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第4話 壊したいわけじゃない

 初秋の朝、窓から差し込む光は柔らかい。

 まだ残暑の名残があるけれど、風は涼しく、空の青さは高く澄んでいる。

 街路樹の緑も、勢いをほんの少し手放しはじめていた。


 九月中旬の月曜。

 美千代には「葉山さんを好きになってしまった」と告白してしまった。

 美香さんは彼に『ほかに好きな人ができたの?』と問い、彼は否定しなかった——沈黙した。


 スマホには、同窓会の案内。

『十一月中旬に開催。久しぶりに集まりませんか?』

 参加者の名簿に「和樹」を見つける。大学時代の友人。

 一瞬だけ、あの頃へ帰れるなら、と思った。

 けれど決められないまま、今日も普通の顔を身につける。

 スマホを伏せて、出勤の支度に戻った。



 オフィス。

 席に着くと、視界の端に彼の姿が触れる。

 朝の挨拶は最低限。距離を取ろうとは決めていないのに、どうにもできない。


 昼休み、美香さんからLINE。


『あの後、遥斗と話しました』

『婿養子の件はまた“時間をくれ”って言われたけど……』

『莉緒さんの言う通り、私の気持ちは素直に伝えられました』

『遥斗も、少しずつ分かってくれてる気がします』

『本当にありがとう』

『今度、三人でご飯行きませんか? 遥斗も喜ぶと思います♪』


 ——三人で。

 美香さんと、彼と、私。

 彼女は何も知らない。私の気持ちも、私が壊しかけている均衡も。

 無邪気な信頼が、いちばん鋭い。


『よかったですね。機会があればまたぜひ』

 当たり障りのない返事を送る指が震えた。

 ——彼はまた「時間をくれ」と言った。苦しんでいる。

 そして私も。彼を、そして二人を、苦しめている。

 画面を伏せると、罪悪感が波のように押し寄せた。



 その日から、私は意識して彼を避けはじめた。

 挨拶は会釈だけ。相談は他の人を介す。

 目が合いそうなら資料を見るふり。

 休憩をずらし、給湯室で鉢合わせそうなら引き返す。

 出社も退社も時間をずらし、会議では遠い席に座る。


 ——続けられない。けれど、続けるしかない。

 彼女の邪魔をしたくない。その最低限の誠実のために。


 それでも、避けようとするほど、彼の輪郭は濃くなる。

 給湯室の笑い声に足が止まり、カップを握る手に力が入る。

 ——聞きたい。その声を、私に向けて。

 背を向けるたび、心が擦れた。


 同僚たちの声が聞こえる。

「葉山さん、最近元気ないね」

 美千代の一言で、胸が痛んだ。——私のせいだ。


 彼の視線を、時々感じる。

 何か言いたげな眼差しが、背中に残る。

 二週間が過ぎた。



 金曜の終業間際。

「安西さん、少し、いいですか」

 小さな会議室に、二人きり。密度の高い静けさ。


 彼が、まっすぐに言う。

「最近、俺……何かしましたか? 避けられてる気がして」

「気に障ることを言ったなら謝りたい。安西さんが気になって、落ち着かない。」


「忙しくて」と言い訳しながら、声は震えていた。


「本当のこと、教えてください。あの夜のこと、気にしてます?」

「話せなくなるのが、すごく辛い」


 その一言が、堰を崩した。

 息が浅くなり、視界が滲む。


「もう……やめてください」

 声が震え、涙があふれた。

「これ以上、優しくしないでください」

 喉が詰まり、言葉がほどける前に泣き声に変わる。

 ——ごめんなさい、ごめんなさい。

 でも、もう隠せない。


 彼は驚いた顔をして、手を伸ばしかけて止めた。

「……ごめん。俺、何も——」

 沈黙が、狭い室内を満たす。


 言ってはいけないことを落としてしまった。

 彼は気づいたかもしれない。羞恥と罪と、吐き出せた安堵。

 世界が回る。壊れそうだった。


