第11話 止まらぬ流れ
車がカーブを曲がり、バックミラーからもリクの家が見えなくなると、秋山は深く息を吐き、
再び上着のポケットで震え始めた携帯を取り出した。
「俺だ」
『ああ、社長! どうして連絡くださらないんですか。いったい今どこに? クラウドの社長が契約内容が違うってカンカンですよ。これから僕と村山で向こうに話を詰めに行くところなんです。早く戻ってきてもらわなければ困ります!』
29歳で専務に抜擢した右腕とも言える部下、浜崎は、かなり語気を強めて訴えてきた。
浜崎が怒るのも無理はない。この2日間、秋山は連絡も取らずに行方をくらませていたのだから。
「ああ、すまない。今日も社に戻れそうにない。君に一任するよ。俺には今、やらなきゃならない仕事があって」
『社長の仕事はこの商談を修復する事でしょう? 一年かけてやっとこぎ着けたクラウドとの取り引きですよ? あそこのブラックリストに載ったら、これから先美術商としての信用はなくなりますよ!』
「・・・ああ」
生真面目な声を出す浜崎に、秋山は愛情のこもった笑みを浮かべた。
けれど、それが電話の向こうに伝わるわけもなかった。
「そうだな。大事な契約だ。クラウドの社長には私から連絡を一度入れるよ。そのあとで、この件は浜崎に一任すると伝える」
『・・・そんな』
「君は、頭のネジのイカレてる今の俺よりも、うまく事を運べる。頼むよ浜崎。俺はもう、この仕事を片づけなきゃ何も手につかないんだ。たぶん、そんなに時間は掛からないと思う。だから、君がしばらく商談を進めてくれ」
『・・・・・・』
重い沈黙を返した浜崎に、心の中で詫びながら、秋山は携帯を切った。
車が市街地に入ると、圧迫してくるビル群のせいか、秋山は急に息苦しさを感じた。
前方のビルの屋上に取りつけられた巨大画面の電光掲示板が、タイムリーなニュースを文字で流している。
『連続通り魔、依然手がかりがつかめず、住民の不安は尚も続く。警察では警らの動員数を増やし・・・』
オレンジ色の文字が黒い画面をゆっくり蠢いてゆく。
秋山はほんの少し眉間にシワを作った後、視界からその掲示板を消すべく、車を左折させた。
◇
その翌日の大東和出版、グリッド編集室。
長谷川は書類とバッグを持つと多恵の姿を探しながら席を立った。
一昨日はリクのことがあって、半ば衝動的に佐伯との話をキャンセルして帰ってしまったが、今日こそはどうしても出向き、今後の情報を手に入れたかった。
若き芸術家の卵をいくつも抱えている佐伯は、いわば長谷川にとって奥の手であり、『グリッド』に欠かせない人物だった。
「ああ多恵ちゃん、一緒においでって言ったけど、やっぱりいいよ。佐伯さんの所には私一人で行くから。あんたは松川と凸版まわって。いろいろ教わってくるといい」
編集室に戻ってきた多恵を見つけると、長谷川は慌ただしく予定の変更を告げた。
多恵は「了解です!」と、敬礼して見せた後、なぜか少しおどけた表情をして、足早に長谷川の側に近づいてきた。
「はっせがーわさん。お客さまですよ~」
小声で歌うように耳打ちしてきた多恵を、長谷川が気味悪げに見降ろした。
「何よ、変な声出して」
「長谷川さんに、お客さまです~」
「だから、誰よ」
「リクさんです」
「は?」
「だから、リクさん」
「それは聞こえてるよ」
「このフロアの喫煙コーナーで待ってらっしゃいますよ」
多恵はそれだけ言うと、少し意味深にニコリとして自分の席にもどった。
「なんでそんなところに・・・。こっちに来ればいいのに」
口ではそう呟きながら、長谷川の足はもうその場所に向かっていた。
リクが自分から長谷川を尋ねてくるなんて初めてのことだ。
何かあったのだろうか。
いや、何かあったとして、長谷川のところに来る男ではない。
今までは。
いぶかる反面、今までにないリクの行動に、少しばかり嬉しくなったのも本心だった。