだもの」と呆れたような悟ったような口調で付け加えた。

 僕は押し黙る。

 かけるべき言葉が見つからない。かけたい言葉は山ほどあったし、伝えたいことは腐るほど胸に残っている。でも、今の彼女に言うべき言葉は、一つもないように思えた。

 ちらり、と背後に立つ男を見やる。彼は指を三本立てると、口を引き結んだまま頷いた。

 僕は目を伏せてしまう。ここまでやってきたのに、会いにきたのに、何を言うべきか分からない。とんだ無駄足、自己満足もいいところだ。謝罪も贖罪の言動も、今の僕にはおこがましい。

「ねえ、あなた」

 顔を上げる。よく通る、聞きなれた彼女の声。

 三十回前の夏に聞いたきり、聞くことの叶わなかった耳触りの良い声。この声をもう一度聞きたくて。


 どれだけ望んだか、分からない。


 どれだけ待ったか、分からない。


 どれだけ泣いたか、分からない。


 どれだけ愛していたか、やっと分かった。


「あなた、疲れた顔をしているわ。ちゃんと眠っているの?」

「……っ、あぁ。心配、するな」

「どうして、泣いているの?」

「それ、は……っ!」

 言いたくなかった。認めてしまうことになるから。

 背後に立つ男がしゃがむ気配を感じた。振り返ると、三本立てられていた指は二本に減っていた。それはもう時間が残り少ないことを告げている。

 彼女は依然心配そうに僕の顔を見ては「ご飯は? ちゃんと食べているの?」「後ろの方は? お友達?」「仕事は順調?」「恋人、できた?」などと質問を重ねてきた。

 それら全てが僕に関することで、僕のために発せられている言葉だということが痛いほどわかるから、本当に痛くなってきた胸につっかえている想いを、吐露してしまった。

「……会いたかったんだ、君に」

「……えぇ、それは私もよ」

「何度も、会いに行こうとしたんだ」

「知ってる。その度に看守さんが慌てていたもの。あまり乱暴しちゃダメじゃない」

「ああ、本当にその通りだ。……でも君の無実を証明したくて、あの日以来、ずっと……僕は」

 僕は、何を? どれほど涙を流しても、禁忌と言われる術に手を出しても、金を積んで釈放を頼んでも、真犯人を割り出して、彼のもとに直談判に行っても。彼女を救えなかったことは、事実だ。

 それなら、僕が彼女に恩着せがましく言葉を発する権利なんて、すでにはく奪されている。僕は口を何度かパクパクさせて、そして閉じた。彼女は一連の動作を見て、またくすくすと笑ってから、どこかのんびりした口調で言った。

「……ねぇ、あなた」

「……なんだい?」

「ここでの暮らしでね、分かったことがあるの」

 分かったこと? そう訊くと、彼女は唄うような声音で、

「私は、私が思っていた以上に、あなたを想っていたわ」

 言葉が、喉から出てこない。

 心が追いつかないのだ、言葉の生成に。溢れた感情が無理に言葉になろうとして、喉からは空気と「あ、う」という声にならない声だけが零れ落ちる。彼女はなおも続けた。

「冤罪で私が捕まった時、あなた、言ってくれたじゃない。『絶対に無実を証明する』って。そう、大きな声で叫んでくれたの、覚えてる」

「……あぁ、僕もっ、覚えてる。覚えているよ」

 すまない、と言う前に彼女が遮る。

「あの日の記憶と、それまでのあなたとの暮らしで貰った幸せと。それら全ての幸せは、私という人間一人が受け取れる幸福の量を遥かに超えていたんだって、気づいたの」

「そんな……そんなはずはない! 君は、君はもっと幸せになっていいんだ! 誰に強制されるでもない。自分の幸福を、自分のために追う、それは、誰かが剥奪していい権利なんかじゃ決してない!」

「うっふふ、そういうと思った」

 妖艶な笑いかたをしながらも、そのしぐさや表情はどこか子供らしさとあどけなさが残っている。きっと、十八歳の姿のままだからだろう。

 子供のわがままをたしなめるように、彼女は言った。

「私はね、満足してしまったの。この小さな独房で。ねぇ、おかしいと思う?」

「ああ、おかしい」

 僕がそう即答したことは、何も間違ってはいない。そう自信を持っていた。けれど彼女は依然として、母親のようなまなざしを崩さないまま、

「でもね、あなた。人間なんて所詮、小さな箱庭の住人じゃない。この星を出ることもかなわない、小さな存在。にも関わらず、みんな満足を求めてふらふらと彷徨っている」

「……それが、間違いだと言うのか?」

「そうじゃないわ。ただ、どこにいても満足はできるということ。この小さな星の上で幸せを得なさいと、神様は言いたいのかもしれない。そして私にとってこの独房は、高層マンションの最上階や海辺のカフェのひとときと同じくらいに幸せな場所だったの。満足、してしまったの」

