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第6話 約束の丘

 十一月第三週、水曜日――莉緒


 いつもと変わらない朝の風景。

 目覚ましの音。

 冷たい空気。

 窓の外には、まだ薄暗い空が広がっている。


 私は布団の中で携帯を握りしめたまま、天井を見つめていた。

 一昨日のことが、まるで夢のように感じられる。

 遥斗さんと一緒に見た夜景。

 抱き合った温もり。

 名前で呼び合った、あの瞬間。


 ――でも、あれは現実だった。


 「美香さんと、ちゃんと話す」と言った彼の言葉が、頭の奥に残っている。

 私は、ただ待つことしかできなかった。



 職場に着くと、いつもの朝の光景が広がっていた。

 デスクに着き、パソコンを立ち上げる。

 周囲の話し声、電話の音、コピー機の動く音。

 いつも通り。

 何も変わらない。


 でも、私の中では、全てが変わってしまった。


 彼の姿を探してしまう。

 廊下の向こうに、彼の背中が見えた気がして、心臓が跳ねる。

 視線が合う。彼がごく小さく微笑む。

 私も微笑み返す。


 それだけで、胸が温かくなった。


 スマホの画面を何度も確認する。

 メッセージは、まだ来ていない。

 ――朝だから当然。

 そう自分に言い聞かせる。


 それでも、画面を見ては、ため息が出る。



 十一月第三週、木曜日――莉緒


 朝から何も手につかない。

 会議資料の準備を忘れ、上司から注意を受けた。


「安西さん、どうしたの? らしくないよ」

「すみません……気をつけます」


 頭を下げながらも、心は別の場所にあった。

 遥斗さんの顔、声、あの約束。

 全部が胸の奥で、音もなく疼いていた。


 昼休み。

 ベンチで一人、サンドイッチを開くが、喉を通らない。

 スマホを開く。メッセージはない。


 ――今日、美香さんと会うはず。

 遥斗さん、ちゃんと言えるかな。

 不安と期待が入り混じる。


 結局、サンドイッチはほとんど残したままだった。



 十一月第三週、金曜日――美香


 昨夜、遥斗と会った。

 久しぶりのデートのはずだった。


 けれど、彼はどこか上の空だった。

 話しかけても生返事。

 笑顔も、作り物のように見えた。


「遥斗、何か悩んでる?」


 一瞬だけ、痛ましい表情を浮かべた彼は言った。


「……いや、大丈夫」


 その笑顔が、嘘に見えた。

 ――最近の遥斗、おかしい。


 結婚の話も「時間をくれ」と言われたまま。

 もう何か月も、同じ繰り返し。


『他に好きな人ができたの?』

 そう聞いたとき、彼は否定しなかった。


 ――まさか、本当に? 


 考えたくない。

 でも不安は、消えなかった。



 十一月第三週、金曜日の夜――莉緒


 仕事帰り、美千代とカフェに寄った。


「莉緒、大丈夫?なんか元気ないじゃん」

「うん、大丈夫」


 微笑みながら、カップの中の泡を見つめる。


「葉山さんのこと?」

「……うん。でも、ちゃんと話してくれるって言ってたから」


「そっか」


 彼女が安心したように笑った。


「莉緒なら、きっと大丈夫だよ」


 その言葉に、少しだけ救われた。

 まだ希望を信じられた頃だった。



 十一月第四週、月曜日――莉緒


 通勤電車の窓の外を見つめる。流れる景色を追った。


 週末、遥斗さんから連絡はなかった。

 ――どうなったんだろう。


 不安が胸を締めつける。

 でも、待つしかない。


 職場に着くと、遠くに彼の姿が見えた。

 視線を合わせようとするが、彼は気づかない。

 いや――気づいているのに、避けているように見えた。


 胸が、きゅっと痛んだ。



 十一月第四週、火曜日――遥斗


 週末、美香の実家で両親と食事をした。

 母が来春の結婚式の話をする。


 ――そのとき、言うべきだった。

 けれど言葉が出なかった。

 笑顔と期待が、自分を縛りつけた。


 結局、何も言えなかった。

 莉緒に、何て伝えればいい。

 約束を、また破った。


 遠くで莉緒の姿が見える。彼女もこちらを見ている。

 ――目を合わせられない。



 十一月第四週、水曜日の夜――莉緒


 夜の部屋は冷たく、時計の音だけが響いていた。


 スマホの画面を見つめながら、何度も入力しては消す。

「今日もお疲れさまでした」

 たったそれだけの言葉。


 送信ボタンを押してから、すぐに後悔した。

 こんな短い言葉でいいのかな。


 五分、十分……既読がつかない。

 もう寝てしまったのかもしれない。


 もう一時間ぐらい経っただろうか?

