第12話 光の底 ―風の兆し―
十二月三十一日――莉緒
駅から続く雪道を、二人は並んで歩いた。
吐く息が白く溶け、冬の空気が肌を刺す。
足元の雪が、かすかな音を立てて崩れる。
やがて、湯けむりの町が見えてきた。
灯りのにじむ街並みの向こうから、湯の匂いが漂ってくる。
旅館の部屋に入ると、畳の香りと湯の音が静かに迎えてくれた。
「……静かだね」
遥斗さんがぽつりと呟く。
「都会の音が聞こえないだけで、世界が違って見えますね」
私の言葉に、遥斗さんはゆっくり頷いた。
二人で窓の外を眺める。
湯気の向こうに、雪が舞っていた。
その白さが、夜の光をやわらかく包んでいた。
それぞれの湯船。
私は湯に身を沈め、ゆっくりと息を吐いた。
湯気の向こう、遠くの山並みに白い月がかかっている。
湯の音が、静かに耳を撫でた。
——誰かを想うことって、どうしてこんなに苦しいんだろう。
その思いが、湯面に溶けて消えていく。
月の光だけが、静かに揺れていた。
夕食。
旅館の部屋に、懐石料理が並んでいた。
小さな鍋の湯気が立ちのぼり、魚の香ばしい匂いが広がる。
会話は少ない。
けれど、穏やかな笑顔が途切れることはなかった。
「……おいしいですね」
私が箸を置く。
「ああ。こういう時間が一番落ち着く」
二人、同じように箸を置き、静かに湯呑を傾けた。
湯気がゆらぎ、茶の香りがやわらかく漂う。
その沈黙が、言葉よりも深く響いていた。
食後、畳の上に座り、コタツに手を入れた。
ストーブの音が、かすかに鳴っている。
「……遥斗さんのこと、もっと知りたいです」
私の言葉に、遥斗さんは少し考えてから口を開いた。
「どんなこと?」
「昔のこと。悲しいことも、嬉しかったことも」
遥斗さんは湯呑を手に取り、ゆっくりと一口飲む。
「……明るくて、真っ直ぐな人がいた。いつも前を向いてた」
私は黙って、湯呑を握りしめる。
「でも、俺はその強さに追いつけなかったんだと思う」
窓の外で、雪が強くなっていく。
音を吸い込みながら、白が夜を満たしていった。
「……でも、いまは違う。
無理に強くならなくてもいいって、思えるようになった」
私はゆっくり顔を上げた。
二人の視線が重なり、微笑が生まれる。
抱き合いながら、互いの鼓動を確かめる。
その温もりが、何よりも確かだった。
元旦の朝。
東の空が、ゆっくりと白み始める。
二人、旅館の窓際で並んで立っていた。
手を取り合い、静かに初日の出を待つ。
光が差し込む瞬間、
窓のガラスが一瞬だけ金色に染まった。
遥斗は、胸の奥でつぶやく。
——この光の中で、生き直したい。
莉緒もまた、心の奥で願う。
——この瞬間だけでも、永遠でありますように。
言葉はなかった。
ただ、同じ光を見つめる視線だけが重なっていた。
♦
一月三日。
澄んだ空気のなか、神社は人であふれていた。
屋台の湯気が風に流れ、鈴の音が遠くで響く。
遥斗と莉緒は手をつなぎ、参道をゆっくり進んだ。
吐く息が白く交わり、指先は少し冷たい。
拝殿の前で、二人は並んで目を閉じる。
——どうか、もう誰も泣かせませんように。
——どうか、この温もりが長く続きますように。
鈴の音が、ふたりの祈りをやさしく重ねていく。
風が頬を撫で、冬の光が鳥居の上で淡く揺れた。
階段を降りながら、莉緒が笑った。
「何をお願いしたんですか?」
「……秘密」
「ずるいですね」
ふたり、顔を見合わせて笑う。
その笑いの中に、言葉にならなかった祈りがそっと隠れていた。
鈴の余韻がまだ遠くで鳴っている。
冬の光が、石段の上を静かに滑り落ちていった。