「失礼します」

 私は部屋を出て、涙を拭いながら席へ戻る。

 美千代が心配そうに見た。言葉は交わせない。

 上司に「早退します」とだけ告げ、オフィスを出た。



 自宅。

 ソファに崩れ落ち、泣くしかなかった。

 ——何をしているんだろう。

 彼の困惑、戸惑い。私の言葉。

 彼女との関係を壊したいわけじゃない。ただ、抑えられなかった。

 バレてしまったかもしれない。

 罪悪と自己嫌悪と、かすかな解放。

 月曜、どう顔を上げればいいのか。

 逃げたい。


 窓の外の夜景。暗がりに沈む背中。

 涙の音だけが、部屋を満たした。



 翌土曜の昼。

 「大丈夫? 昨日早退してたけど」と美千代から。

 私は「会いたい」と返し、都内のカフェで落ち合った。


「昨日、葉山さんと話したんでしょ。どうだった?」

「……もう、どうしていいか分からない。避けてるって言われて、堰が切れて」

「もう、隠せない」


 美千代は目を伏せ、静かに聞いている。その様子に、私はさらに言葉を続ける。


「月曜が怖い。美香さんに申し訳ない。……でも、もう限界。どこかへ逃げたい」


 カフェの窓の外を眺めながら、美千代は言う。

「無理に答えを出さなくていい。ただ、逃げても何も解決しないと思う」

「莉緒が本当にどうしたいか、ちゃんと考えて。私は、どんな決断でも味方」


 救われる。けれど——


「もし、何もしなければ」

「忘れられたら、友情も壊さずに済む。誰も傷つかないかもしれない」


 美千代は首を横に振る。

「本気で言ってる? いまのあなた、もう引き返せないところまで来てる」

 何も言えない。そう、分かっているのに、認めるのが怖い。



 夜。

 自分の部屋に戻り、スマホを手に取る。

 同窓会の案内をもう一度開く。

 参加者の一覧で「和樹」の名前が浮かび上がる。


 ——和樹。


 大学時代、いつも一緒にいた仲良しグループの中でも、特に気が合った男友達。

 映画の趣味が同じで、よく二人で観に行った。

 就活の時期、お互いの悩みを聞き合った。


 卒業を控えた春、いつもの公園で——

『莉緒、俺のこと、どう思う?』

 私は別の人と付き合っていて、応えられなかった。

『また会おうね』が最後の言葉。


 ——元気かな。もし、あの時選んでいたら。

 “もしも”に答えはない。けれど、いまはどこかへ離れたい。



 週明けの月曜から三週間。

 オフィスでは気まずい沈黙が増え、私は以前ほど徹底しては避けない——隠す意味が薄れたから。

 季節は静かに十月へ。街路樹は日に日に色を深める。


 ある朝、エレベーターで二人きり。

 「おはようございます」

 階数表示だけを見つめる私と、床を見つめる彼。

 三十秒が、こんなに長いなんて。

 扉が開く瞬間、彼の小さなため息だけが耳に残った。


 廊下ですれ違い、一瞬だけ目が合う。

 彼の口がわずかに動いた。私は視線を逸らす。

 「あ——」と聞こえた気がして、足早に離れた。後悔が遅れてやってくる。


 給湯室でも鉢合わせる。

「安西さん——」

 私は反射的に「失礼します」と背を向け、廊下で壁に手をついた。

 心臓が、うるさい。



 十月下旬。

 気まずさは続き、美香さんとの間も揺れているらしい。

 「話したほうがいい」と美千代。私は「今は無理」と首を振る。


 十一月初旬、美香さんから。

『最近、遥斗がおかしくて……仕事で何かありましたか?』

『同じ職場だし、何か知っていたら教えてください』

『分かりません。ごめんなさい』とだけ返す。

 嘘と沈黙が、また重なる。


 どこかへ逃げたい。

「逃げても解決しない」という言葉は正しいのに、身体が言うことを聞かない。

 私は同窓会に「参加します」と返した。


 晩秋の気配。

 落葉が進み、コートを着る人が増える。