 あなたと過ごした思い出があれば、って条件付きだけど。と彼女は付け加えた。

 でも、それなら。

「それなら、僕と高層マンションの最上階や海辺のカフェで過ごした方が、幸せじゃないか!」

「そうとも言える。でも、人は経験したことしか経験できないわ。当たり前だけど。もしも想像から経験を得られるのなら、もう人は生きている意味をなくしてしまうでしょう。思い浮かべるだけで、幸せになれてしまうのならね。でも人はそこまで単純じゃない。大切なことは、起きたことや経験をどう受け取るのか、そこなんじゃないかしら」

「…………君は、どう受け取ったんだ?」

「もう、言ったじゃない。幸せだったわ」

「そんなはずはっ!」

 認められなかった。彼女がこの独房で満足してしまっていたのなら、僕の数十年は水泡に帰すのか。彼女と叶えたかった未来は、可能性は、永遠にこの世界から失われてしまうのか。

 僕は、もう何が許せないのかすら分からない。ただ、不満だった。世界が、自分が、彼女が。

 少しだけ目を吊り上げて、彼女は叱るように僕へ言った。

「あなた、さっき言ったはずよ。人が幸せになるための行動を、他人が阻害してはいけないって」

「ああ、だからこそ!」

 彼女は首を振る。僕は、何か間違っているのだろうか。分からない。

「私は、あなたと過ごした時間を思い返すことが出来たこの独房が、幸せだったわ。それは、たとえあなたが否定しても、変わらないの。そして、否定なんてすべきじゃない。他人の幸せのかたちを否定することは、あなたにとって正しいこと?」

「…………いや。正しくは、ない。けど、それは」

 諦め、じゃないか。

 より正しい幸せを求められるはずだったのに。この世界の不条理に合わせた諦めの幸福じゃないのか。そう言おうとしたけれど、彼女がそれより早く、声を発した。

「あなた。あなたは、今幸せ?」

 答えに詰まる。僕が幸せかどうかなんて、考えたこともなかった。

 いや、考えたことはある。三十年前、彼女と過ごしていた日々は、たまにそう考えていた。けれどいつの日も、答えはイエスだった。隣にはいつでも彼女がいた。彼女といて幸せでなかった日など、1日たりともなかったと、胸を張って言える。けれど。

「今、は……分からない。君が冤罪で連れていかれてから、そんなことを考える余裕もないくらいに動き回っていたから。そうして、結局……」

「違うわ、あなた。今よ。この瞬間は、幸せ?」

「君と話している、今のこと?」

 彼女は頷いた。そんなの、決まっているじゃないか。

「幸せさ。いつよりも、なによりも、どこにいるよりも安らぐ。幸福だよ。君の声を聞いているだけで、満ち足りた感覚がするんだ」

「そう」と満足げに頷いて「私もよ」と微笑む。

「今更、そんなことを聞かなくても」

「いいえ。私はそれが聞きたかったの。あなたが私のために奔走して、幸せを感じないままに磨り減って、削れて、どんどん薄れて。そうして、いつか消えてしまうんじゃないかって、怖かった」

「そんなこと……」ない、とは言えない。

 事実、僕は四十八歳には見えない風貌にまで老け込んでいるし、食事もまともに食べないことが増えたから、何度か病気を患ったり、突然倒れたりしたこともあった。それを削れたとか、薄まるというのなら、きっと僕は消えてしまうほどに磨り減っていると言える。

「私はあなたを想うと幸せなのに、あなたが私を想うと辛くなるなんて、不公平よ。悔しいじゃない」

「悔しい?」

「ええ、悔しいわ。まるで私との思い出だけじゃ、あなたが幸せにならないみたい。それどころか、私があなたを不幸にしている」

「それは違う!」

 廊下にこだまする声は震えていた。

 遅れて、自分の発した声だと気づく。あれほど大きな声が出せたことに驚きつつ、平然を装って僕は続けた。

「君に出会わなければ、僕は何一つ幸せを感じないまま死んでいた。君に出会って、共に暮らして、いなくなるまでの数年間は、僕がこの歳まで生き続ける理由になるくらいに、眩しかったんだ」