境内の片隅で、おみくじを引いた。
紙を開いた莉緒が、ふっと嬉しそうに微笑む。
「……吉、でした」
「俺も」
目が合い、二人は小さく笑い合った。
木の枝に結ばれた無数の白い紙が、風に揺れる。
かすかな音が重なり合い、空へとほどけていく。
その響きが、願いの余韻のように静かに続いていた。
♦
一月二週目、水曜日の夜――莉緒
仕事を終えて帰宅した。
コートを椅子に掛けたまま、コンビニの弁当を温める。
テレビをつけるが、音がやけに大きく感じて、すぐに消した。
部屋の時計の針だけが、淡々と時を刻んでいる。
スマホが光る。
画面には、数日前に届いていたメッセージ。
「莉緒、元気? 最近忙しいの?」
差出人の名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
——美香さん。
指が止まり、息が浅くなる。
返信欄を開き、文字を打つ。
「元気です。また今度――」
途中で指が止まり、文をすべて消した。
スマホを伏せ、両手で顔を覆う。
——ごめんなさい。何も言えない。
声にならない言葉が、唇の内側で途切れる。
ベッドに横たわる。
眠れないまま、枕の端を握りしめる。
——忘れたいのに、忘れられない。
真夜中。
眠れずに、もう一度スマホを手に取った。
「今、起きてますか」
すぐに既読がつく。
「起きてる。どうしたの?」
少しの間。
指が震える。
「……声、聞きたくなって」
通話ボタンに触れ、小さく息を吸って押した。
スピーカー越しに、かすかな呼吸音が聞こえた。
「……聞こえてる?」
遥斗さんの声。
「はい」
その一言のあと、沈黙が続く。
電波のノイズと、胸の鼓動が混ざり合う。
「さっき……美香さんからLINEが来てて」
私の言葉に、受話口の向こうが一瞬、静まり返った。
「……そうか」
ふたりのあいだに、言葉にならない“ごめん”が漂う。
「……もう寝ますね」
「ああ。おやすみ」
通話が切れ、耳の奥に声の余韻だけが残った。
私はスマホを握りしめたまま、天井を見つめる。
窓の外で、風の音がかすかに鳴っていた。
♦
一月三週目、土曜日――遥斗
晴れた冬の朝。
二人で駅を出て、料理教室の建物へ向かう。
「カップルで楽しむイタリアン」という看板の前で目を合わせて笑った。
エプロンをつけると、莉緒が少し照れたように視線をそらす。
「こういうの、初めてだな」
「私も。でも、ちょっと楽しみ」
パスタ生地をこねる。
小麦粉が莉緒の頬につき、俺が指先でそっと拭った。
「……ありがとうございます」
その仕草に空気が柔らかくなる。
包丁の音、鍋の湯気、笑い声。
「遥斗さん、手際いいですね」
「いや、見よう見まねだよ」
ソースの香りが立ちのぼる。
莉緒がスプーンを差し出した。
「味見、どうぞ」
「……美味しい」
「よかった」
莉緒は小さく笑った。
講師の声が聞こえる。
「二人で作ると、自然と距離が縮まりますよ」
周りのカップルたちの笑い声が混じる。
莉緒は湯気の向こうを見つめていた。
その目に、まだ見ぬ台所や夕暮れの光が映っている気がした。
俺も同じ瞬間、彼女の横顔を見つめる。
目が合い、どちらも言葉を失った。
出来上がったパスタを二人でテーブルに運ぶ。
「わあ、美味しそう」
莉緒が目を輝かせる。
「俺たち、意外と息合ってたな」
一口食べて、二人とも笑う。
ソースの味よりも、隣にいる温かさが残った。
「自分たちで作ると、なんか特別ですね」
「うん。また作ろう」
「……はい」
帰り道。
冬の風が少し冷たく、自然に手が触れる。
街灯の下で影が並んで伸びる。
莉緒の指先が、そっと俺の手を握った。
