時の彼方へ 第二章、木曽川
第二章、木曽川
第二章第一節.敦厚上野侍
旧真田領中田之荘より真田雪村の元へ旧家来五十三人が駆けつけた。豊臣大阪城での冬の陣(1614年)が始まる前の1613年の春先である。わずか五十三人ではあるが、寡兵の雪村にとっては何よりの力強い援軍であった。多ノ郷と中田之荘は真田領で隣接している。中田之荘は海野との長年の小競り合から海野が中田之荘へ1600年攻め込んできて中田之荘を占領された。真田は武田へ訴えたがそのとき真田家はまだ弱く武田との調整で不本意ながら中田之荘を海野に割譲した。
それから十数年後真田幸隆から真田昌幸が真田家を相続した。その折り海野が中田之荘から多ノ郷へ兵を出してきた。真田昌幸は海野の兵を撃破し中田之荘を取り戻し、海野の領地数ヶ村を占領した。海野は武田へ真田との調停を申し込んだ。
武田にすれば真田も海野も武田の与力であり武田は穏便な決着を望んだ。調停の結果、中田之荘を海野が真田に戻し真田が占領した海野の領地を海野に戻すこととなり真田家が取りつぶされるまで多ノ郷、中田之荘は真田領となる。
真田家が去った後、多ノ郷・中田之荘は旗本遠藤家の領地となり、遠藤家は江戸在住として、家来の角田を代官として派遣した。
角田は遠藤と共に徳川秀忠が関ヶ原の合戦の前哨戦として真田城を攻めたが、結果は秀忠軍の惨敗に終わった。真田との戦いが長引いたため肝心の関ヶ原の合戦に秀忠は間に合わず不参戦となり徳川家庚の不興を買った。このとき、角田も真田に手痛い目にあっており、このときの意趣返しとばかり多ノ郷・中田之荘に居住する真田家元家臣の扱いは酷いものであった。角田は江戸で雇った浪人を供回りとして連れてきている。
角田は真田家元家臣の家屋敷とわずかな田畑を残しそれ以外は没収した。時期をみて角田は真田家元家来を郷士に格下げし、刀狩りを行った。さらに、居住している屋敷は武士の身分であるのが本来であると郷士では住む資格が無いと現在の住居から追い出し没収したその屋敷に随行した武士を住まわせた。幕府の戦後政策で西側の大名は取りつぶしでそれらの藩の武士は浪人となって食い積めていた。
その浪人達から角田は特に腕の立つ者を選んで雇い連れてきた。たとえ任地が田舎の飛び領であろうと士官できることは彼らにとっては希有なことであり彼らは必死にその地位を守るであろうと。角田は代官としての地位を多ノ郷・中田之荘にさらに確立するべく真田家旧家来に行った行為は郷士への変更は一代限りの名乗りある。
自分の子供が家名を相続するときは士籍を削られることである。たとえ郷士でも侍である。それを剥奪されるというのはこの上も無い屈辱であったが、武器・武具は没収されており逆らいようがなかった。
多ノ郷生まれで先行きに希望が持てなく思い江戸へ出たものが居た。坂下といい嫁は居ない。祖父は多ノ郷に海野が攻めいられたとき海野の軍に殺された。そのとき坂下の父は成人しておらず親戚に引き取られ養子となり結婚し息子が生まれ坂下となった。親戚は上野流の門人であった。そして、子であった坂下も上野流を学んだ。
住んでいるのは長屋である。大家は長屋奥の別棟に住んでいる。坂下は武士ということで用心棒を兼ね大家の近くに住むこととなった。同じく向かい側にも武士が住んでいたが顔を合わせると会釈をする程度である。廃藩された松島藩で勘定方にいたとかで名を松井伝兵、娘を菜都といった。妻娘の親子三人の家族であったが国元で妻が心労で他界し、娘と二人で江戸に出てきたとのことである。
坂下が長屋に落ち着いた半年後に親子は長屋に住んだ。父親は元松島藩の伝手を頼って士官を望んでいたが士官は難しかった。国元から持参した金子も無くなりかけていた。それだけに松井の焦り始めていた。元松島藩の牛尾というのが松井を訪ねてきた。牛尾は清洲藩下屋敷に出入りしているがそこで聞いたという話を松井に伝えに来た。
