表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

第8話 真実の代償 ―決意―

 十二月第二週、土曜日——莉緒


 土曜の朝。

 冬の光が薄く部屋に差し込み、白いカーテンを透かして淡く滲む。


 目を覚ました瞬間、心臓が跳ねた。

 胸騒ぎというより——何かが始まる予感。


 昨夜はほとんど眠れなかった。夢と現実の境が曖昧で、気づけば朝になっていた。


 ——『彼女と別れて、私と付き合って』


 あの言葉が、まだ耳に残っている。

 自分の声なのに、他人のもののようだった。

 でも確かに言った。遥斗さんを見て、震える声で。


 その瞬間、自分の中で何かが壊れた。

 恐れよりも祈りに近い感情だった。


 スマホを開く。通知はない。

 分かってる。今日は、まだ何も起きない日だ。

 明日——すべてが変わる。

 たった一日なのに、やけに長く感じる。


 待つだけの時間って、本当に残酷だ。

 心臓はちゃんと動いているのに、世界だけ止まってるみたい。


「——大丈夫。今度こそ、きっと」


 そう呟いても、不安はすぐ戻ってくる。

 紅茶を淹れても、湯気だけが立ち上って消えていく。温かさが喉を通り過ぎた後、体の芯は冷えたままだった。


 外から笑い声が聞こえる。

 その明るさが、今の自分とあまりにも遠かった。


 スマホを机に置いて、深呼吸。

 ——もう後戻りはできない。


 視線の先、部屋の隅にある鉢植え。

 枯れかけた葉が一枚だけ残っている。

 水を注ぎながら、私は小さく笑った。


「私も、この葉みたいに、まだ生きてる」


 その言葉が、誰に向けたものかは分からない。


 でも、不安は消えなかった。

 その夜、私はただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。



 十二月第二週、土曜日の朝——遥斗


 天井の模様を、ぼんやりと見つめていた。

 眠気はないのに、頭が重い。

 昨夜の莉緒の涙が、何度も脳裏をよぎる。


 やつれた頬。震える指。

 必死に涙をこらえる顔。

 その全部が胸の奥に刺さって、抜けない。


 ——全部、俺のせいだ。


 『彼女と別れて、私と付き合って』


 あの言葉の重さが、まだ胸に沈んでいる。

 あの時、俺は何も言えなかった。

 いや——言わなかった。

 それは、逃げたのと同じだ。


 莉緒をあんなに追い詰めておきながら、

 俺は、何も返せなかった。


 明日、美香の実家に行く。

 すべて話すつもりだ。

 結婚のことも、姓のことも、そして——莉緒のことも。


 もう隠せない。

 隠してはいけない。


 正直、怖い。

 でも、もう逃げたくない。


 逃げ続けた先に、

 誰も幸せになれる未来なんてないのだから。


 ベッドから起き上がり、窓を開けた。

 冷気が一気に流れ込んで、肺が縮む。

 冬の匂いがする——乾いた空気と、遠くで焚かれる薪の煙。

 空は薄い鉛色で、今にも雪が降りそうだった。


 机の上には、父の写真。

 無口で、真面目で、不器用な人だった。

 笑っている写真は少ない。

 この一枚も、少し照れたような顔をしている。


 あの女が出ていった日のことを、今でも覚えている。

 俺はまだ四歳だった。

 朝、目を覚ましたら、母の姿がなかった。

 父は出張中。

 後で知った——あの女には別の男がいた。

 計画的に、父の留守を狙って、金目のものをすべて持って消えた。


 俺は、きっと邪魔だったのだ。

 だから、置いていかれた。


 あの女がいなくなってから、家に残ったのは「葉山」という名前だけだった。


 それから父は、毎晩遅くまで働いた。

 子どもだった俺には分からなかったが、相当な苦労だったんだと思う。

 夜遅く帰る父は、黙って食卓に座り、冷めた味噌汁を口にした。

 その背中は、いつもより小さく見えた。


 あの女は金だけでなく、借金まで残していった。

 父は誰にも頼らず、それをすべて返した。

