第7話 彼女と別れて私と付き合って……
十二月第二週、金曜日の夜——港の丘
丘に着いた。
思わず息をのむほどの夜景が広がっている。
港の灯。遠い街の明かり。
冬の星は、澄んだ針の先のように瞬いていた。
微かに潮の匂い。
二人でベンチに腰掛けた。
隣り合って。
しばしの静寂――。
……責められると分かっているのだろうか。
遥斗さんは、どこか苦しげな表情をしていた。
私は、深呼吸をした。
冷たい空気が肺に染み込む。
そして——口を開いた。
「遥斗さん……」
夜風の中で、声が震えた。
「あの時、ここで……あなたは、私を選ぶって言ってくれましたよね」
「……ああ」
遥斗さんの声が、小さく返る。
「あれからもう三週間以上経ちました。美香さんとは、話せましたか?」
遥斗さんは、視線を落とした。
「……話そうとした。何度も。でも、言葉が出なくて」
「……そうですか」
夜風が静かに吹き抜ける。
その冷たさが、胸の奥まで刺さる。
私は静かに、しかし真剣に言葉を続けた。
「このままじゃ、貴方も、美香さんも、私も……みんな苦しいままです」
声が震え、涙が滲んだ。
「遥斗さん、あなたは優しすぎます」
「でも、その優しさが……今は、みんなを苦しめてる」
「莉緒さん……」
その名を呼ばれた瞬間、涙がこぼれた。
少しの沈黙……。
私は、夜景を見つめたまま続けた。
「三週間……長かったです」
「でも、信じてました。遥斗さんがちゃんと向き合ってくれるって」
声が震える。
「毎日、スマホを開くたびに、今日こそ連絡が来るかもしれないって思って……」
「仕事をしていても、ふとした瞬間に思い出してしまうんです」
涙が頬を伝う。
「私、あの夜からずっと、遥斗さんを信じて待ってました」
視線を彼に向ける。
「でも、もう……」
言葉が詰まり、息が止まる。
そして、私は意を決して彼にありのままの想いをぶつける。
「ねぇ遥斗……私じゃ、駄目かな?」
絞り出すような声。懇願にも似た響き。
「彼女と別れて——私と付き合って——」
切実に、必死に。
「私、もう待てないよ。覚悟はしてたつもりだったけど……こんなの苦しいよ。つらすぎるよ……」
涙が止まらない。
「美香さんには申し訳ないけど……私は、遥斗のこと愛してる」
全部、吐き出した。
胸の奥にあった、全ての想い。
♦
長い沈黙。
遥斗さんが、私の隣に座ったまま、手を取った。
「莉緒……」
その手を、ぎゅっと握り返す。
温かい。
「……ごめん」
遥斗さんの声が、震える。
「俺が、弱くて」
涙を流しながら、私はその手を離さなかった。
彼が、ゆっくりと口を開いた。
「実は……俺、何度も美香の前で言おうとしたんだ」
彼の声が震える。
「でも、美香が笑うたびに……言葉が喉に詰まった」
視線が、遠くの夜景へ泳ぐ。
「美香は何も悪くない。ただ、真っ直ぐに俺を信じてくれてる」
「その笑顔を見るたびに、自分がどれだけ卑怯なことをしようとしてるか思い知らされた」
「でも……」
遥斗さんが続ける。
「でも、それは美香に対しても不誠実なんだよな」
「本当の気持ちを隠して、優しくしてるだけ」
「それって……美香を騙してるのと同じだ」
彼の手が、震える。
「母親がいなくなってから、俺……ずっと誰も傷つけたくないって思ってきた」
「でも、結局……今、一番大切な二人を傷つけてる」
彼の声が、さらに震える。
「美香には、俺の本当の気持ちを伝えてなかった」
「養子のことも、母親のことも、何も」
「ただ優しくしていれば、誰も傷つかないと思ってた」
「でも……」
遥斗さんが、私の手を強く握る。
「——でも、このままじゃいけないんだよな。莉緒の言う通りだ」
「美香にも、莉緒にも、誠実じゃない」
「自分では理解していたつもりだったけど、莉緒に言われて気づいた」
「分かった。今度こそもう逃げない」
驚いて顔を上げた。
「本当に——?」
「ああ。今、莉緒に言われて、やっと分かった」
「このままじゃ美香にも君にも申し訳ない」
「週末——美香の実家に行く」
「今度こそ、ちゃんと話す。約束する」
涙がまた溢れた。
