第6話 約束の丘
十一月第三週、水曜日――莉緒
いつもと変わらない朝の風景。
目覚ましの音。
冷たい空気。
窓の外には、まだ薄暗い空が広がっている。
私は布団の中で携帯を握りしめたまま、天井を見つめていた。
一昨日のことが、まるで夢のように感じられる。
遥斗さんと一緒に見た夜景。
抱き合った温もり。
名前で呼び合った、あの瞬間。
――でも、あれは現実だった。
「美香さんと、ちゃんと話す」と言った彼の言葉が、頭の奥に残っている。
私は、ただ待つことしかできなかった。
♦
職場に着くと、いつもの朝の光景が広がっていた。
デスクに着き、パソコンを立ち上げる。
周囲の話し声、電話の音、コピー機の動く音。
いつも通り。
何も変わらない。
でも、私の中では、全てが変わってしまった。
彼の姿を探してしまう。
廊下の向こうに、彼の背中が見えた気がして、心臓が跳ねる。
視線が合う。彼がごく小さく微笑む。
私も微笑み返す。
それだけで、胸が温かくなった。
スマホの画面を何度も確認する。
メッセージは、まだ来ていない。
――朝だから当然。
そう自分に言い聞かせる。
それでも、画面を見ては、ため息が出る。
♦
十一月第三週、木曜日――莉緒
朝から何も手につかない。
会議資料の準備を忘れ、上司から注意を受けた。
「安西さん、どうしたの? らしくないよ」
「すみません……気をつけます」
頭を下げながらも、心は別の場所にあった。
遥斗さんの顔、声、あの約束。
全部が胸の奥で、音もなく疼いていた。
昼休み。
ベンチで一人、サンドイッチを開くが、喉を通らない。
スマホを開く。メッセージはない。
――今日、美香さんと会うはず。
遥斗さん、ちゃんと言えるかな。
不安と期待が入り混じる。
結局、サンドイッチはほとんど残したままだった。
♦
十一月第三週、金曜日――美香
昨夜、遥斗と会った。
久しぶりのデートのはずだった。
けれど、彼はどこか上の空だった。
話しかけても生返事。
笑顔も、作り物のように見えた。
「遥斗、何か悩んでる?」
一瞬だけ、痛ましい表情を浮かべた彼は言った。
「……いや、大丈夫」
その笑顔が、嘘に見えた。
――最近の遥斗、おかしい。
結婚の話も「時間をくれ」と言われたまま。
もう何か月も、同じ繰り返し。
『他に好きな人ができたの?』
そう聞いたとき、彼は否定しなかった。
――まさか、本当に?
考えたくない。
でも不安は、消えなかった。
♦
十一月第三週、金曜日の夜――莉緒
仕事帰り、美千代とカフェに寄った。
「莉緒、大丈夫?なんか元気ないじゃん」
「うん、大丈夫」
微笑みながら、カップの中の泡を見つめる。
「葉山さんのこと?」
「……うん。でも、ちゃんと話してくれるって言ってたから」
「そっか」
彼女が安心したように笑った。
「莉緒なら、きっと大丈夫だよ」
その言葉に、少しだけ救われた。
まだ希望を信じられた頃だった。
♦
十一月第四週、月曜日――莉緒
通勤電車の窓の外を見つめる。流れる景色を追った。
週末、遥斗さんから連絡はなかった。
――どうなったんだろう。
不安が胸を締めつける。
でも、待つしかない。
職場に着くと、遠くに彼の姿が見えた。
視線を合わせようとするが、彼は気づかない。
いや――気づいているのに、避けているように見えた。
胸が、きゅっと痛んだ。
♦
十一月第四週、火曜日――遥斗
週末、美香の実家で両親と食事をした。
母が来春の結婚式の話をする。
――そのとき、言うべきだった。
けれど言葉が出なかった。
笑顔と期待が、自分を縛りつけた。
結局、何も言えなかった。
莉緒に、何て伝えればいい。
約束を、また破った。
遠くで莉緒の姿が見える。彼女もこちらを見ている。
――目を合わせられない。
♦
十一月第四週、水曜日の夜――莉緒
夜の部屋は冷たく、時計の音だけが響いていた。
スマホの画面を見つめながら、何度も入力しては消す。
「今日もお疲れさまでした」
たったそれだけの言葉。
送信ボタンを押してから、すぐに後悔した。
こんな短い言葉でいいのかな。
五分、十分……既読がつかない。
もう寝てしまったのかもしれない。
もう一時間ぐらい経っただろうか?
