第9話 均衡
「玉城は電話一本よこさないよね」
編集室のデスクで長谷川はポツリと言った。
「え? 玉城先輩が、何ですって?」
PC入力作業をしていた多恵がひょいと顔をのぞけた。
他の社員は早めの昼食に出払っていて、現在編集室には二人のほか誰も居ない。
誰の策略か、いつの間にか新人の多恵の席は、長谷川の斜め前に配置されていた。
けれど長谷川を煙たく思っていない多恵には、何の支障もなかった。
「電話くらいしてくればいいのに。今時ケイタイだって国際電話できるよ」
「してくればいいのにって、長谷川さん。なに用で?」
「何用も、これ用も・・・。なんかあるだろ」
「でも、玉城先輩は今、グリッドに関わってないし、長谷川さんの部下でもないですよ?」
多恵はしれっと言った。
「そりゃ、そうだけどさ」
長谷川はつまらなさそうに言うと、印刷所から上がってきた色校のチェックを始めた。
そんな長谷川を、多恵は唇に指を当ててチラリと見る。
「きっと国際電話の契約なんてしてないですよ、先輩のことだから。それか、ケイタイ水没させたか、無くしたか。それとも長谷川さんの携帯番号うっかり消しちゃったとか。けっして長谷川さんの声が聞きたくないとか、そう言う事じゃないと思いますよ」
「あんたの慰めは、傷の無いところに傷を作るよね」
「ええ? どこらへんが?」
多恵は無自覚らしく、心底驚いて訊いてきた。
「もういいよ。もしあんたの所に玉城から電話が掛かってきたら、『ちんたら、社員の有給休暇に付き合ってないでさっさと帰ってこい』って言っておいて」
「了解です。長谷川さんも寂しいんですね、先輩がいないと」
「そんなんじゃないよ」
「またまた」
「均衡が崩れるんだ」
「ん?」
「あいつがいないと、何となくバランスが崩れるんだ」
「バランスですか?」
多恵がキョトンとした。
「とにかくそう伝えといてよね、多恵ちゃん」
長谷川はそう言うと、今度こそ校正に集中して目を伏せた。
◇
「・・・秋山さんの目の前で撃たれたんですか? その犯人は」
リクは、秋山が語った思い出の展開の唐突さに戸惑った。
「ああ。仲間の二人が身代金受け取り場所に、車を回して来るはずだったからね。あの人は配置されてた現金入りバッグを掴むと、気を緩めて俺から離れた。警官も誰も居ないはずだったんだ。・・・けれど、急にパンっていう乾いた音がして、あの人は俺から2メートル先で小さな黒いかたまりになった。パッと視界に散った赤い雨が、俺の顔や手に降ってきた」
恐怖なのか、怒りなのか、恍惚なのか。
秋山の表情を読みとろうとしたリクは、けれどすぐにそれをあきらめ、静かに椅子の背に体を預けた。
「ごめんね、こんなことまで話つもりは無かったんだけど。君が静かに聞いてくれるから、つい話してしまったよ。もう25年も昔の話だ」
秋山は急に素にもどり、顔を赤らめると、照れ隠しのように再び手元のグリッドをめくり始めた。
「その時の強烈な感情は消えていないんでしょう? 秋山さん」
リクの言葉に秋山は笑った。
「もう25年前の話だって言っただろ?」
「誰を恨んでいるの? 今」
秋山は口元にゴムのような笑みを貼り付かせたまま、リクの問いには答えずに無言でゆっくりグリッドを捲っていく。
30分ほどの昔話の間に、リクが煎れたコーヒーも、すっかり冷めてしまっていた。
「クリムト、カラバッジョ、ブーシェ、モロー、ブグロー・・・。最新号はエロス特集かい?」
今やっとページに焦点が合ったかのように、秋山が手に持ったグリッドを見つめて言った。
リクがその言葉に笑う。
「長谷川さんが聞いたら怒るな、きっと。そういうテーマで組んで無いってね」
「エロスは健全な美の現場には必ず存在する。そう長谷川編集長に言ってあげるといい。通俗な物とは違うよ。ほら今、俺の目の前にも一つある」
リクは笑うのをやめ、テーブル越しの秋山の目を見た。
秋山はリクに意味ありげな視線を絡めた後、再びそれを手元に落とした。
「エロスは宗教画の残酷で非道な描写の中にも存在する。私は特にカラバッジョが好きでね」
秋山は、開いたページを指の腹ですっと撫でた。
半裸の刺客に今まさに殺されようとしている聖マタイの姿を描いたカラバッジョの作品だ。
「僕は残酷で、非道ですか?」
リクが真顔でポツリというと、秋山は笑った。
「君はちがう。君は可憐なブグローのエロスだ」
秋山はブグローの『アモールとプシュケ(子供たち)』をトンと指で叩いて涼しい顔をした。
幼いキューピッドの少年、アモールが、少女プシュケの頬にキスをしている可愛らしい絵だ。
リクは、“分からない”というふうに小さく首を横に振った。