 ようやく既読がついた。


「お疲れ。ちゃんと休んでね」


 私は、何か返そうとスマホに指を置いた。


 短い返信を見つめながら、指が止まる。

 思わず打ち込む。


「会いたい」


 その言葉を打ち込む。

 しばらく画面を見つめる。

 これを送ったら、遥斗さんを追い詰めてしまう。


 全部消して、代わりに「うん……遥斗さんも」とだけ送った。


 静かな部屋……

 天井を見つめながら、涙がこぼれた。



 十一月第四週、木曜日――美香


 私は自室のベッドに座り、スマホを見つめていた。


 遥斗に、LINEを送った。


『最近、忙しい? 全然会えないね』


 既読はつくが、返信が遅い。

 ようやく来た返事。


『ごめん、仕事が立て込んでて』


 また、同じ言い訳。


 私は、思い切って莉緒にメッセージを送った。


『莉緒さん、遥斗のこと……職場で何か変わったことありませんか?』

『最近、様子がおかしくて心配で……』


 しばらくして、返信が来た。


『特に変わったことはないと思います』

『仕事は忙しそうですけど、いつも通りですよ』


 その言葉に、少しだけほっとする。

 ――気にしすぎなのかな。


 でも、心の奥の不安は消えなかった。


 窓の外を見る。

 街路樹の葉がほとんど落ちている。

 冬が、近づいている。



 十一月第四週、金曜日――莉緒


 職場の空気が、少しだけ重く感じた。

 上司の声が廊下に響く。


 「安西さん、最近ミスが多いようだけど?」

 「……すみません」


 俯いた。

 集中できていない。

 夜も眠れない。食欲もない。


 昼休み、美千代が心配そうに声をかけてきた。


「莉緒、大丈夫? 最近、顔色悪いよ」

「うん……ちょっと疲れてるだけ」


 美千代は、私の手を握った。


「無理しないでね。何かあったら言って」


 その優しさが、胸に沁みた。



 十一月第四週、金曜日の夜――遥斗


 その夜、スマホを手に取った。

 莉緒とのLINEを開く。


 明日、美香と会う約束をしている。

 両親も一緒に食事をする。


 ――今度こそ、言わなきゃいけない。


 指が震える。


『明日、美香さんと会う。両親も一緒に食事することになった』


 そう打ち込んで、送信ボタンを押した。


 すぐに既読がつく。


『頑張ってね』


 その短い言葉に、胸が締め付けられた。


 スマホを握りしめる。

 ――今度こそ。



 十一月第四週、土曜日の夜――遥斗


 レストランのテーブルを囲む四人。

 柔らかな照明の下で、美香の母が言った。


「結婚の日取りの件なんだけどね」

「来年の春がいいと思うの」


 穏やかに微笑む父親。

 美香が俺を見た。


「そうだね。楽しみだね、遥斗」


 その笑顔。

 無邪気な、疑いのない笑顔。


 ――言えない。


 喉の奥で言葉が詰まる。


「……そうだね」


 その瞬間、すべてが遠のいていった。


 帰り道。

 冷たい風の中で、スマホを開いた。

 莉緒とのLINEを開く。

 指が震える。


『言い出せる雰囲気じゃなかった。ごめん』


 そう打ち込んで、送信ボタンを押した。


 スマホの画面を見つめたまま、俺は立ち尽くした。

 莉緒の顔が浮かぶ。

 あの日、港の見える丘で。

 涙を流しながら、それでも優しく微笑んでくれた彼女の顔。


「待ってます」


 そう言ってくれた、彼女の声。


 胸が痛む。

 結局言えなかった……約束したのに。


 莉緒は、今頃どんな顔でこのメッセージを読んでいるんだろう。

 失望しているだろうか。

 それとも、また優しく「大丈夫」と言ってくれるんだろうか。


 ――ごめん、莉緒。


 ――俺は、本当に……弱い。



 十一月第四週、土曜日――莉緒


 私はただスマホを握りしめて、返信を待っていた。

 ときおり画面が光るたびに心が揺れた。


「遥斗さん、うまく言えるかな?」

「美香さん大丈夫かな?」


 そんな思いがずっと頭の中を巡る。

 何も手につかない。

 静かに時間だけが流れていった。

 

