第15話 続く世界
二月第二週、土曜の午前――遥斗
スマホを手に取る。
画面に映る名前――『美香』。
指が震える。
深呼吸をして、発信ボタンを押した。
数回のコール音のあと、声が聞こえる。
「……もしもし」
「美香……俺だ」
「……遥斗」
短い沈黙。
「俺……父親になる」
「……」
「美香と、ちゃんとやり直したい」
電話の向こうで、小さな嗚咽が聞こえた。
「本当に……?」
「ああ。後日、ご両親にも……ちゃんと挨拶に行く」
「……ありがとう」
涙声だった。
安堵と、喜びと、そして――きっと複雑な感情が、その声には混じっていた。
通話を終え、スマホを置く。
窓の外を見つめる。冬の空は、やけに青かった。
次は……莉緒に、話さなければ。
胸が痛む。
呼吸が、少し浅くなる。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
二日間、ほとんど眠っていなかった。
莉緒には……万全の状態で、会いたい。
ちゃんと、向き合いたい。
夕方、目が覚めた。
部屋は、もう暗くなり始めていた。
体を起こし、スマホを手に取る。
莉緒の名前を見つめる。
指が震える。
何度も、打っては消した。
そして――
『今から、会えないかな』
送信。
数秒後、既読。
『うん、会いたい!』
短い返信。
でも、その優しさが胸に刺さる。
部屋を出る準備をする。
コートを羽織り、ドアに手をかける。
胸が、締め付けられるように痛んだ。
二月第二週、土曜の夜――莉緒
自室で、遥斗さんからのLINEを見つめる。
『今から、会えないかな』
一瞬、息が止まった。
この一週間、彼の様子はどこか遠くて、もう終わってしまうのかもしれないと何度も思った。
だから――その一文が、胸の奥に小さな灯をともした。
不安もまだ残っている。けれど、それ以上に嬉しかった。
また会いたいって思ってくれたんだ。
『うん、会いたい!』
送信ボタンを押すと、胸が少し熱くなった。
部屋を見回し、散らかったクッションを整える。
お茶の準備をして、鏡の前で髪を整える。
窓の外はもう暗い。
街灯の光が、静かに部屋を照らしていた。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、遥斗さんが立っていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
その顔を見た瞬間――何かが、胸の奥で冷たくなった。
「どうぞ」
二人、テーブルに向かい合って座る。
お茶を淹れようと立ち上がろうとしたが――
「莉緒……話がある」
その声の重さに、動きが止まる。
ゆっくりと座り直した。
「……はい」
遥斗さんは、テーブルの上で手を組んでいる。
その指先が、わずかに震えていた。
「美香から……連絡があった」
「……」
「妊娠してた。三か月だって」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「……え?」
声が、か細く震える。
「俺の……子だって」
遥斗さんの声も、震えていた。
「……そんな」
頭の中が真っ白になる。
現実感が、遠のいていく。
「……嘘、ですよね?」
震える声で、そう言うのが精一杯だった。
「……ごめん」
遥斗さんが、顔を伏せる。
「……そんな」
手が震える。
顔を覆った。
「いつ……いつの話ですか?」
顔を上げて、問いただす。
「……十一月中旬」
「……私が告白する前?」
「……ああ」
胸の奥で、何かが壊れる音がした。
「じゃあ……私と付き合ってる時、もう……」
「知らなかったんだ。美香も気づいてなくて……」
言い訳にしか聞こえない。
「……そんな」
立ち上がり、部屋の隅に行く。
背を向けたまま、壁に手をついた。
「……嘘……嘘でしょ……」
涙が溢れる。
声を上げて泣き始めた。
「莉緒……」
遥斗さんが近づいてくる気配。
「来ないで!」
拒絶の声を上げた。
遥斗さんの足音が、止まる。
「私……幸せだったのに……」
涙が止まらない。
「遥斗さんと……ずっと一緒にいられると思ってたのに……」
どれくらい泣いていただろう。
気づけば、床に座り込んでいた。
涙を流しながら、虚ろな目で窓の外を見つめる。
「……そっか」
小さな声で、そう言った。
「……莉緒」
「遥斗さんは……美香さんのところに戻るんですね」
遥斗さんは、何も言えないようだった。
「産まれてくる子には罪がない……そうですよね」
自嘲的に笑った。