最近清洲藩の支藩が出来て江戸屋敷を開くのに家来を捜していると言う。松井は牛尾と面識が無かった。しかし、牛尾は元松島藩の内情に詳しかった。実際牛尾は元松島藩士であった。それだけに松井は牛尾を信じてしまった。牛尾が伝えたのは清洲藩の支藩は木曽川藩というが先方に士官するには紹介者に謝礼が十両必要であるという。
松井は江戸へ出てきた時、国元で十両用意していた。それで慎ましく三年ほど生活してきた。今の松井にとっての十両は大金であったし、とても用意出来る状態ではなかった。牛尾は「それは心配ない。低金利の金貸しを知っている。士官すれば十両位すぐ返却できる。」と、松井に告げる。松井は牛尾にすべてを任せることとした。数日後、牛尾は松井を金貸しのところへ連れていった。
金貸しは銭屋と看板を出していかにも高利貸しのようである。牛尾は松井に「銭屋には貴殿に特別に低金利で貸してくれるよう計らってある」といった。松井は銭屋から十両を借り借用書を交わしたが、書面にはかなりの低金利が記されてあった。牛尾が松井へちょっと失礼と松井より借用書を取り上げ見ていた。そのとき銭屋が十両を松井に渡した。
その隙に牛尾がなにやら借用書をいじっていたのに松井は気がつかなかった。牛尾は松井が十両を借りると、すぐに木曽川藩へ訪ねるよう言った。松井が牛尾と共に武家屋敷が立ち並ぶ荻窪界隈に来た。
牛尾が木曽川藩と表札が掲げてある武家屋敷の前に立ち止まり、中へ向かって来訪したことを告げると門が開いた。松井と牛尾は中へ入ると、居間に案内された。しばらくすると木曽川藩江戸屋敷留守居というのが現れた。松井は留守居へ「よしなにお計らいください」と十両を渡した。留守居は「うむ」と言うと十両を受け取るとそそくさと部屋を退出し松井の士官に関することは一言もなかった。松井と牛尾は彼の武家屋敷を出た。牛尾は松井へ「おめでとうござる、これで松井殿は木曽川藩士となられた」と祝辞を述べ、木曽川藩江戸屋敷の前で二人は分かれた。
さて上野流とは用間の使い手である。孫子兵法に用間(忍者)のことが記してある。用間は孫子兵法十三編のうち十三番目の用間編にある。
用間には5間喋あり、その内訳は因間・内間・反間・死間・生間がある。
因間とは敵国の一般人を利用する。
内間とは敵国の役人など内通者。
反間とは逆スパイ。
死間とは偽情報、誤情報を流し騙し打ちをする。
生間とは敵国に侵入し情報を得て帰還する。
上野流は孫子兵法によるところの生間を携わるものを育成する流技である。
藤林左武次保武が表した忍術書「万川集海」(まんせんしゅうかい1676年)に忍芸とは盗賊の術に近しとある。
しかし、用間者と盗賊とは生き様が違う。違うが使役する者からは同一視されがちである。実際、戦国大名は合戦前に足軽を雇うに兵募集に盗賊山賊でもかまわず集めたようである。そういう破落戸(素波・乱波)を夜討ちなどに用いたと記述がある。
真田の家臣団には禰津信政、出浦盛清、横谷幸重、割田重勝、唐沢玄蕃、鷲塚佐太夫が用間者(忍者)として有名である。真田はこれらの家臣団を使役し情報収集にあたった。
上野梅信はこれら家臣の技を体系化し、孫子兵法の生間を独自に編纂したものである。たとえば、桶狭間の戦いで織田信長は今川がどこにいるのかで動いた。今川家は守護大名であり織田家は成り上がりの土豪といった感じで実力に大差があった。今川家側とすれば織田なぞ歯牙にもかけぬ存在であり尾張側の大高城を寝返えらせ今川方とした。信長は今川と寝返った大高の間に2カ所砦を築き連絡を遮断した。これで大高城は孤立した。
今川方は信長が築いた2カ所の砦を落とした。これで今川は大高城に向かった。大高城に行くには桶狭間を通過しなければならない。桶狭間はその名の通り狭あいな窪地である。今川軍が桶狭間に差し掛かったとき地元の農民が酒や餅を持ってきた。農民が酒や餅を持ってきたが、これらは信長が用意した用間編であり、今川ではここで昼食となった。そして今川の小休止中に信長は攻めた。
孫子兵法に言うところの地形編であろう。この戦いの結果は歴史が物語っている。
