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第14話 静止する世界 ―明ける朝―

 二月第二週、月曜の朝。


 職場の空気は、いつも通り静かだった。

 パソコンのファンの音がやけに大きく聞こえる。


 通路の向こうで、莉緒がこちらに気づく。


「おはようございます。体調は大丈夫ですか?」


 柔らかな声。

 遥斗は、言葉を選ぶように小さく頷いた。


「……ああ。心配かけて、ごめん」


 視線が合わない。

 その一瞬の沈黙に、いつもと違う距離が生まれた。


 莉緒は違和感を覚える。

 何かが変わってしまった——そんな予感だけが残った。




 昼休み。


 食堂の窓際。

 人のざわめきと食器の音が、遠くで交じり合っていた。


 莉緒と美千代が向かい合う。

 トレイの上の湯気が、ゆっくりと揺れている。




「莉緒、遥斗さんの様子……おかしくない?」


「……気づいた?」


「何かあったの?」


「分からない。 でも……何か隠してる気がする。」




 美千代は箸を置き、莉緒を見つめた。

 彼女の目は、不安の色を帯びていた。


「……心配だね。」


「うん……。」




 二人の間に、短い沈黙。

 その沈黙が、昼の喧騒の中で妙に際立っていた。


 湯気がゆらめき、時間が少しだけ止まったように感じる。




 二月第二週、火曜日——遥斗。


 デスクに向かうが、手が止まる。

 パソコンの画面を開いたまま、カーソルだけが瞬いている。


 どうすればいい——。

 頭の中で同じ言葉が何度も繰り返される。




「葉山、大丈夫か?」


 上司の声に、肩がびくりと動いた。


「……はい。すみません。」


 無理に笑って、頭を振る。

 それでも視線は、画面の一点から離れなかった。




 昼休み。


 スマホが光る。

 白い画面に、短い文字列。


『今日の夜、少しお話できませんか?』


 ——莉緒からだった。


 指が止まる。

 その一文が、胸の奥で重く響く。


 今はまだ……会えない。




 しばらくして、ようやく返信を打つ。


『ごめん。今週は忙しくて……』


 送信。


 すぐに返ってくる。


『そうですか。無理しないでくださいね』




 優しい言葉ほど、痛かった。

 罪悪感が波のように押し寄せ、呼吸が浅くなる。


 机の上の時計の針だけが、淡々と進んでいた。




 二月第二週、水曜日——莉緒。


 遥斗さんとの距離が、目に見えて開いていく。

 廊下ですれ違っても、視線を逸らされる。


 何かあったんだ……。

 でも、聞けない。


 胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。




 一人で駅に向かう。

 いつもなら隣にいた人が、今日はもういない。


 冬の風が頬を刺す。

 足元の影が、街灯の下で揺れた。


 ——遥斗さん。


 名前を心の中で呼ぶたびに、不安が少しずつ膨らんでいく。




 同じ日の夜。


 部屋に灯りをつける。

 白い光が、静かな部屋に広がった。


 いつもなら、この時間に彼からメッセージが届く。

 でも、今日もない。


 コートを脱ぎ、ソファに沈む。

 スマホの画面を見つめる。

 通知の光は、どこにもない。




 何が起きているの……。

 先週までは、あんなに笑い合っていたのに。


 水族館で見た彼の笑顔が、脳裏によみがえる。

 あの優しさが、まるで幻のように遠い。




 テーブルの上、スマホが目に入る。


 ——まさか……美香さんのこと?