 空気が冷たく乾燥している。



 十一月中旬、同窓会の前日。

 明日の同窓会を前に、私は複雑な気持ち。

 和樹に会って、少しは楽になれるかもしれない。

 でも、根本的な問題は何も解決していない。

 でも、今はとにかく……ここから離れたい。


 もう、何もかも面倒くさい。

 同窓会まで、あと少し。

 あそこに行けば、少しは楽になれるかもしれない。

 葉山さんを見るたびに、胸が痛む。

 でも、もう隠す必要もないという投げやりな気持ちも。

 私、どうしたいんだろう。

 答えが出ない。



 十一月中旬の土曜日の夜、十九時。

 都内の居酒屋。十人ほどの同窓会。

 懐かしい顔、明るい笑い。

 私も笑顔で参加しているが、心は遠い。

 和樹がいた。大学の頃と変わらない、やさしい笑顔。


「久しぶり。元気だった?」

 彼は過去を持ち込まず、今の私を見て問いかける。

「……ちょっと、いろいろ」

「話したくなかったら話さなくていいよ。いつでも聞く」

 そのやさしさが沁みる。

 笑い合いながら、心の奥は別の名前で満ちていく。

 お酒が回り、思考が曖昧になった。


 二十一時過ぎ、同窓会が終わる。

 参加者たちが徐々に帰っていく。

 私と和樹が最後まで残る。


「莉緒、大丈夫?かなり酔ってるみたいだけど」

「大丈夫……かな」

「送るよ」

「ありがとう」


 夜気が冷たい。



 和樹が私を送る途中、私がふらつく。


「大丈夫?少し休む?」


 カフェで一休みしようとするが、私が和樹の腕を掴む。


「今日は一人が怖い……一緒にいてくれる?」


 和樹が驚くが、私の様子を見て、頷く。


 駅前のホテル。

 暗い部屋、ベッドに腰を下ろす。


「大丈夫?」


 和樹が優しく声をかける。

 私が和樹に寄りかかる。


「忘れたいの……」


「何を?」


 和樹が聞く。


「……いやなこと……全部」


「……そっか」


 和樹は私の気持ちを察している。

 でも、何も聞かない。

 ただ、そばにいてくれる。


「俺でよければ……」


 優しく私を抱きしめる。


 このまま、あの人のことを忘れられたら……。

 和樹は優しい。私を受け入れてくれる。

 ——だから、せめて……。


 でも、心の奥では葉山さんの顔が浮かんでくる。


 お互い別々にシャワーを浴びる。

 ベッドに横たわる。


「無理しなくていいからね」


 その優しさが、逆に辛い。

 和樹が優しく私を抱きしめる。

 優しく髪を撫でる。

 でも、私の心は遠い。


 和樹の手が、優しく、ゆっくりと……私の髪に……頬に……。

 でも——


 胸が、締め付けられる。

 息が、できない。


 頭の中に、あの人の顔が浮かぶ。


 ミーティングルームでの、困惑した表情。

 「俺、安西さんと話せなくなるのが……すごく辛い」

 資料室での「安西さんに……」という未完の言葉。

 夏の夜、手をつないだときの温もり。

 あの人の声。

 あの人の優しさ。

 あの人の——すべてが。


 鮮明に、残酷なまでに、よみがえる。


 涙がこぼれ落ちる。


 体が、震える。

 和樹じゃない。彼は優しい。でも——

 私が求めているのは、あの人だ。


 和樹が驚いて、私を見る。


「莉緒?」


「ごめん……無理……」


 止まらない涙。

 自分の体が、私に教えてくれた。

 もう、誤魔化せないと。


「大丈夫。無理しないで」


 和樹は抱きしめる腕の力を変え、ただそばにいてくれた。


「話したかったら、聞くよ」

「でも、無理に話さなくてもいい」


「……好きな人がいるの」


 涙を流しながら、すべてを吐き出す。


「でも、その人には……恋人がいて」

「私、どうしようもなくて……」

「忘れようとしたけど……無理だった」


「……そっか」