ようやく既読がついた。
「お疲れ。ちゃんと休んでね」
私は、何か返そうとスマホに指を置いた。
短い返信を見つめながら、指が止まる。
思わず打ち込む。
「会いたい」
その言葉を打ち込む。
しばらく画面を見つめる。
これを送ったら、遥斗さんを追い詰めてしまう。
全部消して、代わりに「うん……遥斗さんも」とだけ送った。
静かな部屋……
天井を見つめながら、涙がこぼれた。
♦
十一月第四週、木曜日――美香
私は自室のベッドに座り、スマホを見つめていた。
遥斗に、LINEを送った。
『最近、忙しい? 全然会えないね』
既読はつくが、返信が遅い。
ようやく来た返事。
『ごめん、仕事が立て込んでて』
また、同じ言い訳。
私は、思い切って莉緒にメッセージを送った。
『莉緒さん、遥斗のこと……職場で何か変わったことありませんか?』
『最近、様子がおかしくて心配で……』
しばらくして、返信が来た。
『特に変わったことはないと思います』
『仕事は忙しそうですけど、いつも通りですよ』
その言葉に、少しだけほっとする。
――気にしすぎなのかな。
でも、心の奥の不安は消えなかった。
窓の外を見る。
街路樹の葉がほとんど落ちている。
冬が、近づいている。
♦
十一月第四週、金曜日――莉緒
職場の空気が、少しだけ重く感じた。
上司の声が廊下に響く。
「安西さん、最近ミスが多いようだけど?」
「……すみません」
俯いた。
集中できていない。
夜も眠れない。食欲もない。
昼休み、美千代が心配そうに声をかけてきた。
「莉緒、大丈夫? 最近、顔色悪いよ」
「うん……ちょっと疲れてるだけ」
美千代は、私の手を握った。
「無理しないでね。何かあったら言って」
その優しさが、胸に沁みた。
♦
十一月第四週、金曜日の夜――遥斗
その夜、スマホを手に取った。
莉緒とのLINEを開く。
明日、美香と会う約束をしている。
両親も一緒に食事をする。
――今度こそ、言わなきゃいけない。
指が震える。
『明日、美香さんと会う。両親も一緒に食事することになった』
そう打ち込んで、送信ボタンを押した。
すぐに既読がつく。
『頑張ってね』
その短い言葉に、胸が締め付けられた。
スマホを握りしめる。
――今度こそ。
♦
十一月第四週、土曜日の夜――遥斗
レストランのテーブルを囲む四人。
柔らかな照明の下で、美香の母が言った。
「結婚の日取りの件なんだけどね」
「来年の春がいいと思うの」
穏やかに微笑む父親。
美香が俺を見た。
「そうだね。楽しみだね、遥斗」
その笑顔。
無邪気な、疑いのない笑顔。
――言えない。
喉の奥で言葉が詰まる。
「……そうだね」
その瞬間、すべてが遠のいていった。
帰り道。
冷たい風の中で、スマホを開いた。
莉緒とのLINEを開く。
指が震える。
『言い出せる雰囲気じゃなかった。ごめん』
そう打ち込んで、送信ボタンを押した。
スマホの画面を見つめたまま、俺は立ち尽くした。
莉緒の顔が浮かぶ。
あの日、港の見える丘で。
涙を流しながら、それでも優しく微笑んでくれた彼女の顔。
「待ってます」
そう言ってくれた、彼女の声。
胸が痛む。
結局言えなかった……約束したのに。
莉緒は、今頃どんな顔でこのメッセージを読んでいるんだろう。
失望しているだろうか。
それとも、また優しく「大丈夫」と言ってくれるんだろうか。
――ごめん、莉緒。
――俺は、本当に……弱い。
♦
十一月第四週、土曜日――莉緒
私はただスマホを握りしめて、返信を待っていた。
ときおり画面が光るたびに心が揺れた。
「遥斗さん、うまく言えるかな?」
「美香さん大丈夫かな?」
そんな思いがずっと頭の中を巡る。
何も手につかない。
静かに時間だけが流れていった。
夜。
十一時を過ぎた頃、ようやく通知が来た。
『言い出せる雰囲気じゃなかった。ごめん』
画面を見つめたまま、息が止まった。
――え。
自然と涙がこぼれた。
でも、責める言葉は浮かばなかった。
『大丈夫。無理しないで』
そう打ち込み、送信した。
本当は、全然大丈夫じゃない。