「——うん——待ってる。絶対、約束だよ」
♦
二人、手をつないだまま、しばらく夜景を見つめていた。
冬の風が、冷たく吹き抜ける。
でも、繋いだ手は——温かかった。
やがて、遥斗さんが口を開いた。
「莉緒——俺、気づいたんだ」
「——?」
「いつから莉緒のことを好きになったのか、正確には分からない」
「でも、莉緒と話してると……俺、自分のままでいられる」
遥斗さんが、夜景を見つめたまま続ける。
「美香は明るくて、前向きで。それが好きだった」
「でも、いつからか……美香の前で、本当の自分を出せなくなってた」
「養子の話も、母親のことも、全部隠して」
「『優しい遥斗』を演じてた」
彼の声が、少し震える。
「でも、莉緒の前では……なぜか、弱い部分も見せられた」
「あの夏の夜、母親のことを話したとき」
「莉緒は、ただ黙って聞いてくれた」
遥斗さんが、私を見る。
「それが——すごく楽だった」
「莉緒といると、無理しなくていい」
「ありのままの俺を、受け入れてくれる気がした」
その言葉に、胸が熱くなる。
「気づいたら、莉緒のことばかり考えてた」
「職場で姿を探してた。声を聞きたくなってた」
「でも、美香がいる。だから、自分に言い聞かせてた」
遥斗さんが、私の手を強く握る。
「でも——もう、嘘はつけない」
「俺は、莉緒のことが好きだ」
その言葉に、涙が溢れた。
「遥斗さん——」
「今まで、ごめん」
「待たせて、苦しませて」
「でも、今度こそ——ちゃんと向き合う」
遥斗さんが、私を抱き寄せた。
私も、その胸に身を預ける。
長い静寂。
彼の心臓の音が聞こえる。
早く、強く打っている。
私の心臓も、同じリズムで打っていた。
「莉緒——ありがとう、勇気をくれて」
「——うん」
「絶対、約束守るから」
「うん——今度こそ信じてる」
抱き合ったまま、時間が過ぎていく。
冬の風が、二人を包んでいた。
でも、その腕の中は——温かかった。
♦
十二月第二週、金曜日の深夜
どれくらいそうしていただろう。
やがて、遥斗さんが言った。
「送るよ。もう遅いから」
「——うん」
少し名残惜しそうに、腕がほどける。
二人で車に乗り込み、私の家の前まで移動した。
「莉緒——」
「うん」
彼の温もりが、胸に沁みる。
——今度こそ。
今度こそ、大丈夫。
そう信じることしか、できなかった。
でも——
心の奥で、小さな声が囁く。
——本当に、大丈夫?
——また、同じことになるんじゃない?
その不安を振り払うように、私は彼をもっと強く抱きしめた。
彼の温もりが、胸に沁みる。
「遥斗さん——」
「ん?」
「絶対、約束だよ」
彼が優しく微笑んだ。
「ああ。絶対」
車が走り去っていく。
一人、残される。
冷たい空気が頬を撫でる。
でも、心は——少しだけ、温かかった。
三週間以上待ち続けた。
心も身体も、ボロボロになった。
でも、やっと——やっと、前に進める。
そう信じたかった。
♦
十二月第二週、金曜日の深夜——莉緒
部屋に戻り、ソファに座る。
窓の外に、夜景が広がる。
スマホを手に取る。
美千代にメッセージを送った。
『ありがとう。今日、もう一度伝えてきた』
『遥斗さん、今度こそ約束してくれた』
すぐに返信が来た。
『莉緒、よく頑張ったね』
『きっと大丈夫だよ』
その言葉に、涙が溢れた。
三週間以上の苦しみ。
待つことの重さ。
心身の消耗。
全部が、一気に溢れ出した。
でも——
後悔はなかった。
自分に嘘をつかなかった。
遥斗さんに、ちゃんと伝えた。
これが、私の選んだ道。
窓の外の夜景を見つめながら、私は静かに涙を拭いた。
——これから、どうなるんだろう。
不安もある。
でも、もう後戻りはできない。
私は、遥斗さんを愛してる。
美香さんには申し訳ない。
でも、この気持ちだけは——本物だ。
深く息を吸う。
冷たい空気が、肺に染み込む。
ゆっくりと、息を吐く。
——今度こそ、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、
でも、心の奥では不安が渦巻いていた。
――続く。