 親戚にも頭を下げず、ただ黙々と働き続けた。

 あれは父の意地だった。

 ——あの女に屈しないという、強い意地。


 そんな父に、新しい妻ができた。

 父にとっては救いだったのだろう。

 けれど、俺にとって彼女は"他人"だった。

 今なら分かる。

 俺はあの女の血を引いた子どもで、彼女にとって受け入れがたい存在だったのだ。


 そんな父が守り抜いた「葉山」という名前。

 だから——婿養子の話を聞いたとき、頭では分かっても心が拒んだ。


「葉山」を捨てることは、父との時間を捨てることのように思えた。

 父が守り続けたものを、自分の都合で手放すなんて。


 それはただの"姓"の問題じゃない。

 もっと深いところで、自分の根を断ち切られるような恐怖だった。


 ——それでも、美香の家族は本当に優しかった。


 俺のことを最初から息子のように扱ってくれた。

 温かい食卓。笑い声。何気ない会話。

 そのどれもが、俺がとっくに失っていたものだった。


 居心地のいい家だった。

 みんな穏やかで、空気が柔らかい。

 その優しさに包まれるたび、胸の奥が少しずつほどけていく気がした。

 ——ああ、俺はちゃんと生きていいんだ。

 そんなふうに思える時間だった。


 けれど、その優しさが時々、息苦しかった。

 笑顔を作るたびに、何かを削り取られていく気がした。

 本当の自分を隠して、期待される"いい人間"を演じていた。

 それが、息子としての役割だと信じ込んでいた。


 そんなとき——莉緒に出会った。


 飾らない言葉。無理に笑わない姿。

 静かで、澄んだ佇まい。

 一緒にいると、肩の力がすっと抜けていった。


 彼女と話す時間は、不思議だった。

 俺が「誰かの息子」でも「誰かの婚約者」でもなく、

 ただの自分として呼吸できる場所だった。


 莉緒の前では、ちゃんと息ができた。

 それだけのことが、どれほど大切だったのか——今になって分かる。


 息をするように笑い、息をするように沈黙を分け合う。

 そんな関係は、彼女が初めてだった。


 机の上の写真立てに手を伸ばす。

 指先で、父の顔をそっとなぞった。

 ガラス越しの父は、何も言わない。


「……ごめん、父さん。

 俺、名前を守るより——心を守りたいんだ」


 その言葉は声にならず、唇の動きだけが残った。



 同日の午後――遥斗。


 俺は、近所を歩いていた。


 頬に触れる空気が、肌を刺すように冷たい。吐く息が白くほどけて消えた。

 街路樹は葉を落とし、黒い枝を空へ伸ばしていた。


 道を行く人は少ない。

 みんなコートの襟を立て、足早に通り過ぎていく。

 街は静かだった。音が、どこか遠くに吸い込まれていくようだった。


 やがて、公園に着く。

 俺はベンチに腰を下ろし、枯れ木を見上げた。

 枝の先に残るのは、冬の光だけ。

 人影もまばらで、風の音だけが響いている。


 遠くで、子どもの笑い声がした。

 その声も、すぐに冬の空へ溶けていった。


 美香の笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。


 花火大会の夜。浴衣姿で笑っていた彼女。

 海へ行った日。波打ち際ではしゃぐ声が、今も耳に残っている。

 あの頃は——確かに幸せだった。


 けれど、結婚の話が出てから、何かが少しずつ崩れ始めた。


 美香の両親から向けられる、あの穏やかな期待。

 それは温かくて、同時に重かった。


「美香のお父さんは、俺を息子のように可愛がってくれた」


 本当に優しい人だった。

 休日には釣りに行き、野球を見に行った。

 実の父がしてくれなかったことを、たくさんしてくれた。


「お母さんも、いつも優しかった」


 手料理を振る舞ってくれて、俺の好物まで覚えていた。

 帰り際にはいつも、「またいらっしゃいね」と笑ってくれた。

 ——あの家は、本当にあたたかかった。


 けれど、結婚――婿養子の話が出た瞬間、胸の奥がざわついた。