 夜。

 十一時を過ぎた頃、ようやく通知が来た。


『言い出せる雰囲気じゃなかった。ごめん』


 画面を見つめたまま、息が止まった。

 ――え。


 自然と涙がこぼれた。

 でも、責める言葉は浮かばなかった。


『大丈夫。無理しないで』


 そう打ち込み、送信した。

 本当は、全然大丈夫じゃない。


 でも、彼を責めることはできなかった。



 十二月第一週、月曜日――莉緒


 月曜の朝。

 何も変わらないまま日々が過ぎていく。

 私は、ただ待ち続けていた。

 遥斗さんからの連絡を。

 美香さんと話したという報告を。


 ――でも、何も来ない。


 職場で彼と目が合うたびに、心が軋む。

 彼の顔にも、疲れが滲んでいた。


 私も、限界が近いと分かっていた。

 このままじゃ、きっとおかしくなってしまう。



 十二月第一週、水曜日――莉緒


 エレベーターで、二人きりになった。


 扉が閉まると同時に、わずかな機械音だけが響いた。

 狭い空間に、互いの呼吸が混じる。

 目を合わせられない。

 けれど、確かにそこに“意識”だけはある。


 何か言いたい。

 でも、言葉を選ぶたび、胸の奥で何かが崩れていく。


 沈黙の中で、遥斗さんが小さく息を吸った。


「……ごめん」


 その声は、掠れていた。

 罪悪感とも、諦めともつかない響き。


 私は少しだけ顔を上げる。

 視線が触れた瞬間、心が痛んだ。

 彼の目にも、同じ痛みがあった。


「……うん」


 笑うように、震える唇が動く。

 微笑んだつもりだったのに、涙が滲む。


 ――もう、何を言っても壊れてしまいそうだった。


 エレベーターの音が鳴り、扉が開く。

 光が差し込む瞬間、二人とも反射的に歩き出した。

 まるで、逃げるように。


 残されたのは、言えなかった言葉の余韻だけだった。



 十二月第一週、木曜日の昼休み――莉緒


 休憩スペースの窓際で、紙コップのコーヒーを手にしていた。

 外の光が白く滲んで、少し眩しい。


「大丈夫?最近、顔色悪いよ」


 隣に座った美千代が、覗き込むように声をかけてきた。


「うん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」


 笑ってみせる。

 でも、その笑顔がどこか引きつっているのを、自分でもわかっていた。


「ほんとに? 昼ご飯ほとんど食べてなかったじゃない」


「今、あまり食欲がなくて……」


 曖昧に返しながら、コーヒーを一口すする。

 冷めた苦味が、喉の奥にゆっくりと残った。


「無理してるように見えるよ」


 その言葉に、胸の奥が少し揺れた。


「……大丈夫。ちょっと眠れてないだけ」


「葉山さんのこと?」


 一瞬、視線を落とした。

 返事をしない私に、美千代はそれ以上、何も言わなかった。


 代わりに、そっと肩に手を置いてくれる。

 その優しさが、かえって痛かった。


 昼休みが終わりに近づき、私たちは立ち上がる。

 鏡に映った自分の顔が、思っていたよりもやつれて見えた。

 目の下の影が濃く、頬も少しこけている。


 夜、眠れない。

 スマホの光が、いつまでも瞼の裏に残る。

 食欲もない。

 心が空っぽのまま、身体だけが少しずつ削れていくのがわかる。


 ――それでも、彼を待つことをやめられない。