 その考えがよぎった瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 違う。そんなはず、ない。


 自分にそう言い聞かせる。

 けれど、不安は静かに膨らんでいく。




 意を決して、通話ボタンを押す。

 コール音が、部屋の静けさに響く。

 五回、六回——やっと繋がった。




「……もしもし」


 疲れた声だった。

 その一言で、心がざわめく。


「遥斗さん……大丈夫ですか?」


「……ああ」


 短い返事。

 その後に、沈黙。


「何か……困ってること、ありませんか?」


「……ごめん。大丈夫。」


 その声は、震えていた。


「本当に?」


「ああ。心配かけて……ごめん。」




 通話が切れる。


 静まり返った部屋。

 耳の奥で、切断音だけが残っている。


 スマホを握りしめる。


 ——嘘。


 視界が滲み、涙があふれた。


 遥斗さん……何があったの。


 ベッドに倒れ込み、枕を抱きしめる。

 一人で、声を殺して泣いた。


 窓の外では、冷たい雨が静かに降り始めていた。

 その音が、心の奥まで染みていく。




 二月第二週、木曜日——遥斗。


 ベッドに横たわり、天井を見つめる。

 雨の音が、かすかに部屋に響いている。


 ——あの夜の記憶が蘇る。




 十一月中旬。


 莉緒の存在が、自分の中で大きくなっていくのを感じていた頃。

 抑えきれない感情を、必死に誤魔化していた。




 莉緒が初めて告白してくれたあの日。

 その前の夜——俺は、美香と会っていた。




 俺の部屋。

 静かな明かりの下、二人きり。


「最近……遥斗、冷たい。」


 不安そうな声。

 その言葉に、胸の奥がざわつく。


「そんなことない。」


 視線を逸らす。

 やましさが、息苦しさに変わる。




「本当? 私のこと、ちゃんと見てる?」


「……」


「……最近、遥斗を遠く感じる。」


「そんなこと——」


「いいの。理由は聞かないから。」


 笑おうとした唇が、わずかに震えていた。


「でも……私だけがこんなに好きでいるの、ちょっと苦しいよ。」




 沈黙。

 カップの水面が、微かに揺れた。


「……ごめん。」


 その一言に、美香の肩が震える。

 気づけば、抱きしめていた。




「ねえ……今夜、そばにいて。」


 すがるような声。


 断りきれなかった。

 心の奥で何かが軋む音がした。




 ——これでいいのか。


 答えのないまま、彼女を抱きしめた。




 罪悪感に苛まれながら、

 窓の外では、冷たい雨が降っていた。




 あの日のことを思い出しながら、ベッドの上で体を起こす。


 ——あの夜。

 あの夜があるから、今がある。


 頭を抱えた。

 胸の奥で何かが軋む。




 俺の……責任だ。


 莉緒に出会う前に、ちゃんと美香と向き合うべきだった。

 それなのに、逃げた。


 誠実でいるつもりが、結局どちらも傷つけた。

 涙があふれ、頬を伝う。




 ——俺は、最低だ。




 お腹の中の子ども。

 何の罪もない命。


 その言葉を心の中で繰り返す。




 母親の記憶がよみがえる。

 俺を置いて消えた、あの女の背中。


 ——あんなふうには、なりたくない。

 それだけは……絶対に。


 拳を握りしめる。

 爪が手のひらに食い込む。




 けれど、莉緒の笑顔が消えない。

 あの優しい声が、今も胸の奥で響いている。


 ——莉緒。




 いけないことだと分かっていても、ふと考えてしまう。


 ——もしも、あの日、美香を抱かなければ。

 ——もしも、美香より先に、莉緒に出会っていれば。


 そんな「もしも」を思うたび、胸の奥が軋む。

 けれど、過去は動かない。

 あるのは、今、選ばなければならない現実だけだった。


 深く息を吐く。

 夜が、少しだけ静かになる。




 二月第二週、金曜日。


 その日、会社を休んだ。


 窓の外は静まり返っている。

 薄曇りの光が、部屋の中をぼんやりと照らしていた。


 ソファに座ったまま、何もできない。

 スマホの画面には、莉緒からのメッセージ。

 けれど、開けなかった。




 テーブルの上には、冷めたコーヒー。

 カップの表面に、薄い膜が張っている。


 昨日から一睡もしていない。

 頭の中で、同じ言葉が何度も巡っていた。




 ——美香を選べば。

 家族ができる。 父親になる。


 けれど、莉緒を失う。

 息が詰まる。




 ——莉緒を選べば。

 きっと、穏やかな日々が続く。


 けれど、その代わりに——子どもを。




 幼い頃の記憶がよみがえる。


 朝、目を覚ますと、隣の布団が冷たかった。

 台所の時計の音だけが響いている。


 居間に行くと、母の靴がなかった。

 ドアの前には、小さな鞄と、折れ曲がった手紙の切れ端。


『ごめんね』——それだけが書かれていた。




 お母さん……。


 何度呼んでも、返事はなかった。

 その日から、家の中の音が一つ減った気がした。




 胸の奥に焼きついた感覚。

 あの孤独を、自分の子どもにだけは、味わわせたくない。




 ……莉緒。


 君の笑顔が浮かぶ。

 一緒にいたい。

 ただ、それだけを願っていた。




 けれど……俺には、できない。


 胸が引き裂かれるように痛む。

 それでも、目を閉じて拳を握った。




 ——子どもを捨てることは、できない。


 それが、父親としての責任だ。




 涙が止まらない。

 静かな部屋に、呼吸の音だけが残る。




 ——莉緒、ごめん。

 本当に……ごめん。


 窓の外、夜が白み始める。





 二月第二週、土曜。


 カーテンの隙間から、朝日が差し込む。

 俺は、まだソファに座ったままだった。


 一睡もしていないのに、不思議と目は澄んでいた。




 テーブルの上のスマホに視線を落とす。

 履歴には、美香の名前。


 ——電話を、しなきゃ。


 深呼吸。

 指が震える。

 それでも、もう逃げられない。




 画面の下に、もう一つの名前が映る。


 ——莉緒。


 もう少しだけ、待っててほしい。

 ちゃんと、話すから。


 涙が一筋、頬を伝う。




 こんな駄目な俺で、本当に……ごめん。




 立ち上がり、窓を開ける。


 冷たい朝の空気が流れ込む。

 深く息を吸い込んだ。




 ——行こう。

 決意を胸に、足を踏み出す。

 運命の日が、静かに始まった。


——続く。


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