「莉緒……」
「私……何だったんだろう」
涙が止まらない。
でも、声は不思議と落ち着いていた。
しばらくの沈黙。
時計の針音だけが、やけに大きく響く。
ゆっくりと立ち上がり、涙を拭いた。
遥斗さんの方を向く。
「……そうなんですね」
「莉緒……」
「もう謝らないでください」
涙を堪えて、続ける。
「あなたは、優しい人だから……」
「そんなあなたが好きだったのだから……」
「それが……遥斗さんだから」
小さく微笑もうとしたが、顔が歪んだ。
「本当に……ごめん」
遥斗さんの目からも、涙が溢れている。
長い静寂。
二人とも、言葉を失ったまま。
やがて――
「最後にひとつだけ我が儘を言ってもいいですか?」
遥斗さんを見つめて、問いかける。
「……うん」
「今夜だけ……一緒にいて下さい」
涙を流しながら。
「朝まで……隣にいて」
「……ああ」
ベッドに横たわる。
遥斗さんが、後ろから抱きしめてくれた。
「……温かい」
涙が溢れる。
「莉緒……」
「何も言わないで……このまま、朝まで」
遥斗さんの腕を握る。
その温もりを、忘れないように。
二人とも眠れない。
外の静寂が、部屋の中の沈黙を際立たせる。
「遥斗さん……起きてますか?」
小声で問いかける。
「……ああ」
「私……後悔してません」
「遥斗さんを好きになったこと……告白したこと……全部」
「……莉緒」
「でも……もう少しだけ……一緒にいたかった」
涙が枕を濡らす。
遥斗さんが、強く抱きしめてくれた。
その腕から、涙が伝わってくるのが分かる。
「俺も……莉緒と、ずっと一緒にいたかった」
二人の体温だけが、互いを確かめ合う。
言葉はもう要らない。
ただ、時間が過ぎていく。
窓の外が白み始める。
二人、一睡もしていない。
冬の朝の冷たい光が、部屋に差し込む。
「……朝ですね」
遥斗さんの腕の中で、そう言った。
「……ああ」
「もう……終わりなんですね」
声が震える。
「……ごめん」
遥斗さんが、腕にさらに力を込める。
ゆっくりと起き上がる。
遥斗さんも起き上がった。
二人、向かい合って座る。
目は腫れている。遥斗さんの目も真っ赤だった。
「……莉緒さんと過ごした時間、一生忘れない」
「君と一緒にいられて、幸せだった」
「私も」
涙が溢れる。
「でも……もう、会えないですね」
「……ごめん」
「美香さんを、大切にしてあげてください」
「赤ちゃんも」
涙を拭いて、微笑もうとする。
「……ああ」
遥斗さんの優しさに、胸が締め付けられる。
玄関に向かう。
後を追うように、遥斗さんもついてくる。
靴を履く遥斗さん。
振り返る。
遥斗さんが、抱きしめてくれた。
抱きしめ返す。
二人、しばらく抱き合ったまま。
言葉はない。
「……大好きでした」
遥斗さんの胸に顔を埋めて、そう言った。
「俺も……大好きだ」
過去形ではなく、現在形。
その言葉が、胸に沁みた。
顔を上げて、遥斗さんの顔を見る。
最後に、その顔を目に焼き付けようとした。
遥斗さんも、じっと見つめてくれている。
涙が一筋、頬を伝う。
冬の朝の冷たい空気が、玄関に流れ込む。
二人の吐息が、白く小さな霧になった。
「……さようなら、遥斗さん」
「さようなら……莉緒さん」
名前を呼ぶのは、これが最後。
ゆっくりと離れる。
遥斗さんがドアを開ける。
振り返らずに、一歩を踏み出した。
ドアが閉まる音。
その場に立ち尽くす。
涙が、静かに頬を伝った。
しばらくして、力が抜けて床に座り込む。
「遥斗さん……」
声を上げて泣いた。
胸の奥が、引き裂かれるように痛む。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
遥斗さんの匂いがまだ残っている。
枕を抱きしめて、朝の光の中で泣き続けた。
二月第三週、日曜の朝――遥斗
マンションを出る。
朝の冷たい空気が肺に入る。
後ろを振り返りたい衝動に駆られる。
でも、前だけを見て歩いた。
振り返ったら、階段を駆け上がって戻ってしまう。
駅に向かう道。
涙が溢れて、視界がぼやける。
――ありがとう、莉緒さん。
冬の朝の街は、静かだった。
足音だけが、響いている。
二月第三週、あの朝のあと――莉緒
翌日から、私は会社を休んだ。
上司には体調不良と伝えた。
カーテンを閉めたまま、ベッドで過ごす。
食欲もない。眠れない。
遥斗さんとの思い出が、次々と蘇る。
初めて手をつないだ日。
映画を観た日。
一緒に料理を作った日。
温泉旅行。
あの時間は、夢だったの?