信長はまた商業についても興味を示した。この信長の言動を踏襲したのが、秀吉であり家康である。秀吉は海外貿易を独占した。家康もまた海外貿易にて富を築いている。真田が各所の大名の情報収集の活動をしたのも信長以来の所行であろう。大方の戦国大名といわれる実力者は他国の情報を得るのに躍起になっていた。情報を分析するのは軍師でありその結論を主人である戦国大名に告げるのである。そして、相手国と戦うか戦わず状観するかは大名主の判断である。上野流は情報収集の技法に徹した流派といえる。
一般人のなかに紛れこむために筋肉隆々とした体型は否定している。武器使用による指手などにタコができるまでの鍛錬も禁止している。体型はあくまでも一般人である。
上野は医学書により外筋と内筋の存在を知りひたすら内筋を鍛える手法を取り入れた。見かけは普通の人であるが内実は鍛え抜かれた武人こそが上野流の使い手である。
上野流は非情の流派でもある。上野流を学び始めるとき、まず己を捨てることから始まる。
探索にて得た情報を真田に伝えるため、敵に補足されたとしても逃げるために自分の指はもとより手一本足一本を躊躇なく切り落とすのである。そのために手を足をどう落とせば傷みを薄くできるか、また敵のどの急所を攻めれば良いか医学にも通じていた。
山中などで生き残る術も必要である。水と火、少量の食料で生き延びる。汚れた水は和紙にて濾し、火は火打ち石を用い、食料は食可能な草木を知る方。その知識を習得すれば山・野原にて起居するも餓死することは無い。
屋敷に忍び込むには前もって下見をし忍びやすくする工夫仕掛けを施す方、閂の開け方、錠前の開け方、暗闇で明かりを照らす方等々である。骨相、人相、体格で人を見、性格を推し量る。継立刀など刀剣の使い方。そして、冷静沈着な己を確立する。そうやって、上野流の使い手となり情報探索に行ずるのである。
つまりは、孫子兵法の実行である。
坂下は武家屋敷或いは商家へ忍び込み幾ばくかの生活に必要な小金を盗んでいた。忍びの訓練は現場での実践でのみで延びるものである。坂下の行動は訓練と実益を兼ねている。坂下は数日前から準備をしていた商家に忍び込み始める。この商家は邸内の不具合の補修を出入りの大工に頼んでいた。この大工は坂下の隣家に住んでおり、坂下と懇意である。大工が忙しいとき坂下は時折手伝っていた。坂下の意外な器用さに大工は重宝していた。坂下はその手伝いの時、その家に細工をして忍んでいた。
今日も坂下は裏手より細工を施した裏戸の閂をはずし邸内に入る。さらに細工をした雨戸を外し家の中へ入った。家の中の配置は一通りつかんでいる。下見は十分である。小道具部屋より天井裏へ移動する。
ホタルイカから抽出した蛍光部を湿しがんどうに入れた。夜間の天井裏は夜目でも見えない。まさに暗渠である。忍者にとっての明かりはホタル数匹が発光する程度の光があれば十分である。その点ホタルイカから抽出したものは水に湿すと光だす。それで十分な明かりがとれる。坂下が天井裏を這っていると鳴子が突然響いた。まさかの油断の展開である。坂下はその場に息を潜め、自分の気配を消した。数時間その場にいたが、屋敷の中は静かであった。まもなく夜明けである。
坂下は小道具部屋へ戻り雨戸から外へ出ようとする。小道具部屋の障子をあけると行灯を掲げた初老の老人が立っていた。行灯を坂下の方へ向けると、坂下は継立刀を構えた。「応、これは奇遇な。その刀は」と老人は言った。老人は恵那屋店主大河内将兵衛である。何が奇遇なのであろうか坂下は怪訝に思った。坂下が継立刀をさらに構え直すと大河内将兵衛は押し戻すように手を振り言った。
「まてまて、汝と事を構える気はない」
大河内各兵衛は恵那屋の創業者であり、清洲藩(名護屋藩)の家老であり大阪蔵屋敷総代となる。恵那屋大河内将兵衛は大河内各兵衛の三男で、木曽川藩主湊家忠の叔父となる。大河内将兵衛は坂下に言った。
「我が木曽川藩主湊家忠公は真田雪村殿を手本としておってのう。真田殿関係の書簡等を買い付けては国へ送って居るんじゃよ。最近手に入った物をお主に見てもらいたい。」将兵衛はそう言うと坂下についてくるよう背を向け進んだ。数分ほど廊下を歩き老人のいう見せたいとがある部屋へ着き障子をあけ中へ入った。将兵衛が行灯をかざすと文机の上に継立刀と書簡が置いてあった。書簡に書いてある中身は意味不明のかな文字の羅列であり、意味をなさぬ内容である。
