第4話 壊したいわけじゃない
初秋の朝、窓から差し込む光は柔らかい。
まだ残暑の名残があるけれど、風は涼しく、空の青さは高く澄んでいる。
街路樹の緑も、勢いをほんの少し手放しはじめていた。
九月中旬の月曜。
美千代には「葉山さんを好きになってしまった」と告白してしまった。
美香さんは彼に『ほかに好きな人ができたの?』と問い、彼は否定しなかった——沈黙した。
スマホには、同窓会の案内。
『十一月中旬に開催。久しぶりに集まりませんか?』
参加者の名簿に「和樹」を見つける。大学時代の友人。
一瞬だけ、あの頃へ帰れるなら、と思った。
けれど決められないまま、今日も普通の顔を身につける。
スマホを伏せて、出勤の支度に戻った。
♦
オフィス。
席に着くと、視界の端に彼の姿が触れる。
朝の挨拶は最低限。距離を取ろうとは決めていないのに、どうにもできない。
昼休み、美香さんからLINE。
『あの後、遥斗と話しました』
『婿養子の件はまた“時間をくれ”って言われたけど……』
『莉緒さんの言う通り、私の気持ちは素直に伝えられました』
『遥斗も、少しずつ分かってくれてる気がします』
『本当にありがとう』
『今度、三人でご飯行きませんか? 遥斗も喜ぶと思います♪』
——三人で。
美香さんと、彼と、私。
彼女は何も知らない。私の気持ちも、私が壊しかけている均衡も。
無邪気な信頼が、いちばん鋭い。
『よかったですね。機会があればまたぜひ』
当たり障りのない返事を送る指が震えた。
——彼はまた「時間をくれ」と言った。苦しんでいる。
そして私も。彼を、そして二人を、苦しめている。
画面を伏せると、罪悪感が波のように押し寄せた。
♦
その日から、私は意識して彼を避けはじめた。
挨拶は会釈だけ。相談は他の人を介す。
目が合いそうなら資料を見るふり。
休憩をずらし、給湯室で鉢合わせそうなら引き返す。
出社も退社も時間をずらし、会議では遠い席に座る。
——続けられない。けれど、続けるしかない。
彼女の邪魔をしたくない。その最低限の誠実のために。
それでも、避けようとするほど、彼の輪郭は濃くなる。
給湯室の笑い声に足が止まり、カップを握る手に力が入る。
——聞きたい。その声を、私に向けて。
背を向けるたび、心が擦れた。
同僚たちの声が聞こえる。
「葉山さん、最近元気ないね」
美千代の一言で、胸が痛んだ。——私のせいだ。
彼の視線を、時々感じる。
何か言いたげな眼差しが、背中に残る。
二週間が過ぎた。
♦
金曜の終業間際。
「安西さん、少し、いいですか」
小さな会議室に、二人きり。密度の高い静けさ。
彼が、まっすぐに言う。
「最近、俺……何かしましたか? 避けられてる気がして」
「気に障ることを言ったなら謝りたい。安西さんが気になって、落ち着かない。」
「忙しくて」と言い訳しながら、声は震えていた。
「本当のこと、教えてください。あの夜のこと、気にしてます?」
「話せなくなるのが、すごく辛い」
その一言が、堰を崩した。
息が浅くなり、視界が滲む。
「もう……やめてください」
声が震え、涙があふれた。
「これ以上、優しくしないでください」
喉が詰まり、言葉がほどける前に泣き声に変わる。
——ごめんなさい、ごめんなさい。
でも、もう隠せない。
彼は驚いた顔をして、手を伸ばしかけて止めた。
「……ごめん。俺、何も——」
沈黙が、狭い室内を満たす。
言ってはいけないことを落としてしまった。
彼は気づいたかもしれない。羞恥と罪と、吐き出せた安堵。
世界が回る。壊れそうだった。
「失礼します」
私は部屋を出て、涙を拭いながら席へ戻る。
美千代が心配そうに見た。言葉は交わせない。
上司に「早退します」とだけ告げ、オフィスを出た。
♦
自宅。
ソファに崩れ落ち、泣くしかなかった。
——何をしているんだろう。
彼の困惑、戸惑い。私の言葉。
彼女との関係を壊したいわけじゃない。ただ、抑えられなかった。
バレてしまったかもしれない。
罪悪と自己嫌悪と、かすかな解放。
月曜、どう顔を上げればいいのか。
逃げたい。
窓の外の夜景。暗がりに沈む背中。
涙の音だけが、部屋を満たした。
♦
翌土曜の昼。
「大丈夫? 昨日早退してたけど」と美千代から。
私は「会いたい」と返し、都内のカフェで落ち合った。
「昨日、葉山さんと話したんでしょ。どうだった?」
「……もう、どうしていいか分からない。避けてるって言われて、堰が切れて」
「もう、隠せない」
美千代は目を伏せ、静かに聞いている。その様子に、私はさらに言葉を続ける。
「月曜が怖い。美香さんに申し訳ない。……でも、もう限界。どこかへ逃げたい」
カフェの窓の外を眺めながら、美千代は言う。