でも、彼を責めることはできなかった。
♦
十二月第一週、月曜日――莉緒
月曜の朝。
何も変わらないまま日々が過ぎていく。
私は、ただ待ち続けていた。
遥斗さんからの連絡を。
美香さんと話したという報告を。
――でも、何も来ない。
職場で彼と目が合うたびに、心が軋む。
彼の顔にも、疲れが滲んでいた。
私も、限界が近いと分かっていた。
このままじゃ、きっとおかしくなってしまう。
♦
十二月第一週、水曜日――莉緒
エレベーターで、二人きりになった。
扉が閉まると同時に、わずかな機械音だけが響いた。
狭い空間に、互いの呼吸が混じる。
目を合わせられない。
けれど、確かにそこに“意識”だけはある。
何か言いたい。
でも、言葉を選ぶたび、胸の奥で何かが崩れていく。
沈黙の中で、遥斗さんが小さく息を吸った。
「……ごめん」
その声は、掠れていた。
罪悪感とも、諦めともつかない響き。
私は少しだけ顔を上げる。
視線が触れた瞬間、心が痛んだ。
彼の目にも、同じ痛みがあった。
「……うん」
笑うように、震える唇が動く。
微笑んだつもりだったのに、涙が滲む。
――もう、何を言っても壊れてしまいそうだった。
エレベーターの音が鳴り、扉が開く。
光が差し込む瞬間、二人とも反射的に歩き出した。
まるで、逃げるように。
残されたのは、言えなかった言葉の余韻だけだった。
♦
十二月第一週、木曜日の昼休み――莉緒
休憩スペースの窓際で、紙コップのコーヒーを手にしていた。
外の光が白く滲んで、少し眩しい。
「大丈夫?最近、顔色悪いよ」
隣に座った美千代が、覗き込むように声をかけてきた。
「うん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
笑ってみせる。
でも、その笑顔がどこか引きつっているのを、自分でもわかっていた。
「ほんとに? 昼ご飯ほとんど食べてなかったじゃない」
「今、あまり食欲がなくて……」
曖昧に返しながら、コーヒーを一口すする。
冷めた苦味が、喉の奥にゆっくりと残った。
「無理してるように見えるよ」
その言葉に、胸の奥が少し揺れた。
「……大丈夫。ちょっと眠れてないだけ」
「葉山さんのこと?」
一瞬、視線を落とした。
返事をしない私に、美千代はそれ以上、何も言わなかった。
代わりに、そっと肩に手を置いてくれる。
その優しさが、かえって痛かった。
昼休みが終わりに近づき、私たちは立ち上がる。
鏡に映った自分の顔が、思っていたよりもやつれて見えた。
目の下の影が濃く、頬も少しこけている。
夜、眠れない。
スマホの光が、いつまでも瞼の裏に残る。
食欲もない。
心が空っぽのまま、身体だけが少しずつ削れていくのがわかる。
――それでも、彼を待つことをやめられない。
♦
十二月第一週、金曜日――美香
私は駅前のカフェで、友人と会っていた。
「美香、最近元気ないね。遥斗くんと何かあった?」
友人の言葉に、私は俯いた。
「……分からないの。最近、遥斗が遠くて」
「話しかけても上の空だし、会おうって言っても忙しいって」
「それ、もしかして……」
友人が言いかける。
「やめて。考えたくない」
私は首を横に振った。
――でも、心の奥では分かっている。
遥斗の心が、どこか遠くへ行ってしまったことを。
♦
十二月第一週、土曜の昼――遥斗
俺は美香と、駅前のカフェにいた。
テーブルの上には湯気の立つカフェラテ。
外は冬晴れで、ガラス越しの光がまぶしい。
――今日こそは、ちゃんと伝えよう。
美香は向かいの席で、いつものように明るく笑っていた。
その笑顔が、眩しいほどに変わらない。
「美香……話があるんだ」
俺が口を開いた、その瞬間。
「ねえ聞いて、この前お父さんがね――」
弾む声で、美香が話し出す。
彼女の指先は楽しそうにカップをなぞり、
その仕草すら、未来への期待で満ちていた。
「私たちの新居の話してたの。お母さんもすごく楽しみにしてて」
「来年の春には、きっと素敵な家が見つかるって」
美香の目が、キラキラと輝く。