枕を抱きしめて泣いた。
三日目の朝。
スマホが光る。
――美千代からのLINE。
『大丈夫? 心配してる』
画面を見つめる。
でも、指が動かない。
既読をつけたら、泣いてしまいそうで。
そのまま、スマホを伏せた。
通知の光が、ゆっくり消えていく。
――それでも、遥斗さんの名前はずっと頭から離れなかった。
五日目。
覚悟を決めて、スマホを開く。
LINEの履歴をスクロールして、最後のやり取りを見つめる。
指が震える。
新しいメッセージを打ち込んだ。
『美香さんを大切にしてください。もう連絡しないでください』
送信ボタンを押す瞬間、涙が零れた。
――送信先は、もう閉ざされた未来。
それ以降、スマホは静かだった。
胸の奥が、空っぽになっていくのを感じた。
二月下旬。
美千代から、またメッセージ。
『莉緒、大丈夫?ずっと連絡ないけど』
ようやく返信する。
『……ごめん。会えない?』
『もちろん。いつでも。』
カフェで待ち合わせ。
美千代が、心配そうに見つめる。
「莉緒……痩せたね」
「そう?」
力なく笑った。
「何があったの?」
しばらく黙ったあと、ゆっくりと話し始めた。
「……彼、子どもができたの。前の人との」
美千代の表情が凍る。
「それで、戻るって……。その人と、生きていくって」
声が震えた。
「結局……私たちは、ダメだったんだ」
涙が滲んだ。
「莉緒……」
美千代が、手を握ってくれた。
「莉緒は、悪くない」
「好きになったことも、告白したことも」
「あなたは、自分に正直だっただけ」
「でも……結果は、こう」
涙が止まらない。
「結果がどうであれ、莉緒の気持ちは本物だった」
「それは、誰にも否定できないよ」
美千代が、抱きしめてくれた。
「ここにいると、遥斗さんのこと……忘れられない」
「……そっか」
「新しい環境で、やり直したい」
「海の近くの……静かな町で、暮らしてみようかなって」
「……遠くに行っちゃうの?」
美千代の目が潤む。
「うん。少し、東京から離れたい」
「リモートでできる仕事を探してみる」
「……寂しくなるね」
「美千代にも、たくさん迷惑かけた」
「本当に、ありがとう」
「馬鹿。友達でしょ」
二人、抱き合って泣いた。
三月上旬。
上司に退職の意向を伝えた。
「急だね。理由は?」
「個人的な事情です。申し訳ありません」
「……本当はもう少し早くお伝えすべきだったんですが……すみません」
「……そうか。残念だけど、引き止めはしないよ」
「君の決断を尊重する」
「ありがとうございました」
退職日は三月末。
それまで有給を消化することに。
実質、会社に出勤するのは三月下旬までだった。
三月下旬、最後の出勤。
同僚たちに挨拶して回る。
「個人的な理由で退職することになりました。お世話になりました」
「寂しくなるね」
「体に気をつけて」
「ありがとうございます」
美千代と最後のランチ。
「新しい場所、決まった?」
「うん。海の近くの小さな町に部屋を借りた」
「リモートで仕事ができる会社に転職も決まったの」
「そっか……連絡はちゃんと取ろうね」
「もちろん」
二人、涙ぐんだ。
その日の午後。
廊下で遥斗さんとすれ違った。
視線が合う。
一瞬、立ち止まる。
「莉緒さん……」
小声で、名前を呼ばれる。
小さく微笑んだ。
「……お元気で」
そのまま通り過ぎる。
遥斗さん……。
さようなら。
もう振り返らなかった。
数日後。
三月末。
部屋の荷物を整理する。
遥斗さんとの思い出の品が出てくる。
映画のチケットの半券。
旅行先で買ったお土産。
箱にしまう。
スマホの中の写真。
二人で撮ったもの。
削除はせず、アルバムの奥にしまった。