「無理に答えを出さなくていい。ただ、逃げても何も解決しないと思う」
「莉緒が本当にどうしたいか、ちゃんと考えて。私は、どんな決断でも味方」
救われる。けれど——
「もし、何もしなければ」
「忘れられたら、友情も壊さずに済む。誰も傷つかないかもしれない」
美千代は首を横に振る。
「本気で言ってる? いまのあなた、もう引き返せないところまで来てる」
何も言えない。そう、分かっているのに、認めるのが怖い。
♦
夜。
自分の部屋に戻り、スマホを手に取る。
同窓会の案内をもう一度開く。
参加者の一覧で「和樹」の名前が浮かび上がる。
——和樹。
大学時代、いつも一緒にいた仲良しグループの中でも、特に気が合った男友達。
映画の趣味が同じで、よく二人で観に行った。
就活の時期、お互いの悩みを聞き合った。
卒業を控えた春、いつもの公園で——
『莉緒、俺のこと、どう思う?』
私は別の人と付き合っていて、応えられなかった。
『また会おうね』が最後の言葉。
——元気かな。もし、あの時選んでいたら。
“もしも”に答えはない。けれど、いまはどこかへ離れたい。
♦
週明けの月曜から三週間。
オフィスでは気まずい沈黙が増え、私は以前ほど徹底しては避けない——隠す意味が薄れたから。
季節は静かに十月へ。街路樹は日に日に色を深める。
ある朝、エレベーターで二人きり。
「おはようございます」
階数表示だけを見つめる私と、床を見つめる彼。
三十秒が、こんなに長いなんて。
扉が開く瞬間、彼の小さなため息だけが耳に残った。
廊下ですれ違い、一瞬だけ目が合う。
彼の口がわずかに動いた。私は視線を逸らす。
「あ——」と聞こえた気がして、足早に離れた。後悔が遅れてやってくる。
給湯室でも鉢合わせる。
「安西さん——」
私は反射的に「失礼します」と背を向け、廊下で壁に手をついた。
心臓が、うるさい。
♦
十月下旬。
気まずさは続き、美香さんとの間も揺れているらしい。
「話したほうがいい」と美千代。私は「今は無理」と首を振る。
十一月初旬、美香さんから。
『最近、遥斗がおかしくて……仕事で何かありましたか?』
『同じ職場だし、何か知っていたら教えてください』
『分かりません。ごめんなさい』とだけ返す。
嘘と沈黙が、また重なる。
どこかへ逃げたい。
「逃げても解決しない」という言葉は正しいのに、身体が言うことを聞かない。
私は同窓会に「参加します」と返した。
晩秋の気配。
落葉が進み、コートを着る人が増える。
空気が冷たく乾燥している。
♦
十一月中旬、同窓会の前日。
明日の同窓会を前に、私は複雑な気持ち。
和樹に会って、少しは楽になれるかもしれない。
でも、根本的な問題は何も解決していない。
でも、今はとにかく……ここから離れたい。
もう、何もかも面倒くさい。
同窓会まで、あと少し。
あそこに行けば、少しは楽になれるかもしれない。
葉山さんを見るたびに、胸が痛む。
でも、もう隠す必要もないという投げやりな気持ちも。
私、どうしたいんだろう。
答えが出ない。
♦
十一月中旬の土曜日の夜、十九時。
都内の居酒屋。十人ほどの同窓会。
懐かしい顔、明るい笑い。
私も笑顔で参加しているが、心は遠い。
和樹がいた。大学の頃と変わらない、やさしい笑顔。
「久しぶり。元気だった?」
彼は過去を持ち込まず、今の私を見て問いかける。
「……ちょっと、いろいろ」
「話したくなかったら話さなくていいよ。いつでも聞く」
そのやさしさが沁みる。
笑い合いながら、心の奥は別の名前で満ちていく。
お酒が回り、思考が曖昧になった。
二十一時過ぎ、同窓会が終わる。
参加者たちが徐々に帰っていく。
私と和樹が最後まで残る。
「莉緒、大丈夫?かなり酔ってるみたいだけど」
「大丈夫……かな」
「送るよ」
「ありがとう」
夜気が冷たい。
♦
和樹が私を送る途中、私がふらつく。
「大丈夫?少し休む?」
カフェで一休みしようとするが、私が和樹の腕を掴む。
「今日は一人が怖い……一緒にいてくれる?」
和樹が驚くが、私の様子を見て、頷く。
駅前のホテル。
暗い部屋、ベッドに腰を下ろす。
「大丈夫?」
和樹が優しく声をかける。
私が和樹に寄りかかる。
「忘れたいの……」
「何を?」
和樹が聞く。
「……いやなこと……全部」
「……そっか」
和樹は私の気持ちを察している。
でも、何も聞かない。
ただ、そばにいてくれる。
「俺でよければ……」
優しく私を抱きしめる。
このまま、あの人のことを忘れられたら……。
和樹は優しい。私を受け入れてくれる。
——だから、せめて……。
でも、心の奥では葉山さんの顔が浮かんでくる。
お互い別々にシャワーを浴びる。