その無邪気な光が、俺の胸に刺さった。
――どうして、今なんだ。
――なぜ、こんな笑顔の時に。
喉の奥で言葉が凍りつく。
息を吸っても、声が出ない。
「……そう、よかったね」
やっとの思いでそう返す。
自分の声が、誰か別の人のもののように遠く聞こえた。
美香は嬉しそうに頷く。
その笑顔を壊せない自分が、何より苦しかった。
♦
十二月第一週、土曜の夜――遥斗
俺は一人でソファに座り込んでいた。
部屋は暗く、時計の針の音だけが響いている。
カーテンの隙間から、街灯の光がぼんやりと床を照らしていた。
「また……言えなかった」
両手で顔を覆う。
掌の中が、熱い。
呼吸をするたびに胸が軋んだ。
「莉緒に約束したのに……何をやってるんだ、俺は」
呟きながら、スマホを手に取る。
指先が震える。
画面には、莉緒とのトーク画面。
そこに並ぶ短い言葉たちが、やけに遠く感じた。
「ごめん」
打ち込んで、すぐに消す。
たった二文字が、どうしても重かった。
「今、これを送っても……莉緒を悲しませるだけだな」
声にならない吐息が、静かな部屋に落ちる。
スマホをソファに投げ出し、天井を見つめた。
白い天井が、何も返さない。
自分の弱さだけが、静かにのしかかってくる。
目を閉じても、莉緒の笑顔が浮かぶ。
あの夜、涙をこらえて「待ってる」と言った顔が。
そして――美香の笑顔も浮かぶ。
新居の話をするとき、キラキラと輝いていた目。
――俺は、二人とも傷つけている。
夜が、ただ静かに過ぎていった。
♦
十二月第一週、日曜日――美香
私は自室で、ベッドに座っていた。
スマホを握りしめている。
昨日、遥斗と会った。
楽しい時間のはずだった。
でも――
遥斗は、また何か言いかけて、やめた。
「話があるんだ」と言ったのに。
――何を言おうとしたの?
不安が、胸を締めつける。
スマホを開く。
莉緒とのLINEを見る。
――もう一度、聞いてみようかな。
でも、指が動かない。
怖い。
答えを知るのが、怖い。
窓の外を見る。
冬の空が、冷たく広がっていた。
♦
十二月第二週、月曜日――莉緒
私は意を決して、メッセージを送った。
「応援してる」
少しして返ってきた言葉。
『……意気地がなくてごめん。もう少しだけ、待ってて』
「うん」
たった一文字しか返せなかった。
送ったあと、虚しさが込み上げる。
「『うん』だけ……私、何してるんだろう」
指先が震えた。
"待つ"という言葉が、こんなにも重いとは思わなかった。
やっぱり私は無力だ……
――いつまで、こんな関係が続くんだろう。
♦
十二月第二週、木曜日の夜――莉緒
美千代と二人で、静かなバーにいた。
薄暗い照明の下で、グラスの氷が時おり小さく音を立てる。
外は冷たい風。店内の静けさが、かえって胸に沁みた。
「美千代……私……」
声が震えた。
「もう……限界かも……」
「覚悟はしてたけど、待つのってこんなに苦しいんだね」
私の言葉に、美千代もそっと眉を寄せる。
「……うん、そうだよね。つらいよね」
「無理しないで。今の莉緒の気持ち全部私に話して」
静かな音楽の中で、涙がこぼれた。
グラスの中の氷が、かすかに揺れる音だけが響いていた。
「あれからもう三週間経ったけど、何も変わらない」
「このままじゃ、遥斗さんも美香さんも私も……みんな不幸になる気がする」
「私……最低だよね。美香さんを裏切って……」
「……そんなことないよ」
美千代が、私の手を握った。
その手があたたかくて、涙がまた滲む。
しばらく、静寂が流れた。
互いに何も言えないまま、時間だけがゆっくり過ぎていく。
グラスの氷が溶けて、薄まった琥珀色が灯りに滲んでいた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「美千代、私……」
「もう一度、ちゃんと伝えようと思う」
美千代が息を呑む。
「……追い詰めることになるかもよ?」
「分かってる。でも……」
涙ぐみながら、言葉を続けた。
「私、もう我慢できない。今のままじゃ駄目だと思う。もちろん遥斗さんがつらいのは分かる」