その理由を、彼女自身もうまく言葉にできない。
ただ、風の中に“いつか”という気配だけが残っていた。
♦
とある平日。
いつもと同じ始業の風景。
遥斗と莉緒は、すれ違いざまに小さく会釈を交わした。
言葉はない。
それだけで、充分だった。
周囲は誰も気づかない。
二人だけが知る合図。
昼休み。
社員食堂の窓際で、美千代が箸を置きながら笑った。
「莉緒、最近ちょっと表情がやわらかいね」
莉緒はカップを持ち上げる。
「……そう見える?」
「うん。前より肩の力抜けてる感じ」
莉緒は答えず、湯気の向こうを見つめた。
その視線の先にいる人を、名前では呼ばない。
夕方。
退勤時、エレベーターのドアが閉まる直前。
一瞬だけ目が合い、遥斗が微かに頷く。
言葉より短い約束のように。
莉緒の胸の奥で、小さな灯がまたひとつ灯った。
♦
一月四週目、土曜日――莉緒
冬の光が沈みかける頃、私たちは水族館に着いた。
入り口をくぐると、青の世界が広がる。
水槽の光が頬に揺れ、指先が自然と絡む。
「……きれい」
私が呟く。
「ほんとだね」
声を出すたび、音が水に溶けるように消えていった。
巨大な水槽、水のトンネルのエスカレーター。
光の粒がゆらめき、魚の群れが流星のように過ぎていく。
「時間が止まったみたい」
私の言葉に、遥斗は頷く。
「俺も、そんな気がする」
ふたりの影が、水槽の青に重なった。
やがて、イルカショーが始まる。
白い飛沫、歓声、拍手。
私は手を叩きながら笑っていた。
遥斗はその横顔を見つめる。
「どうしました?」
私が振り返る。
「いや……楽しそうだなと思って」
「ふふっ、楽しいですよ」
その笑顔の奥で、言葉にならない痛みがかすかに揺れた。
クラゲの水槽へ。
薄闇の中、無数のクラゲが浮かんでいる。
光の呼吸のように、白が淡く明滅していた。
私は立ち止まり、その光景に見入る。
「……時間が止まればいいのに」
遥斗は何も言わず、手を握り返した。
「ずっと、こうしていたい」
「……ああ」
涙が頬を伝う。
「嬉しくて泣いてるの。遥斗さんといられて、本当に幸せ」
遥斗は言葉を失い、そっと抱き寄せた。
青に溶ける影。
世界が静止する。
——この瞬間が、ふたりの幸福の頂点だった。
♦
一月四週目、同じ日の午後――遥斗
カフェの休憩。
窓の外では、波のように光がゆれている。
「今日、最高だったな」
向かいで莉緒が笑う。
その笑顔に、胸の奥が少し熱くなる。
「また来よう」
「ふふっ……私のだもん」
彼女がカップを持ち上げながら言う。
その声が、湯気に溶けていくようだった。
「何が?」
「この時間、です」
一瞬、視線が遠くを向く。
その言葉の意味が、静かに胸に落ちていった。
「……幸せすぎて、怖いな」
「え?」
「いや、なんでもない」
コーヒーの湯気が、静かに滲んだ。
♦
同じ日の夕方。
帰り道。
潮の匂いを含んだ風が、街を抜けていく。
指先が冷たく、ふたりは手をつないだ。
——この時間が、永遠なら。
——この手を、離さずにいられたら。
二人は心の中で、同じ願いをつぶやく。
街灯の下で、ふたりの影が伸び、重なって消えた。
——けれど、運命はもう静かに動き始めていた。
【断章:美香】
一月四週末、日曜日――美香
薄曇りの朝。
カーテンを閉めたままの部屋に、時計の音だけが響いている。
ベッドの上、毛布を肩まで引き寄せても寒気が残る。
扉の向こうから、母の声がした。
「美香、大丈夫? 顔色悪いわよ」
「……大丈夫」
「朝ごはん、少しでも食べなさいね」
「うん」
返事だけして、動けない。