ベッドに横たわる。
「無理しなくていいからね」
その優しさが、逆に辛い。
和樹が優しく私を抱きしめる。
優しく髪を撫でる。
でも、私の心は遠い。
和樹の手が、優しく、ゆっくりと……私の髪に……頬に……。
でも——
胸が、締め付けられる。
息が、できない。
頭の中に、あの人の顔が浮かぶ。
ミーティングルームでの、困惑した表情。
「俺、安西さんと話せなくなるのが……すごく辛い」
資料室での「安西さんに……」という未完の言葉。
夏の夜、手をつないだときの温もり。
あの人の声。
あの人の優しさ。
あの人の——すべてが。
鮮明に、残酷なまでに、よみがえる。
涙がこぼれ落ちる。
体が、震える。
和樹じゃない。彼は優しい。でも——
私が求めているのは、あの人だ。
和樹が驚いて、私を見る。
「莉緒?」
「ごめん……無理……」
止まらない涙。
自分の体が、私に教えてくれた。
もう、誤魔化せないと。
「大丈夫。無理しないで」
和樹は抱きしめる腕の力を変え、ただそばにいてくれた。
「話したかったら、聞くよ」
「でも、無理に話さなくてもいい」
「……好きな人がいるの」
涙を流しながら、すべてを吐き出す。
「でも、その人には……恋人がいて」
「私、どうしようもなくて……」
「忘れようとしたけど……無理だった」
「……そっか」
沈黙。
「それは、辛いね」
もう一度、沈黙。
「莉緒」
和樹が優しい声で私の名前を呼ぶ。
「君は、何も悪くないよ。好きになるのは——止められないから」
その言葉に、また涙が溢れる。
「でもさ」
和樹が続ける。
「でも、本当に好きなら、逃げちゃダメだと思う。逃げても、答えは出ないから」
沈黙。
和樹が優しく、私の頭を撫でる。
「今夜は、ゆっくり休もう」
「朝まで、そばにいるから」
その言葉に、私はさらに涙を流す。
和樹が私を抱きしめたまま、朝を迎える。
あのあとなにもせず——ただ、優しく慰めてくれた。
私は和樹の腕の中で、少しずつ落ち着いていく。
でも、心の中では葉山さんのことばかり。
私、どうすればいいんだろう。
もう、逃げられない。
和樹の言葉——「逃げちゃダメだよ」——が心に響く。
♦
翌朝——日曜日——早朝六時頃。
薄い光。
眠る彼の腕からそっと抜け、窓辺に立つ。
昨夜、私は何をしようとしたんだろう。
和樹を利用しようとした。
でも……体が拒んだ。
葉山さんのことが、頭から離れなかった。
忘れようとしたけど、無理だった。
——和樹の言葉を思い出す——「逃げちゃダメだよ」。
もう、逃げられない。
この気持ちから、目を逸らせない。
和樹は、私のことを想ってくれていた。
でも、私は……葉山さんを選んだ。
もう、自分に嘘はつけない。
「おはよう」
和樹がやさしく微笑む。
「大丈夫?」
「……ごめん」
私が謝る。
「いいよ。気にしないで」
和樹が、少し笑う。
でも、その笑顔は——
少しだけ、寂しそうだった。
「莉緒が幸せになれることを願ってる」
言葉が、一瞬詰まる。
「だから——ちゃんと向き合ってね」
「逃げないで」
和樹が、私の肩をぽんと叩く。
その手が、一瞬だけ——
震えたような気がした。
「ごめんね、和樹」
もう一度、謝る。
「謝らないでいいって」
和樹が、目を逸らす。
——ああ。
和樹も、苦しいんだ。
でも、それを見せないでいてくれている。
その優しさが、胸に染みる。
ホテルを出て、駅で別れる。
「また連絡するね」
「うん。元気でね」
和樹の優しい笑顔を見送る。
一人になった私は、深く息を吐く。
もう、逃げない。
この気持ちと、ちゃんと向き合わなきゃ。
美香さんには申し訳ない。
でも——もう、隠せない。
隠すことの方が、もっと間違ってる。
どうなるか分からない。怖い。
でも、このまま何もしないで、後悔だけを抱えて生きていくのは——
それこそ、誰にとっても不誠実だ。
——和樹の言葉——「逃げちゃダメだよ」——が背中を押してくれた。
♦
その日の夜。
自宅に戻り、窓辺に立つ。
初冬の景色を眺める。
冷たく澄んだ空気。
街の灯りが、遠くに瞬いている。
和樹、ありがとう。
あなたが教えてくれた。——逃げないこと。
もう、誤魔化さない。
この気持ちと、ちゃんと向き合う。
葉山さんに——伝える。
結末は見えない。痛みも必ずある。
怖い。
結末がどうなるか、分からない。
でも——
隠し続けることの方が、もっと苦しい。
深く息を吸う。
冷たい空気が、肺に染み込む。
ゆっくりと、息を吐く。
——大丈夫。
きっと、大丈夫。
もう、逃げない。
ガラスに映る自分は、泣いていなかった。
震えもない。ただ、前を見ている。
——いつか来る、その時まで。
――続く。