「でも、心がないまま対応される美香さんはもっと可哀そう」
「きっと……もう私が遥斗さんの背中を押してあげないと、この状況は変わらない」
美千代は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
「莉緒がそうするって決めたのなら、私は応援する」
「でも、無理はしないでね」
「見てる私も、正直苦しいよ……でも、もう止められないよね」
その言葉が、胸に深く染みた。
彼女の声には、静かな覚悟が宿っていた。
「ありがとう」
私は、美千代に支えられて、ようやく決意を固めることができた。
涙を拭った瞬間、心の奥で小さく炎が灯った気がした。
♦
十二月第二週、金曜日――莉緒
朝の通勤電車の中で、私は窓の外を見つめていた。
流れる街並みが、ぼやけていく。
――もう三週間以上経った。
このままではいけない。
遥斗さんが決断できないのは、
きっと、私の覚悟が足りないからだ。
彼と同じ未来を望むなら、私が変わらなければ。
誰かが傷つくとしても、
このままでは、誰も救われない。
――彼を、弱さから解放したい。
そのために、もう一度伝えよう。
昼休み、私はスマホを取り出した。
指先が小さく震える。
「今日、終業後に会えますか?お話したいことがあります」
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
しばらくして、既読がつく。
そして、返事が来た。
「分かった、この間のパーキング前で。また車を出すよ」
短い文面を見つめながら、深呼吸をした。
――もう、後戻りはできない。
その言葉が、胸の奥で静かに灯った。
♦
午後の仕事が、ほとんど手につかなかった。
画面を見つめても、文字が頭に入ってこない。
美千代が心配そうにこちらを見ている。
私は、小さく微笑んで見せた。
――大丈夫。
今日、ちゃんと伝える。
もう、逃げない。
時計を見る。
定時まで、あと一時間。
長い。
こんなに時間が長く感じるなんて。
窓の外を見る。
冬の空が、冷たく広がっている。
もうすぐ日が暮れる。
――今夜、全てが変わる。
そんな予感が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
♦
定時のチャイムが鳴った。
私は、荷物をまとめる。
美千代が、そっと声をかけてきた。
「莉緒……頑張ってね」
「……うん」
彼女の手を、ぎゅっと握る。
その温もりが、胸に沁みた。
「ありがとう」
そう言って、私はオフィスを出た。
エレベーターに乗る。
降りていく。
心臓が、早く打っている。
外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
冬の夕暮れ。
空が、オレンジ色に染まっている。
――行こう。
深呼吸をして、駅前の駐車場へ向かった。
♦
定時で退社した私は駅前の駐車場で待っている。
夕方の風が冷たくて、指先が少し震える。
胸の奥がざわつくのを、深呼吸で押さえた。
しばらくして遥斗さんが現れた。
「お待たせ」
「いえ……」
短く交わした言葉のあと、二人でカーシェアの車に乗り込んだ。
静かなエンジン音。
街の灯りが流れていく。
車内は、静かだった。
ラジオもつけない。
互いに、何も言わない。
ただ、沈黙が流れる。
でも、その沈黙は――重かった。
窓の外を見る。
街の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
向かうのは、港が見える丘――最初に想いを伝えたあの場所。
あの夜から、もう三週間以上。
あの時、遥斗さんは「美香と話す」と約束した。
でも――
何も変わらなかった。
三週間以上、私は待ち続けた。
心も身体も、ボロボロになった。
でも、今夜――
今夜こそ、全部伝える。
私の想い。
私の苦しみ。
そして――私の覚悟。
もう、後戻りはできない。
車は、静かに丘へ向かっていた。
――続く。