 沈黙。


「それは、辛いね」


 もう一度、沈黙。


「莉緒」


 和樹が優しい声で私の名前を呼ぶ。


「君は、何も悪くないよ。好きになるのは——止められないから」


 その言葉に、また涙が溢れる。


「でもさ」


 和樹が続ける。


「でも、本当に好きなら、逃げちゃダメだと思う。逃げても、答えは出ないから」


 沈黙。


 和樹が優しく、私の頭を撫でる。


「今夜は、ゆっくり休もう」

「朝まで、そばにいるから」


 その言葉に、私はさらに涙を流す。


 和樹が私を抱きしめたまま、朝を迎える。

 あのあとなにもせず——ただ、優しく慰めてくれた。

 私は和樹の腕の中で、少しずつ落ち着いていく。

 でも、心の中では葉山さんのことばかり。

 私、どうすればいいんだろう。

 もう、逃げられない。

 和樹の言葉——「逃げちゃダメだよ」——が心に響く。



 翌朝——日曜日——早朝六時頃。

 薄い光。

 眠る彼の腕からそっと抜け、窓辺に立つ。


 昨夜、私は何をしようとしたんだろう。

 和樹を利用しようとした。

 でも……体が拒んだ。

 葉山さんのことが、頭から離れなかった。

 忘れようとしたけど、無理だった。

 ——和樹の言葉を思い出す——「逃げちゃダメだよ」。


 もう、逃げられない。

 この気持ちから、目を逸らせない。

 和樹は、私のことを想ってくれていた。

 でも、私は……葉山さんを選んだ。

 もう、自分に嘘はつけない。


「おはよう」


 和樹がやさしく微笑む。


「大丈夫?」

「……ごめん」


 私が謝る。


「いいよ。気にしないで」


 和樹が、少し笑う。

 でも、その笑顔は——

 少しだけ、寂しそうだった。


「莉緒が幸せになれることを願ってる」


 言葉が、一瞬詰まる。


「だから——ちゃんと向き合ってね」

「逃げないで」


 和樹が、私の肩をぽんと叩く。

 その手が、一瞬だけ——

 震えたような気がした。


「ごめんね、和樹」


 もう一度、謝る。


「謝らないでいいって」


 和樹が、目を逸らす。


 ——ああ。

 和樹も、苦しいんだ。

 でも、それを見せないでいてくれている。

 その優しさが、胸に染みる。


 ホテルを出て、駅で別れる。


「また連絡するね」


「うん。元気でね」


 和樹の優しい笑顔を見送る。

 一人になった私は、深く息を吐く。


 もう、逃げない。

 この気持ちと、ちゃんと向き合わなきゃ。

 美香さんには申し訳ない。

 でも——もう、隠せない。

 隠すことの方が、もっと間違ってる。

 どうなるか分からない。怖い。

 でも、このまま何もしないで、後悔だけを抱えて生きていくのは——

 それこそ、誰にとっても不誠実だ。

 ——和樹の言葉——「逃げちゃダメだよ」——が背中を押してくれた。



 その日の夜。

 自宅に戻り、窓辺に立つ。

 初冬の景色を眺める。


 冷たく澄んだ空気。

 街の灯りが、遠くに瞬いている。


 和樹、ありがとう。

 あなたが教えてくれた。——逃げないこと。


 もう、誤魔化さない。

 この気持ちと、ちゃんと向き合う。

 葉山さんに——伝える。

 結末は見えない。痛みも必ずある。


 怖い。

 結末がどうなるか、分からない。

 でも——

 隠し続けることの方が、もっと苦しい。


 深く息を吸う。

 冷たい空気が、肺に染み込む。


 ゆっくりと、息を吐く。


 ——大丈夫。

 きっと、大丈夫。

 もう、逃げない。


 ガラスに映る自分は、泣いていなかった。

 震えもない。ただ、前を見ている。

 ——いつか来る、その時まで。


――続く。


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