 「養子になる」ということは、「葉山」という名前を捨てるということ。


 あの女に捨てられたあと、父と二人で必死に守ってきた名前。

 「葉山遥斗」という、自分という証。

 それを手放すことへの恐怖は、理屈じゃなかった。

 もっと深いところで、心が拒絶していた。


「……その俺が、今度は自分の手で『葉山』を捨てるのか」


 そう思うと、息が詰まった。

 養子の話は、ただの形式なんかじゃない。

 それは、自分のルーツを裏切ること。

 父が意地で守ってきたものを、俺の都合で壊すこと。


 ——それだけは、どうしてもできなかった。


 でも同時に、莉緒のことを思う。


「莉緒と一緒にいると、自分らしくいられる」


 彼女の前では、無理に笑わなくていい。

 無理に明るく振る舞わなくてもいい。

 ただ、そこにいればいい。


「——これが、俺の本当の気持ちなんだ」


 莉緒は言った。

 "自分に正直でいてほしい"と。

 あの涙には、その願いが込められていた。


 だから俺も、美香に正直でなければならない。

 結婚のことも、気持ちのことも、すべて話そう。


 逃げない。

 何があっても、もう逃げない。


 俺は立ち上がり、冷たい空気を吸い込んだ。

 肺が痛いほどの冷たさが、今の自分を確かめるように胸を満たした。



 同日の夜――遥斗。


 その夜、俺はスマホを握っていた。

 LINEの画面を開いたまま、指が止まる。

 何度も打っては消し、打っては消す。


「明日、君の実家に行ってもいいかな。ご両親とも話したい」


 ——送信ボタンを押すまでに、数分かかった。

 一度送れば、もう後戻りはできない。

 深く息を吸い、親指で軽く画面を押した。


 すぐに既読がついた。

 美香は、ちょうどスマホを見ていたのだろう。


「うん、いいよ。どうしたの?急に」


 俺は少し間を置いて、返信した。


「大事な話があるんだ。家のこと、それから……俺たちのこと」


 画面は沈黙する。

 既読がつかないまま、時間だけが過ぎていく。


 数分後、短いメッセージが届いた。


「……分かった。明日、午後四時頃でいい?」


「ありがとう」


 それだけ送って、スマホを伏せた。


 ベッドに横になっても、眠気は来なかった。

 天井を見つめながら、明日のことを考える。

 どんな言葉で切り出そう。

 どんな顔で話せばいいのか。

 美香は、どんな表情を見せるだろう。


 ——美香、ごめん。

 もう、嘘をつき続けることはできない。

 正直な気持ちを伝えなければ。

 それが、君への最後の誠意だから。


 窓の外で、風が鳴った。

 冬の夜の音が、静かに胸の奥に沈んでいった。



 十二月第二週、土曜日――美香。


 私は、自室でスマホを見つめていた。

 フォルダには、遥斗との思い出の写真が並んでいる。

 花火の光、海の青、カフェの笑顔——どれも眩しいほどの色をしていた。


 あの頃は、ただ笑っていればよかった。

 未来なんて、考えもしなかった。


 でも今、同じ写真を見ても、胸の奥が少し痛い。

 笑っている自分の隣で、遥斗の表情がどこか遠く見える。

 あのときから、少しずつ何かが変わっていたのかもしれない。


 でも、いつからだろう。

 遥斗が変わったのは。


 最初は、結婚――養子の話がきっかけだと思っていた。

 あの話のあと、彼が少し遠くなった気がした。

 笑顔は同じなのに、どこか上の空で。

 視線の奥が、私の知らない場所を見ているようだった。


 ——でも、もしかして違うのかもしれない。


『他に好きな人ができたの?』


 あのときの言葉が、今も頭の中で響く。

 遥斗は、何も言わなかった。

 否定もしないまま、黙っていた。


 まさか——。

 そう思いたい。

 けれど、心の奥ではもう分かっていた。


 彼の視線が、遠くを探していたこと。

 私と一緒にいても、どこかに心を置き忘れていたこと。

 スマホを気にする仕草。

 優しくなったと思えば、すぐに遠ざかる態度。