 彼女は黙って、僕を見つめている。

「あまり言葉にしたくないんだ、大切な気持ちは。無理やり型に押し込んで定型化するようで。こぼれ落ちてしまうところに、気持ちの本意がこもっているのに。だから、上手く伝わるとは思わないけれど……」

「そういう前置きをすることで、少しでも真意がこぼれないように心遣うのも、あなたの癖よ」

 彼女はくすくすと笑い、僕に先を促した。苦笑をひとつこぼして、頭を掻いた。

 そうっと、スプーンになみなみ掬った絶品のスープを運ぶような丁寧さで、僕はそれを口にした。

「僕は、君が、好きだ。なによりも。この世界の全ての幸せは、君だ。誰がなんと言おうと、それは変わらない」

 言い終わって、深呼吸をする。

 僕は泣いていた。もしかしたら、初めから泣いていたのかもしれない。

 磨り減って、削れて、気がつかなくなっていただけなのかもしれない。

 僕は彼女を失ったあの日から、常に泣いていたんだ。

 彼女も目を潤ませて、言う。

「私もね、この独房で一人で過ごせたのは、あなたのおかげ。あなたがこの世界の全ての幸せだったから、その記憶だけで、他に未練はなかった。もし未練が残っていたら、わたし、脱獄してたかも」

「ああ、君はそういうタイプだ」言いながら目元を拭う。

「ええ、そういうタイプなの」彼女も目元を拭った。

 僕も彼女も、泣きながら笑った。

 月明かりに照らされて、彼女の顔が見える。涙と鼻水でグジョグジョになっていたけれど、その表情はこれまで見たどんな彼女の顔より美しかった。

「ねえ、それじゃあひとつ約束をして」

「唐突だね。いいよ、どんな約束?」

「……もう、自分の幸せを否定しないで。そうして、前を向いて、生きて。幸せを追って、生きて」

「…………もし、それを破って、また君を求めてしまったら? 例えば禁忌とされる口寄せの術や、憑依、あるいは復讐として牢獄に君を放り込んだ相手を惨殺したり、真犯人をこの独房に監禁して撲殺したり、そういうことに人生を費やすようなことが今後の僕にあったら?」

