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第13話 イサクの犠牲

秋山が指定した喫茶店は、佐伯の画廊、無門館から一駅ほど離れた静かな商店街の中程にあった。

レトロで重厚な雰囲気を纏いつつ、白く塗られたアーチ型の出窓が、ホッとする可愛らしさを演出している。

一歩中へ足を踏み入れたリクを、エントランスの飾棚に並ぶ小物達と、香ばしいコーヒーの香りが優しく迎えてくれた。

しっくいの壁には、様々なタッチの無名画家の絵画が飾られており、ギャラリー喫茶になっているらしかった。中はわりと広く、十数人の客がカウンターや窓に面した席に座っている。


「ミサキ様ですね? 奥の席で秋山様がお待ちです」

小柄な若いウエイトレスが、初対面にもかかわらず、エントランスに立っていたリクに声をかけ、

ホールからは死角にあたる奥の席へ案内してくれた。


案内されたその席は、観葉植物とパーテーションで自然な感じに仕切られた3畳ほどのブースになっており、左壁面にはF80はありそうな、迫力のある複製画が飾られていた。

秋山は渋い顔でその絵をじっと見ていたが、リクに気付くと途端に相好を崩し、嬉しそうに笑った。


「息を呑むほど綺麗な青年が来るから、ここに連れて来て欲しいと店員に頼んでおいたんだ。どう? 一発だろ」

「・・・」

リクが返答に困っていると、秋山は再び笑顔になり、リクの腕をそっと掴んで引き寄せた。

「ほら。正面から見てごらん。このレンブラントは圧巻だろう?」


その絵はおよそ、この落ち着いた雰囲気のギャラリー喫茶に似つかわしくない、ショッキングな宗教画だった。

山の牧場に作られた粗末な祭壇の上に、白い肌を露わにした半裸の少年が、髭をたくわえた老人に顔面を押さえつけられている。

老人の振り上げた小刀が、そのむき出しの首の上に振り上げられた瞬間、突如現れた天使がその老人の凶行を止める。

老人の表情と、その手からポロリと離れ落下してゆく小刀とが劇的な一瞬を演出し、躍動感を残したまま二次元に封じ込められている。


「『イサクの犠牲』ですね」

リクがポツリと言った。

「そう。少々悪趣味だろ? ここのマスターのイタズラだよ。このブースに入った客は、必ずみんなビックリするらしい」

秋山は楽しそうに笑った。


リクは改めてその絵を見た。

複製画ではあるが、その絵からにじみ出る異質なエネルギーが胸を圧迫する。


『イサクの犠牲』は旧約聖書を出展とした物語だ。

砂漠の神は、アブラハムという男の振興を試すために、彼の最愛の息子イサクをモリヤの丘の岩で焼いて、神に捧げよと告げた。

悩み抜いた末、神への忠誠を証明しようと決心したアブラハムは、イサクを丘へ連れてゆく。

今まさに、その命を絶とうと小刀を振り上げた瞬間、天使が現れ、その手を止めるのだ。

そして天使は『あなたが神を恐れる者であることが分かりました。息子はあなたに返します』と神の声を伝え、イサクは救われる。


この物語が、アブラハムの神への忠誠心を讃えるものなのか、砂漠の神の冷酷さを表すものなのか、リクにはよく分からなかった。

アブラハムが息子の転生を信じていたとしても、愛する子供に小刀を振り下ろす男や、それを強いる神という存在に、薄ら寒いものを感じた。


「喫茶店にはふさわしくない絵かも知れませんね」

リクがぽつりと本音を言うと、秋山はイタズラっぽく笑った。

「イサクの犠牲は、カラバッジョやサルムや、たくさんの画家が描いているが、俺はレンブラントが一番グッと来るね。肉感的で、非情で、狂気じみてる。アブラハムの行為は愛する息子へのモノとは思えない。まるで屠殺とさつする羊のような扱いだ」

「そう言うのが好きなんですか?」


「・・・そういうのが好きかって?」

秋山はリクの質問を繰り返した。その顔に、さっきまでの笑みはない。


「そうだね。この毒々しい圧迫感がなんともいいね。劇的で攻撃的で隠微だよ。神の子羊はいつも哀れで愛おしい。哀れであればある程、愛おしい。だけど、・・・残念なことに出来すぎてる。うまく行き過ぎてて、次第に高揚感は腹立たしさに変わって来る。ねえ、君もそう思わないか?」

「画面の構成力が、ってことですか?」

「違うね。展開だよ」

「展開?」

「展開然り。危機一髪のところで駆けつける天使のタイミング然り」

「・・・」

「天使が来なかったらどうなってたと思う? アブラハムは大事に育てた愛おしい息子の喉を切り裂くんだ」

その声は、この余りにも子供じみた発想とは裏腹に、ゾッとするほど冷酷に感じられた。


「そういう物語ですから。それに、そんな最悪な展開は想像する意味もないでしょう?」

「天使は来ないんだ」

「え?」

「俺の前に、天使は来なかった」


リクは再び秋山の表情をチラリと伺ったが、すぐに目をそらし、複製画に視線を戻した。

秋山の目の中に沸き立つような怒りを見たような気がして、長く見つめていることができなかった。


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