 十二月第一週、金曜日――美香


 私は駅前のカフェで、友人と会っていた。


「美香、最近元気ないね。遥斗くんと何かあった?」


 友人の言葉に、私は俯いた。


「……分からないの。最近、遥斗が遠くて」

「話しかけても上の空だし、会おうって言っても忙しいって」


「それ、もしかして……」


 友人が言いかける。


「やめて。考えたくない」


 私は首を横に振った。


 ――でも、心の奥では分かっている。

 遥斗の心が、どこか遠くへ行ってしまったことを。



 十二月第一週、土曜の昼――遥斗


 俺は美香と、駅前のカフェにいた。

 テーブルの上には湯気の立つカフェラテ。

 外は冬晴れで、ガラス越しの光がまぶしい。


 ――今日こそは、ちゃんと伝えよう。


 美香は向かいの席で、いつものように明るく笑っていた。

 その笑顔が、眩しいほどに変わらない。


「美香……話があるんだ」


 俺が口を開いた、その瞬間。


「ねえ聞いて、この前お父さんがね――」


 弾む声で、美香が話し出す。

 彼女の指先は楽しそうにカップをなぞり、

 その仕草すら、未来への期待で満ちていた。


「私たちの新居の話してたの。お母さんもすごく楽しみにしてて」

「来年の春には、きっと素敵な家が見つかるって」


 美香の目が、キラキラと輝く。

 その無邪気な光が、俺の胸に刺さった。


 ――どうして、今なんだ。

 ――なぜ、こんな笑顔の時に。


 喉の奥で言葉が凍りつく。

 息を吸っても、声が出ない。


「……そう、よかったね」


 やっとの思いでそう返す。

 自分の声が、誰か別の人のもののように遠く聞こえた。


 美香は嬉しそうに頷く。

 その笑顔を壊せない自分が、何より苦しかった。



 十二月第一週、土曜の夜――遥斗


 俺は一人でソファに座り込んでいた。


 部屋は暗く、時計の針の音だけが響いている。

 カーテンの隙間から、街灯の光がぼんやりと床を照らしていた。


「また……言えなかった」


 両手で顔を覆う。

 掌の中が、熱い。

 呼吸をするたびに胸が軋んだ。


「莉緒に約束したのに……何をやってるんだ、俺は」


 呟きながら、スマホを手に取る。

 指先が震える。

 画面には、莉緒とのトーク画面。

 そこに並ぶ短い言葉たちが、やけに遠く感じた。


「ごめん」


 打ち込んで、すぐに消す。

 たった二文字が、どうしても重かった。


「今、これを送っても……莉緒を悲しませるだけだな」


 声にならない吐息が、静かな部屋に落ちる。

 スマホをソファに投げ出し、天井を見つめた。


 白い天井が、何も返さない。

 自分の弱さだけが、静かにのしかかってくる。


 目を閉じても、莉緒の笑顔が浮かぶ。

 あの夜、涙をこらえて「待ってる」と言った顔が。


 そして――美香の笑顔も浮かぶ。

 新居の話をするとき、キラキラと輝いていた目。


 ――俺は、二人とも傷つけている。


 夜が、ただ静かに過ぎていった。



 十二月第一週、日曜日――美香


 私は自室で、ベッドに座っていた。

 スマホを握りしめている。


 昨日、遥斗と会った。

 楽しい時間のはずだった。


 でも――


 遥斗は、また何か言いかけて、やめた。

 「話があるんだ」と言ったのに。


 ――何を言おうとしたの?


