第10話 惰性
秋山はブグローの絵を指さして言った。
「エロスというのは、この子のことだよ。ラテン語でアモール。イタズラ好きのキューピッドであり、恋心と性愛を司る神。愛の女神、アフロディーテの息子でね、とても美しい少年なんだ。でもドジを踏んで、自分の恋の矢で自分を傷つけてしまったため、人間の女なんかに心を奪われる羽目になった。勿体ない話だよ」
憮然としていう秋山の言葉に、リクは笑った。
「ちょっと変わった見方ですよね。かわいらしい神話だと思いますよ」
「そうかな」
秋山が少し残念そうに言った。
「ねえ、君はエロスは何のために存在すると思う? 人間はなぜ恋をすると思う? なぜ異性を好きになるんだろう」
秋山はテーブルの上に手を組み、身を乗り出した。
リクはほんの少し視線を泳がせ、秋山の思惑を探るように、当たり障りのない答えを返した。
「本能だから?」
「それが人間だから、という意味? 答えてるようで、答えていない。もっと他には無い?」
「・・・命をつなげるため」
「命をつなげる、か。種の保存だね?」
「・・・」
「君もそう思うんだね、リクくん。人も動物も生きて生きて、愛や恋の名のもとにセックスを繰り返して、快楽に貪られながら自分の命をつなげていく。まるで何かに取り憑かれたように子孫を残す。その果てに何があるんだろう。
恋も快楽も、生きる物すべての感情は生殖活動の奴隷だ。ねえリクくん、生き物は命をつなげて何を目指しているんだろうね」
秋山はテーブルの上で組んだ腕をほどき、ひじをついて祈りの時にするように手を組み合わせた。
じっとリクの答えを待っているようだったが、リクが何も答えないので秋山は質問を変えてきた。
「命をつなげることを拒む人種は神への冒涜なのかな。例えば、同姓を愛してしまう人種は、許されざる物なんだろうか。だから排除され、不浄なものの扱いを受けるんだろうか」
リクはようやく秋山の言いたいことがやんわりと見えてきたような気がして、体の力を抜き、そして柔らかい口調で言った。
「命は、思いがけずこの世に生まれてしまい、そして惰性で続いてると考えてみたことはありますか?
思いがけず手に入れた命を有意義に使うために恋をし、快楽をあじわい、惰性を続けるために生殖する。
まるで慣性の法則のように。そう考えれば楽になる。自分の命はどこへも届かないと嘆く必要もないし、生殖へ繋がらない性を愛したり、子を産めない女性が苦しむ必要もない。僕らの道の前に、天からの強制力なんて存在しないんです」
秋山は組んだ手に顎をつけ、しばらくじっとリクを真顔で見つめていたが、やっと小さな声で「おどろいた」と、つぶやいた。
「生命の連鎖を惰性だと言われたのは初めてだ」
ポカンとした口調で言った後秋山は、次第に堪えきれなくなったようにクスクスと笑い出した。
「君はけっこう、大胆で怖い人だね。気に入ったよ。ますます君が気に入った。君ともっと話がしたい」
「あなたはお忙しいんじゃないですか? さっきからその胸の携帯バイブが何度もあなたを呼んでるけど」
「ああ・・・」
秋山は手を胸に当て、苦笑した。
「明日、また会おう。このグリッドに載ってない絵で、私が好きな絵があるんだ。行きつけの喫茶店に。もちろん複製画なんだけど原寸近い大きさで、とても迫力があって美しいよ。明日、またここに車で迎えに来るから」
椅子から立ち上がりながら秋山が強引な口調で言うと、リクはその顔から笑みを消した。
「いえ、結構です」
「・・・だめなのか?」
目のふちを引きつらせて、怯えたような表情を向けてきた秋山に、リクは一瞬とまどった。
「いえ・・・。わざわざ迎えに来てくださることは無いという意味です。時間と場所を言って貰えば、僕が伺いますから」
「ああ・・・そうか。ありがとう。ごめんね、我が儘を言って」
秋山はまた少しソワソワと視線を動かし始めた。
そして落ち着きのない様子のまま、リクにその喫茶店の名と場所、電話番号を書き残し、玄関口まで歩いた。
その挙動の変化は、近くにいるだけのリクの心をも不安にさせる。
“負のエネルギーを抱え込んでいる” リクの中の漠然とした不安がそう告げる。
秋山はドアを開け、リクを振り返った。
少し戸惑いがちに差し出されたその手を、リクが再びそっと握った。
「じゃあ、また明日」
消え入りそうな、弱々しい笑顔でそう囁く秋山。
リクは去ってゆくその寂しそうな背中に、思わず訊きそうになった。
『あなたが、本当に僕に伝えたかったことは、何だったのですか?』 と。