第22話 エンドロール
「あの・・・」
ゆっくり、ふらつきながら立ち上がった秋山は、その先の言葉が見つからない様子で、ただ困惑した顔でリクと長谷川を交互に見つめた。
まだ34歳という若さにもかかわらず、いままで背負い込んできた自分の中の狂気との戦いで、すっかりその目も肌も精彩を欠いていた。
長谷川は足元に転がっていたナイフを拾い、パタリと閉じると秋山の手にひらに押し付けた。
「後で捨てちゃいなさい。それでこの馬鹿らしいお話はおしまい。明日からまた、真面目な実業家にもどりなさい」
ちゃんと聞いているのか、いないのか。秋山が無言でそのナイフを受け取り、少しぎこちない手つきでポケットに仕舞い込むのを見ながら、長谷川は再び口を開いた。
「ねえ秋山さん。しっかりした、心根のやさしい部下があんたのこと待ってるよ。浜崎って言ったっけ。あれは、あんたがいないとダメらしい。ちゃんと自分を慕ってくれる人間に目を向けなさいよ」
「浜崎・・・」
意外なところで飛び出してきた名前に、秋山の目は戸惑ったように泳いだ。
「そしたらさ、もうリクから離れられるでしょ? リクを忘れてやってくれるかなあ」
その言葉に今度はリクが驚いて、「長谷川さん・・・」と、小さく声を漏らした。
「でも、あの・・・リクさんの」
秋山が声を出した。
喉が渇ききっていたのか、そこで一旦唾を飲み込むと、再び懇願するように続けた。
「リクさんの絵はずっと私のお守りでした。これからも、そう思っていていいですか?」
なんともピントのずれた言葉に長谷川は苦笑し、リクも小さく笑った。
「あんたのもんだから、好きにしたらいいよ。でも、リクはやらないよ」
「長谷川さん!」
悪趣味な冗談に今度は少し声を荒げてリクがたしなめた。
長谷川は面白そうにニンマリと笑い、秋山もつられて照れたような、少し寂しそうな笑みを浮かべた。
長谷川とリクが乗ってきた車はすぐ近くの歩道に乗り上げるようにして止めてあった。
おなじみの大東和出版の営業車だ。
そこまで3人は歩き、車に乗り込もうとした長谷川とリクに、秋山は声をかけた。
「あの・・・」
「何? やっぱり乗ってく?」
そう訊く長谷川に秋山は大きく首を横に振る。
そして、
「長谷川さん。やっぱり・・・天使は来ました。ちゃんと来てくれました!」
そう言って子供のように満面の笑みを浮かべ、長谷川とリクに深々と頭を下げた。
◇
「庶務がさあ、『また営業車使うんですか?』って嫌そうに言うんだよ。いいじゃんねえ。減るもんじゃなし。私だってさ、自分の車持ってたら自分の使うよ」
あまり筋の通ってない不満をぼやきながら、長谷川は車を発進させた。
深々と頭を下げたままの秋山をバックミラーでチラリと見たが、もう興味も無さそうに前を向き、パチリとFMラジオのスイッチを入れた。
今人気の女性アイドルグループの新曲が賑やかに流れている。
「このアイドルグループの子ってさ、何十人いるのか知らないけど、みんな同じ顔に見えるよね。前に私がそう言ったらさ、編集の松川が『長谷川さん、そりゃあ歳のせいですよ』って言いやがった。人を年寄り扱いしやがって。ねえ、リクは見分け付く?」
長谷川は、ワザと何でもない話を振ってくる。
秋山のことから頭を切り換えたいのか、それともさっきの自分の言動が気恥ずかしかったのか。
リクは助手席からチラリと、その心優しいジャンヌダルクに視線を送った。
ラジオではJ-POPが終わり、ニュース番組へ移ろうとしている。
「ありがとうね、長谷川さん」
急にシンとした車中で、リクはそれだけ言った。なんとなく、長い言葉は必要ないように思えた。
長谷川はただ前を見たまま、無表情にハンドルを握っていたが、たっぷりと時間を費やした後、
「どういたしまして」、と返してくれた。
少し顔が赤いのは気のせいだろうか、
リクは初めてその横顔に、女性らしい可愛らしさを見た気がした。
『では、先程の速報の詳細です。今日午後6時過ぎに現行犯逮捕された男は、一連の通り魔事件の犯行を認めました』
クリアなアナウンスの声に、リクも長谷川もハッとしてラジオに集中した。
リクが手を伸ばし、ボリュームを少し上げる。
『今夜現行犯逮捕された垣ノ内被告は、23日の未明に起こった久留須道夫さんの殺害に関しても犯行を認めました。他の被害者のように脅すだけのつもりが、謝って刺してしまった。殺意は無かったなどと供述していると言うことです』
大まかな内容をしばらく無言で聴いた後、リクは長谷川の方を向いた。
長谷川は無表情だ。
「ああ、どうりで久留須の家の周りが閑散としてた訳だ。そっちに群がったんだね」
と、ただ独り言のように呟いただけだった。
「秋山さんがやったんじゃないかって、長谷川さん一瞬でも思わなかった?」
「あんただって疑ってなかったくせに。だからさっき何も訊かなかったんだろ?」
「まあね」
「エンドロールだ」
「え?」
「終焉」
長谷川はリクのほうに一瞬、顔を向けた。
「天使も来たし、疑問も晴れた。映画なら大団円。ここで暗転して、エンドロールだね。B級のサスペンスコメディだけど」
長谷川はニンマリ笑った。
「うん。終わったね」
リクも笑い返した。
本当にこの人は、かっこいい人だと思った。
「寝てもいいよ」
再び始まったJ-POPを聴きながら、長谷川がポツリと言った。
「え?」
「あんた、私の車に乗ると絶対寝るでしょ。きっと寝不足なんだ。だから寝ていいよ。ちゃんと家まで送ってあげるからさ」
そうだったろうか。
リクは何だか気恥ずかしいような、子供扱いされて癪なような気持ちになりながら、少し記憶を辿った。
けれど記憶回路の働きが、やけに鈍い。
長谷川の言葉の魔法に体が反応したのだろうか。
車の中に満たされた見守られるような安堵感が、肌から脳に染みこんでくるように、心地よい眠気がリクを包み込んだ。
長谷川に返事をしたか、しないかも分からぬまま、
リクは温かな無の空間にゆっくり意識を落とし込んで行った。