 全部、気づいていた。

 ただ、見ないふりをしていただけ。

 見たくなかった。

 認めたくなかった。


 ベッドに横になりながら、スマホの画面を見つめた。

 『明日、君の実家に行ってもいいかな。』

 その一文が、夜の静けさの中で胸に重くのしかかった。


 窓の外を見る。

 冬の空が、灰色に沈んでいる。

 雲が低く垂れこめて、今にも泣き出しそうだった。


 ——遥斗。

 私たち、どうなってしまうの。


 手のひらを、ぎゅっと握りしめた。

 爪が食い込んで、小さな痛みが走る。



 十二月第二週、日曜日——莉緒


 目が覚めても、すぐには起き上がれなかった。

 体が鉛のように重い。


 今日。

 遥斗さんは、美香さんの実家に行く。

 そして——すべてを話す。


 手を胸に当てると、早い鼓動が指先に伝わった。


 スマホを手に取る。

 メッセージは、ない。


 ——当たり前だ。

 まだ朝だ。


 時計を見る。

 午前九時。

 遥斗さんは、何時に行くんだろう。

 昼? 夕方? 分からない。

 私は、ただ待つしかない。


 ベッドから起き上がり、カーテンを開けた。

 雲ひとつない青空が広がっている。

 こんなに晴れているのに、胸の中は嵐みたいだった。


 ——今日、すべてが決まる。


 深呼吸をする。

 吸って、吐いて。

 それでも落ち着かない。


 ただ、信じるしかなかった。

 遥斗さんを。

 そして、自分の選んだ気持ちを。



 時間が、ゆっくりと過ぎていく。


 午前十時。

 紅茶を淹れたが、味がしなかった。

 本を開いても文字が霞む。


 昼を過ぎても、スマホの画面は静かなまま。

 何度開いても、通知はない。


 午後二時。

 今ごろ、遥斗さんは美香さんの家にいるのだろうか。

 どんな顔で、どんな言葉で話しているんだろう。


 午後三時を過ぎたころ、窓の外の光が傾き始めた。

 空の色が変わっていくたびに、不安が少しずつ形を持っていく。


 ——もう、話してるのかな。


 夕方。

 街がオレンジに染まり、部屋の中が静かになる。

 それでも、スマホは鳴らなかった。


 夜。

 灯りだけが残って、影が長く伸びる。

 息をするのが苦しい。


 ——まさか。

 また、言えなかったんじゃ——。


 その瞬間、涙がこぼれた。

 スマホを握りしめ、声を殺して泣いた。

 誰にも届かない祈りを、心の中で繰り返しながら。



 十二月第二週、日曜日の朝——美香


 目が覚めた。

 窓の外はまだ薄暗く、朝の静けさが部屋を包んでいる。


 昨夜はあまり眠れなかった。

 遥斗からのLINEを思い出しては、何度も目を覚ました。


 時計を見る。

 午前九時。

 今日、遥斗が来る。

 午後四時。——あと七時間。


 鏡の前に立つ。

 目が少し腫れている。

 化粧で隠さなきゃ。お父さんにもお母さんにも、心配かけたくない。


 クローゼットを開ける。

 自然に手が伸びたのは、遥斗が好きだった白いワンピース。

 初めてのデートの服。

 あのとき、彼は笑って言った——「似合ってるよ」。


 これを着よう。

 もしかしたら、今日が最後になるかもしれないから。


 喉の奥が熱くなった。

 深呼吸をして、鏡の中の自分に笑顔を作る。

 うまく笑えなかった。


 リビングに降りると、母が朝食の準備をしていた。

 卵焼きの香りがキッチンに漂っている。


「おはよう、美香。今日、遥斗さんが来るんだって?」


「……うん」


「楽しみね。お父さんも喜んでたわよ」


 母の笑顔が、胸に刺さる。

 こんなに無邪気に笑っているのに、私は何も言えなかった。


 味噌汁を一口だけ飲む。

 それ以上は、喉を通らなかった。


 母は気づいていたかもしれない。

 でも、何も言わなかった。

 ただ、いつも通りに微笑んでいた。


——続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