遥斗さんと美香さんをブロックする。
しかし、トーク履歴は削除しない。
いつか、これを見返す日が来るかもしれない。
今は、まだ……無理。
旅立ちの日。
大きなスーツケースを持って駅へ。
美千代が見送りに来てくれた。
「元気でね」
「美千代も」
抱き合う。
「また会おうね」
「うん。絶対」
電車の窓際の席に座る。
東京の景色が遠ざかっていく。
やがて、車窓に海が見え始めた。
遥斗さん……美香さん……。
せめて二人とも幸せになってね。
目を閉じる。
私は、私の人生を生きる。
自分に嘘をつかなかった。それが、私の誇り。
涙が一筋、頬を伝う。
海風が吹き込む窓から、潮の香りがした。
数年後の春。
桜が満開の、昼下がり。
莉緒は都内の公園を歩いていた。
出張で東京に来ており、午後の打ち合わせまで時間があった。
海の町での暮らしは、穏やかだった。
仕事も順調で、心の傷も少しずつ癒えている。
「綺麗だな……」
桜を見上げながら、そう呟く。
ベンチに座り、しばらく休む。
家族連れや子どもたちで賑わっている。
ふと視線を向けると――
父親と小さな女の子が遊んでいる姿が見えた。
少し離れた場所で。
「パパ、高い高い!」
「よいしょ!」
女の子を抱き上げる父親。
笑い声が、風に乗って聞こえる。
その瞬間――足が止まった。
……あれは。
桜の花びらが舞う中、その横顔がはっきりと見える。
遥斗さん……。
幸せそう。
しばらくして、美香さんが近づいてくる。
「遥斗、そろそろ帰ろうか」
「もう少しだけ」
笑顔で娘さんを見つめる遥斗さん。
「もう、甘やかしすぎよ」
美香さんも微笑んでいる。
「よし、帰ろうか」
娘さんを抱き上げる。
「パパ、また来ようね!」
「ああ、また来よう」
温かい笑顔。
「今日の夕飯、何がいい?」
「カレーがいいな」
「カレー!カレー!」
三人で笑い合う。
「じゃあ、カレーね」
美香さんが遥斗さんの腕に手を添える。
遥斗さんが微笑み返す。
娘さんを肩車する遥斗さん。
「高い!パパすごい!」
「重くなったな」
嬉しそうに。
「もう大きくなったもんね」
幸せそうに二人を見つめる美香さん。
遥斗さん、ちゃんとお父さんやってるんだ。
口元が緩む。
幸せそう……良かった。
少し切なさを感じる。
でも、同時に温かい気持ちにもなった。
あの時、遥斗さんが選んだ道は、正しかったんだ。
涙が少し滲むが、笑顔になる。
立派なお父さんになったんだね……
あなたらしい……。
遥斗さんに声をかけることなく、静かに背を向ける。
遥斗さんは気づいていない。娘さんと遊ぶことに夢中だから。
もう、名前を呼ぶ必要はなかった。
この恋はつらかった。でも宝物だった。
遥斗さんを好きになれて、幸せだった。
自分に嘘をつかなかった。それが私の誇り。
遥斗さん、あなたと出会えて本当に良かった。
微笑む。
幸せになってね。美香さんと、娘さんと、一緒に。
公園を出る。
春の風が吹き、髪を揺らす。
桜の花びらがひとひら、頬をかすめた。
さようなら、遥斗さん。
ありがとう。
前を向いて歩き出す。
世界は、静かに続いていく。
新しい春の光の中を、莉緒は歩いていった。
――遥斗
三人で歩く帰り道。
娘の笑い声が、春の風に溶けていく。
遥斗は空を見上げた。
桜の花びらが、静かに舞っていた。
(完)
「彼女と別れて私と付き合って…」
最終回になります。
莉緒、遥斗、美香の物語はこれでおしまいです。
彼らが選んだ答えが、あなたの心にも小さな灯りを残せたなら幸いです。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。