「うーん、そうね……。とりあえず、あなたとの婚約を解消するわ。それどころか、もらった指輪も、洋服も、花も写真も、みーんな燃やして灰にしてしまうの」

 彼女の目は本気だった。僕は素直に頷く。

「分かった。君を愛していることは変わらないけれど、今後妄執に取りつかれることは、絶対にない。君との思い出を燃やしたくはないから」

 彼女は満足げに二回頷いて、元気に小指を突き出してきた。僕も小指を立てて、絡ませる。

「ゆびきりげんまん、うそついたら……えー、と。思い出燃やして一生あなたを呪う! ゆーびきった!」

 さらりと約束を破った時の対価が重くなっているけれど、見逃すことにした。

 そもそも僕はこの約束を破る気など毛頭ない。

 ふと、後ろを振り返る。男の指はもう一本も立っていない。猶予は残り僅かだと報せている。

 僕と目を合わせると、彼はゆっくりと目を閉じて、身を翻して独房の外に出た。見送ってから彼女が口を開く。

「あの人は、お友達?」

「……いや、ただの知り合いだよ。ここまで付き添ってもらった」

「そうなのね。ねぇ、ひとつ気付いたんだけれど、いいかしら」

「うん? なんだい」

「もう、わたしは死んでいるのよね」

 彼女は気付いていた。

 どのタイミングで気付いたのかは分からない。けれど彼女の目には、ある種確信めいたものがチラついているように見えた。僕は頷く。

「ああ、そうだ。君は今から五年前に、この独房で死んだんだ」

「……そう、なのね。全く思い出せないわ」

「死後って、そういうものなのかも知れない。さっき部屋を出て行ったあの彼に、僕は頼んだんだ」

「何を?」

 一拍おいて、僕は言った。

「君を、蘇らせてほしいと頼んだ」

「…………結果、今わたしはここに生き返ったの?」

「まあ、そういうことになる。けど、ひとつ問題がある」

「それは?」

「あと一分もしないで、君とは永遠にさよならをしなくちゃならない」

 沈黙が場を支配する。

 もう、僕の中にかけるべき言葉は残っていない。

 彼女の思いを知ることができた。

 自分の間違いを知ることができた。

 彼女と約束を交わせた。

 もう、やり残したことは……。

「――キ、キス! ……して、くれない?」

 驚いて、彼女を見る。

 顔を赤くして俯いている。

 キス、の「キ」がやけに大きな声だったことからしても、彼女は今かなり恥ずかしい状況なのだろう。

 そういえば、彼女からこうして肉体的な接触を求めてきたことは記憶になかったな、と思う。

 彼女が僕にこんなことを頼む姿は、これまで見たことがなかった。

 少し嬉しく思ったことは、僕の胸の内に秘めておこう。

 僕は無言で、顎に右手を添える。

 彼女の身体はもう冷え切っていたから、温める意味も込めて左腕で彼女の華奢な身体を抱いた。彼女の両腕がすっ、と肩にまわされる。

 見つめ合う。彼女は赤らめた顔で微笑んで、背後の高窓から覗く満月が良く映えた。

 この光景を心に刻もう。そんなことを考えて、どちらからともなく目を閉じ、そして。


 音もなく、僕らは口づけを交わした。

 静寂に包まれた独房の中で、月明かりに照らされて、最も愛しい人と、最も相応しくない場所で、キスをした。

 そっと左手に抱いていた身体を離すと、彼女の満面の笑みが目に入った。

 僕も笑顔を向ける。


「さよなら」

「えぇ、さよなら」

「幸せだったよ。とても」

「わたしも。あなたは、わたしより幸せになるのよ。約束ね」

「おい、どんどん約束が増えていくじゃないか」

「うふふっ、いいじゃない。だってそれくらいたくさん置き土産がないと、あなた、退屈で死んじゃうでしょ?」


 ああ、確かに。

 そう思って少し笑い、また彼女を見る。


 白骨死体が、壁に寄りかかっていた。


 先ほどまで彼女が座っていた石の床は、初めから何もなかったかのように冷え切り、月明かりももう僕以外を照らすことはなかった。

 先ほどの満月を思い出すけれど、記憶の満月と今目に映る満月とでは、圧倒的に輝きが違う気がした。

 僕は白骨に近寄り、左手の骨を見る。薬指に指輪が嵌められていた。

 かがんで、指輪に口づけをする。冷たい。唇に砂利が張り付いた。

 何年も放置されていたように、汚れて輝きを失ったその指輪は、紛れもなく彼女のものだった。

 衣服の端で指輪に着いた汚れをふき取ってからゆっくりと立ち上がり、独房の外に出て廊下を歩く。

 コツリ、コツリという足音が響くけれど、当然その音に反応する存在はない。

 しばらく歩いて外に出る。

 男が壁に寄りかかって腕組みをしながら待っていた。僕に気づいて腕を解くと、壁から離れて僕に向かい合った。

 無口な彼が、自分から声をかけてきたのは、後にも先にもこの時だけだった。

「もう、いいのか」

「ああ、もういいんだ」

「……答えは」

「……え?」

「答えは、見つかったか?」

 少し迷って、言葉を選ぶ。手に取った言葉は、

「これから、見つけるさ。妻とそう約束をしてきた」

 なんとも曖昧で力強い、僕の意思の表明だった。

 そして彼女からもらった、歩く強さでもある。

「……そう、か。それならいい。戻ろう」

「その前に、礼を言わせてくれ」

 彼は振り返って、真っ直ぐに僕を見つめた。

 そらすことなく、僕もその目と目をあわせる。

「君のおかげで、妻と最後の会話を交わすことが出来た。本当に感謝している。ありがとう」

「……俺は、ただ仕事をこなしただけだ。それ以上のことはしていない、だから礼もいらない」

「まったく、つれないな、君は」

「よく言われるよ」

「――それでも、あの時席を外してくれたのは、君の優しさだろう? 僕は、その優しさに礼を言うよ」

「…………そうか」

「ああ、そうだ」

 僕の返事はぼんやりとした夜の闇に溶けていく。

 踵を返し、前をすたすたと歩いて行く男の背中を追って三歩ほど踏み出してから、背後を振り返る。

 立派だったはずの石造建築物はところどころに穴が空き、風雨にさらされ続けたのだろう、塗装はすでに剥がれ落ちている。

 異様な建物を雪が覆って、いびつな雪像にも見えた。

 もう用はない。

 二度とここに来ることはない。

 そう決めて、僕は一歩、また一歩と雪の上に足を踏み出した。

 小指をさする。不思議と、もう寒さは感じなかった。


 寒いですね。

 これを書く手がかじかんでいます。作中の二人のように体が冷え切っています。お風呂入ってきます。


 コメント、感想いただけると体温も上がるかと思います。凍死を防ぐためにも、よろしくお願いします。

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