ようやくベッドから起き上がると、めまいがする。
食欲もなく、身体の芯が重い。
「疲れかな……」
自分に言い聞かせるように呟く。
カレンダーをめくるが、そこに目を止めなかった。
夜になり、ソファに座って膝を抱える。
スマホを手に取り、去年の写真フォルダを開く。
「……あの日から、まだ二ヶ月しか経ってないんだ」
画面を閉じ、胸の奥に小さなざわめきを感じる。
けれど、それが何なのかは、まだ名前をつけられない。
ただ、胸の奥で何かが静かに動き始めていた。
♦
二月一週目。
月曜から木曜。
曜日を重ねるように、穏やかな日々が続く。
遥斗と莉緒は、いつも通りの距離を装う。
廊下ですれ違う一瞬、視線だけが触れる。
それだけで、十分だった。
昼休み、デスクに戻ると美千代がコーヒーを差し出した。
「莉緒、最近ほんとに穏やかだね」
「……そう見える?」
「うん。でも……なんか、少し怖いくらい」
莉緒はカップを持ち上げる。
「怖いって、なにが?」
「幸せって、急に壊れることあるでしょ」
莉緒は息を呑んだ。
「やめてよ……そんなこと、考えたくない」
「ごめん、ごめん。変なこと言った」
「ううん、大丈夫」
それ以上、どちらも言葉を足さなかった。
平日の夜。
雨上がりのカフェ。ガラス越しの街が濡れて光る。
「今日も疲れた?」
遥斗が尋ねる。
「平気です。こうして会えるから」
テーブルの下で、そっと指が触れ合う。
コーヒーの湯気の向こうに、笑顔がぼやける。
「週末、どこ行きたい?」
「どこでもいいです。遥斗さんとなら」
小さな約束が重なり、夜が穏やかに過ぎる。
二人とも、その幸福があまりに静かで、どこか現実でない気がしていた。
♦
二月一週目、金曜日。
仕事終わりの街、ガラス越しに灯りが滲む。
二人は小さなレストランの奥の席に座った。
グラスを軽く合わせ、音が静かに響く。
「今日も一日、お疲れさまでした」
「莉緒さんも」
ワインを口に含むたび、会話がやわらかくほどけていく。
「莉緒さんといると、時間が早く感じる」
「……それ、私も思ってました」
二人、同時に笑った。
笑い声が、テーブルのキャンドルに揺れて消える。
食事を終え、駅まで並んで歩く。
改札前、人の流れがまばらに行き交う。
「また明日」
「ああ。おやすみ」
そっと触れるだけのキス。
莉緒は振り返らず、改札を通る。
遥斗はその背中を見送った。
彼女の姿が見えなくなると、胸の奥にかすかなざわめきが広がる。
ホームの風が頬を撫でる。
莉緒は心の中でつぶやいた。
——明日も、同じように会える。
そう思いながらも、胸の奥で小さな不安が瞬いた。
その理由を、まだ知らない。
♦
二月一週目、金曜日の夜――遥斗。
シャワーを浴びて、灯りを少し落とす。
湯気の残る空気の中で、ソファに腰を下ろした。
テーブルの上には、開けかけのワイン。
スマホを手に取り、莉緒との今日を思い出す。
——莉緒さんといると……本当に、幸せだな。
画面を開いて短く打つ。
「今日もありがとう。また明日。」
数秒で既読がつく。
「こちらこそ。おやすみなさい。」
小さく笑う。
静かな夜。時計の針がひとつ音を立てた。
そのとき、スマホが震えた。
画面に映る名前——「美香」。
笑みが消える。
指先が止まったまま、しばらく見つめる。
着信音が鳴り続ける。
息を吸い、ゆっくりと指を滑らせた。
「……もしもし」
その瞬間、部屋の空気が変わる。
遠くで風が鳴いた。
幸福の夜が、音もなく幕を下ろした。
時計の針が、静かに時を刻み始める。
その音だけが、残された現実を告げていた。
——続く。