 不安が、胸を締めつける。


 スマホを開く。

 莉緒とのLINEを見る。


 ――もう一度、聞いてみようかな。


 でも、指が動かない。

 怖い。

 答えを知るのが、怖い。


 窓の外を見る。

 冬の空が、冷たく広がっていた。



 十二月第二週、月曜日――莉緒


 私は意を決して、メッセージを送った。


「応援してる」


 少しして返ってきた言葉。


『……意気地がなくてごめん。もう少しだけ、待ってて』


「うん」


 たった一文字しか返せなかった。

 送ったあと、虚しさが込み上げる。


「『うん』だけ……私、何してるんだろう」


 指先が震えた。

 "待つ"という言葉が、こんなにも重いとは思わなかった。


 やっぱり私は無力だ……


 ――いつまで、こんな関係が続くんだろう。



 十二月第二週、木曜日の夜――莉緒


 美千代と二人で、静かなバーにいた。

 薄暗い照明の下で、グラスの氷が時おり小さく音を立てる。

 外は冷たい風。店内の静けさが、かえって胸に沁みた。


「美千代……私……」


 声が震えた。


「もう……限界かも……」

「覚悟はしてたけど、待つのってこんなに苦しいんだね」


 私の言葉に、美千代もそっと眉を寄せる。


「……うん、そうだよね。つらいよね」

「無理しないで。今の莉緒の気持ち全部私に話して」


 静かな音楽の中で、涙がこぼれた。

 グラスの中の氷が、かすかに揺れる音だけが響いていた。


「あれからもう三週間経ったけど、何も変わらない」

「このままじゃ、遥斗さんも美香さんも私も……みんな不幸になる気がする」

「私……最低だよね。美香さんを裏切って……」


「……そんなことないよ」


 美千代が、私の手を握った。

 その手があたたかくて、涙がまた滲む。


 しばらく、静寂が流れた。

 互いに何も言えないまま、時間だけがゆっくり過ぎていく。

 グラスの氷が溶けて、薄まった琥珀色が灯りに滲んでいた。


 私は、ゆっくりと顔を上げた。


「美千代、私……」

「もう一度、ちゃんと伝えようと思う」


 美千代が息を呑む。


「……追い詰めることになるかもよ?」


「分かってる。でも……」


 涙ぐみながら、言葉を続けた。


「私、もう我慢できない。今のままじゃ駄目だと思う。もちろん遥斗さんがつらいのは分かる」

「でも、心がないまま対応される美香さんはもっと可哀そう」

「きっと……もう私が遥斗さんの背中を押してあげないと、この状況は変わらない」


 美千代は、しばらく黙っていた。

 そして、ゆっくりと頷いた。


「……そうだね」

「莉緒がそうするって決めたのなら、私は応援する」

「でも、無理はしないでね」

「見てる私も、正直苦しいよ……でも、もう止められないよね」


 その言葉が、胸に深く染みた。

 彼女の声には、静かな覚悟が宿っていた。


「ありがとう」


 私は、美千代に支えられて、ようやく決意を固めることができた。

 涙を拭った瞬間、心の奥で小さく炎が灯った気がした。



 十二月第二週、金曜日――莉緒


 朝の通勤電車の中で、私は窓の外を見つめていた。

 流れる街並みが、ぼやけていく。


 ――もう三週間以上経った。

 このままではいけない。


 遥斗さんが決断できないのは、

 きっと、私の覚悟が足りないからだ。


 彼と同じ未来を望むなら、私が変わらなければ。

 誰かが傷つくとしても、

 このままでは、誰も救われない。


 ――彼を、弱さから解放したい。

 そのために、もう一度伝えよう。


 昼休み、私はスマホを取り出した。

 指先が小さく震える。


「今日、終業後に会えますか?お話したいことがあります」


 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 しばらくして、既読がつく。

 そして、返事が来た。


「分かった、この間のパーキング前で。また車を出すよ」


 短い文面を見つめながら、深呼吸をした。

 ――もう、後戻りはできない。


 その言葉が、胸の奥で静かに灯った。



 午後の仕事が、ほとんど手につかなかった。

 画面を見つめても、文字が頭に入ってこない。


 美千代が心配そうにこちらを見ている。

 私は、小さく微笑んで見せた。


 ――大丈夫。

 今日、ちゃんと伝える。

 もう、逃げない。


 時計を見る。

 定時まで、あと一時間。


 長い。

 こんなに時間が長く感じるなんて。


 窓の外を見る。

 冬の空が、冷たく広がっている。

 もうすぐ日が暮れる。


 ――今夜、全てが変わる。


 そんな予感が、胸の奥で静かに膨らんでいく。



 定時のチャイムが鳴った。

 私は、荷物をまとめる。


 美千代が、そっと声をかけてきた。


「莉緒……頑張ってね」

「……うん」


 彼女の手を、ぎゅっと握る。

 その温もりが、胸に沁みた。


「ありがとう」


 そう言って、私はオフィスを出た。


 エレベーターに乗る。

 降りていく。

 心臓が、早く打っている。


 外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 冬の夕暮れ。

 空が、オレンジ色に染まっている。


 ――行こう。


 深呼吸をして、駅前の駐車場へ向かった。



 定時で退社した私は駅前の駐車場で待っている。

 夕方の風が冷たくて、指先が少し震える。

 胸の奥がざわつくのを、深呼吸で押さえた。


 しばらくして遥斗さんが現れた。


「お待たせ」

「いえ……」


 短く交わした言葉のあと、二人でカーシェアの車に乗り込んだ。

 静かなエンジン音。

 街の灯りが流れていく。


 車内は、静かだった。

 ラジオもつけない。

 互いに、何も言わない。


 ただ、沈黙が流れる。


 でも、その沈黙は――重かった。


 窓の外を見る。

 街の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。

 向かうのは、港が見える丘――最初に想いを伝えたあの場所。


 あの夜から、もう三週間以上。


 あの時、遥斗さんは「美香と話す」と約束した。

 でも――


 何も変わらなかった。


 三週間以上、私は待ち続けた。

 心も身体も、ボロボロになった。


 でも、今夜――


 今夜こそ、全部伝える。


 私の想い。

 私の苦しみ。

 そして――私の覚悟。


 もう、後戻りはできない。


 車は、静かに丘へ向かっていた。


――続く。

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