第6話 わがまま
「リクのプライベートな場所を教えるわけにはいきません」
表情は穏やかだったが、秋山に投げつけた長谷川の声は剣呑だった。
秋山は、突然現れたこの大女の説明を求めるように、佐伯を見た。
「グリッドの編集長の長谷川さんです」
佐伯がそう言うと、秋山はクルリと表情を一変させ、そつのない笑みを浮かべた。
「ああ、あなたがグリッドの? あの美術誌は素晴らしい。毎号見させてもらっていますよ」
「それはどうも、ありがとうございます」
儀礼的にそう返すと、長谷川はリクのほうを向いた。
「営業車を借りてあるんだ。ついでだから送ってあげるよ。さ、行こう」
「いいよ、別に。今来たところだし、佐伯さんともちゃんと話をしてない」
けれど長谷川はそれを無視し、佐伯と秋山の方に向き直った。
「ちょっとリク、病み上がりなもので、今日は失礼させてもらいますよ。佐伯さん、また明日にでも顔出しますので」
佐伯が少しばかり眉を上下に動かし、「了解しました」と答えると、長谷川はすぐさまリクの手をつかんで引っ張った。
リクも渋々といった形で従う。
長谷川の不機嫌の訳は分からないが、こういう時は逆らわない方がいいことを、リクも知っていた。
面倒くさいのだ。
「あ、待って下さい」
秋山の声が、強引に長谷川とリクの足を止めた。
秋山は素早く自分の名刺を取り出し、その裏に万年筆で何かを書き込んだ後、リクに歩み寄るとそのジャケットのポケットに落とし込んだ。
「また近いうちにお会いしましょう。ミサキ・リクさん」
最期にそう言って覗きこんできた秋山の目は、なぜか少しも笑っていなかった。
ほんの少し胸にザワリとしたものを感じたが、リクは小さく頭を下げ、早く来いとばかりにこちらを睨んでいる長谷川の後を追った。
◇
「病み上がりなんかじゃないけど」
長谷川の運転する営業車の助手席に沈み込みながら、リクが不満げに言った。
「じゃあ、あのままあの男に、次に会う約束させられたり、家の住所訊かれたりしたかった? あの男がどんな目であんたを見てたのか、気が付かなかったの?」
「客は大事にしろって言ったくせに」
「ああいう成金は金で芸術も芸術家もすべて買い取れると思ってるんだ。あんたの絵は、あいつに買い占められる為の物じゃないよ」
リクが長谷川の言葉を聞きながら、横で笑った。
「分かんないな。誰が買ってくれるかなんて、僕にはどうでもいいんだけど」
「私はどうでも良くない」
長谷川はきっぱりと言った。
長谷川自身、それが子供じみたわがままだとは良く分かっていたが、言わずにいられなかった。
そうしないと、腹の中にたまった鬱憤が、どこかで爆発しそうだった。
それは秋山に対してなのか、それとも、自分の保身に無頓着なこの青年に対してなのかは判然としない。
「長谷川さんて、いつ僕のマネージャーになったの?」
リクが、前を向いたまま冷たく言った。
確かにリクへの干渉が行き過ぎていないとは言えない。
けれどそんな一言が、どれ程相手を凹ませるか、この青年はきっと一生気付かないのだ。
いや、気付いたとしても、気にもならないのだ。
長谷川はなんとも言えない空しさを感じ、その空しさの原因が分からぬ事がまた腹立たしく、つい乱暴にハンドルを切った。
年期の入った営業車は、甲高くタイヤをきしませながら、リクの家へと続く国道に入って行った。
商業ビルがまばらになり、大きめの国立公園を越えたあたりで、区切られたように住宅地に変わる。
長谷川が助手席にチラリと視線を送ると、リクは黙ったまま、窓の外を見ている。
不機嫌なのか、そうでないのか分からない時の沈黙は、どうにも居心地が悪い。
長谷川はカーラジオのスイッチを入れた。
少しばかりの雑音と一緒に、少し前に公開された邦画の主題歌が流れてきた。
切なくて柔らかい、長谷川の好きな曲だ。
なんとなく、このミュージシャンの歌はどれも、リクに合う。
そんなことが、何の脈絡もなく長谷川のなかに浮かんだ。
リクの家が近づくにつれ、山々も近づき、景色に心地よい緑が目立つようになる。
雲一つ無い、気持ちのいい小春日和だった。
少し陽射しが眩しかったのか、リクが左手を上げ、目の上にかざした。
そのジャケットの下から件の白い包帯がチラリとのぞき、長谷川の視線に飛び込んできた。
「手、どうしたの?」
長谷川が前を向いたままさり気なく訊くと、リクはつまらなさそうに「捻挫」とだけ答えた。
「そう」
長谷川がそう答えると、ぷつりと会話は途絶えてしまった。
なんと味気ない答え。
けれど、実のところ長谷川はそこそこ満足だった。
当初の目的は達成された。
電話するほどの事でもないが、きっと訊かなかったらずっと胸の中でくすぶってしまっただろう質問。
この青年の一言ひと言に一喜一憂する自分が腹立たしかったが、とりあえずは胃の中の不快感が消えた事に、長谷川は安堵の息を漏らした。
『・・・では午後のニュースです。帰宅途中の会社員、久留須道夫さん46歳を刺した犯人の足取りは依然つかめず、捜査は困難を極めている模様です。久留須さんはこの日夜勤を終えたあと・・・・・』
若いキャスターが、例の殺人事件の続報を伝えていた。
朝のニュースの後すぐに、被害者の身元が判明したらしい。
会社の近辺で起こった事件であり、犯人の目星も立っていない事が不気味で、背筋が寒くなる。
編集部の若い子にはあまり遅い時間に退社しないように、長谷川も注意を促していた。
「十字架も結局、殺人鬼には効果なかったんだね」
長谷川はぼんやりと、そんな少々不謹慎な冗談を言ってみたが、隣に座っているはずの青年から返事は返って来なかった。
見ると、リクはポカポカした陽気に眠気を誘われたのか、気持ちよさそうに目を閉じていた。
日にも焼けず、相変わらず透けるように青白い頬に、まぶたに、車窓から落ちる光が静謐な陰影をつくりだしている。
「・・・寝ちゃったか」
長谷川は車の速度をギリギリまで落とすと、努めて視線をフロントガラスに向け、何となく口元が緩む自分に戸惑いながら、プチリとラジオのスイッチをオフにした。