最終話 闇の淵で
リクはボンヤリ自分の家の天井を見つめた。
吹き抜けのログハウス調のリビングの天井には、申し分なく柔らかな光が満ちている。
けれど自分の異常に発達した第6番目の感覚が、一瞬の安息も許さなかった。
長谷川の車を降り、礼を言ってこの家に入ってくると、リクを包んだのは耳の痛くなるほどの静寂と、底知れない暗闇だった。
また長い夜が始まる。
長谷川が帰る時、一瞬呼び止めようと思ったが、踏みとどまった。
そんなことをして、どうなるはずもない。
自分の弱さが彼女を帰すことを永遠に拒むかも知れない。
何をしでかすか分からない未知数の魔物は、今も息のかかるほど近くで、リクの体も理性も呑み込もうと、
いぎたなく呼吸している。
秋口の冷え込みは、この家に帰ってきてから急に強まった気がした。
ポケットの携帯を確認すると時刻はまだ11時半。
このまま朝まで起きていられるだろうか。
人間は眠らずにいたら、どれくらいで死んでしまうのだろうか。
そんなバカバカしい事を考えていると、寝不足のせいで沸き上がってくる病的な嗤いがリクを突き上げた。
「秋山さん。僕も、狂ってる」
リクは堅い木製の椅子の背に体を預けながら、目を閉じて力なく嗤った。
ふいに静寂を切り裂いて携帯が唸り声を上げた。
体を反応させたリクの手から抜け落ちた携帯が、バイブのせいで生き物のように床の上を不気味に旋回する。
ハンマーのように打ち付ける心臓をなだめながら、リクはそれを拾った。
モニターに表示されたのは、やはり登録していない知らない番号だ。
まだ少し震える手で通話ボタンを押すと、リクは慎重にそれを耳にあてた。
「・・・はい」
『リク?』
いきなり耳に飛び込んできたのは、突き抜けたように明るい、懐かしい男の声だった。
「玉ちゃん・・・」
声がかすれた。
それはあまりにも思いがけなかった。
『偉い偉い。ちゃんと電源入れてたんだなリク。9割がた諦めてたんだよ。よかった。元気か?』
泉のように胸の奥底からあふれ出した感情がリクの喉を塞ぎ、言葉が出てこない。
鼻の奥がツンとなり、目頭が熱を持ち、痛みが走った。
『何だ? 聞こえないよ。電波悪いのかな。リク? 聞こえるか?』
「うん・・・聞こえるよ」
何度も瞬きし、視界をクリアにしてからリクは返事した。
「玉ちゃん、今どこから?」
『今なあ、チェンナイなんだ。南インド。さっき着いたばっかなんだ。数時間前まではバガンにいたんだけどさ、すごかったぞ』
「バガン?」
『ああ、ミャンマーのバガン。時差少しあるから、そっちは深夜だろ? 悪いな。実はさ、同行してるカメラマンにこの携帯借りてるんだ。そいつ国際電話登録してるから。さっきそいつが家族にかけるっていうんで、5分だけ貸してくれって取りあげたんだよ。本当はミャンマーから電話したかったんだけど、あそこって携帯通じないんだ。知ってた? ・・・ああ、横でカメラの奴が睨んでる。早くしろってさ。せこいんだよ、まったく』
相変わらずの玉城の様子に、じわじわと笑いが込み上げてくる。
「そう。まだそんな遠くなんだね」
『おう。バガンってさ、寺院ばっかなんだぞ、リク。今日はシュエジゴンパゴダっていう金ぴかな所見てきたんだ。ゴージャスなんだけど俺、霊感あるだろ? なんかいっぱいゾワゾワしたもん感じて落ち着かないんだ。その後でダマヤンジーっていう幽霊寺に行くっつーから『殺す気か』って却下してやったよ。こっちのお守りはリアルでシュールで効き目ありそうだぞリク。ミャンマーでは買いそびれたけど、チェンナイで何か見繕って買って帰ってやるからな』
カメラマンの目を気にしているらしい玉城は、面白いほど早口に喋った。
「もう、お守りはいいよ。この前いっぱいもらった」
声が震えないように、リクは笑って言った。
『あ、受け取ってくれたか? 何か、数打ちゃ当たるかと思ってさ』
「うん、そうかもね」
『お前、元気か?』
「・・・ん?」
『あれから、大丈夫か?』
「ああ、大丈夫だよ」
『そうか。それなら良かった。あ、隣のカメラの奴が噛みつきそうな顔になってきたから切るよ。じゃあ、もうしばらくこっち回って帰るから。またな』
「もうしばらくって、いつ?」
最後の言葉が掠れた。
そしてその問いは玉城には届かなかった。
弾丸のように一気に自分の話したいことだけ喋って、玉城の電話はぷつりと切れてしまった。
いつのまにか立ち上がっていたリクは、携帯を机の上に転がすと、壁際の布張りのソファまで歩いてその上に横になった。
いきなり花火が炸裂したように突き破られた静寂は、玉城の声が途切れた途端、さらに残酷な沈黙でリクを包み込んだ。
「もうしばらくって、いつだよ」
二人がけのソファに膝を折って仰向けに転がり、天井の一点を見つめながらリクは、ゆっくりと左腕を上に伸ばした。
天をつかむように伸ばした腕は青白く、不摂生のため前よりも細くなってしまった。
少し腕を曲げ、手首に巻き付けた真っ白い包帯を右手の指で触ってみる。
そこからの痛みは気を反らさない限り、一日中リクを苛んだ。
そしてその痛みだけが今のところ、リクの正気を保つ支えになっていた。
天使は来ない。
リクの脳裏に、秋山に見せられたレンブラントの絵が鮮やかに蘇った。
白い裸体を晒した少年の顔面をつかみ、その無力な首に刀を振り下ろそうとしている老人の顔。
その顔はリクの中で悪魔に変わり、狂気に満ちた笑みを浮かべている。
その傍らに、天使はいない。
その凶行のあとに広がるのは、ただ止めどない、赤い血の海だ。
無力な羊は神に見限られ、その首を地面に転がし、ただの無意味な骸と化す。
「早く帰ってきて」
小さく口の中で呟きながら、リクは右手で左手首を撫でた。
じんわり赤い血が滲んでいる。
「そうじゃないと、もう間に合わなくなるよ」
左手を包み込むように胸に抱き、その疼きに顔をゆがめた後、リクは力なく、小さく嗤った。
(END)
『RIKU・5 天使の来ない夜』を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
お察しのように、この『RIKU・5』は、ここで完結はしません。
次回、物語は更に先の見えない黒い霧の中に迷い込み、そして意外な展開を見せます。
今までの諸々の疑問を払拭する最終章。
引き続き、読んで戴ければ幸いです。
次回、『RIKU・6』 を、宜しくお願いいたします。