第二章第二節.恵那屋の遁甲者
関東地方にいる遁甲者は伊賀甲賀と同じであると考えてよい。江戸恵那屋は遁甲者を13人雇っている。それらを関東以東に派遣し各地の産業・産物の生産状況、発展状況を調査させていた。彼らがもたらす情報に江戸恵那屋(江戸恵那屋と木曽川藩江戸屋敷は同一屋敷内であるが出入り口が別に設けてある)は方針を決定していた。
江戸恵那屋は遁甲者達を調方と位置づけていた。調方の頭領は緒方彦左と言い、江戸恵那屋へは口入れ屋(人材斡旋)の紹介で来た。緒方彦左の住まいは上州馬掛村で今は江戸に出ていた。彦左は遁甲者である。彦左の村の住民も遁甲者である。村の近くには湯量は少ないながらも温泉がある。戦国の世、傷ついた遁甲者が上州の山間をさまよっているときこの温泉を見つけた。その遁甲者が彦左の祖父になる。彦左の祖父は簡易な住居を構え、傷を癒しそこを拠点とした。やがて彦左の祖父の仲間が集まってきた。豊富な水と肥えた土壌に恵まれ自給自足はなり、集落となっていく。
彦左の祖父が集落の長となるが、遁甲者の集合体であるため他の村との交流は無かった。むしろ、彦左達の集落があることを近隣の村は知らせなかった。彦左達の集落のある場所は馬掛庄と云い、旗本である藤本小源の所領であった。馬掛庄の代官を春日吉吾という。春日には嫡男の吉太がいた。吉太は春日吉吾の跡取りということで馬掛庄の方々を探索して歩いた。馬掛庄は上州の山間部に位置し、平野といえる所が少なかった。吉太は開墾が可能な箇所を探している。吉太が探して開墾した田畑は少なくなかった。渓谷を流れる川辺を開墾したこともあったが、川の増水であっけなく散失した。
吉太は奥へ分け入るとき帰りに迷わないように目印を木々に紙縒を付けていた。馬掛のさらに山奥に分け入ったとき雨が降ってきて、目印の紙縒が雨に流され道に迷った。迷う内に集落に出会った。吉太の見知らぬ集落であった。雨はまだ降っていた。一軒の家へ訪なうと少年が出てきた。奥から母親らしき女の声が聞こえた。
「どなたか来られたのかい」少年は手に持った棒を近くの柱に一回たたいた。「隣の作三さんかい」母親が言った。少年は2回柱をたたいた。少年は口が利けないのか、1回たたくのが応で2回が否の合図か。「外は雨が降っているから中へ入ってもらいなさい」少年はウッウッと言いながら吉太へ家の中へ入るよう手を振った。
母親は「寒かったでしょう」と言いながら重湯を出してきた。吉太は体が冷え、空腹であった。有り難かった。吉太は重湯をすすり終えると母親に尋ねた。「私は道に迷ってここへ来ました。この村から馬掛へはどう行けば戻れますか。」ここには道に迷った旅人が集落へ現れた時その迷い人の対処に決まりがあった。迷い人には供応を施し二度と集落へ来れないよう回り道にて帰すようにと。母親は少年にその決まりの通りに吉太を街道まで案内するよう言った。少年は1回たたくと吉太へ自分に付いてくるよう手を振り村はずれの茂みに入り込み、道を歩きだした。
それは獣道かと思われるほど人跡の後が感じられなかった。少年の集落は他の村との交信がほとんど無いのであろうか、吉太は思った。この地は集落民が耕作をしている田畑の数倍の開墾が可能である。それに水が豊富であり馬掛庄のどの村より裕福な村が建設出来ると思った。思いながら吉太はいつもの習慣で紙縒を木々にくくりつけていった。およそ2時間ほど山肌を歩き茂み抜けると街道に出た。
後日、吉太がその集落に行こうと街道から紙縒を探したが見つからなかった。吉太が紙縒を木々にくくりつけているのを見た少年が紙縒を全て取り払ったからである。半年ほど過ぎた頃、吉太は少年と分かれた街道と思わしげな所へ来た。そこへ人が茂みをかき分ける物音がした。吉太は思わず物陰に隠れた。やがて2人が茂みから姿をあらわし下山していった。
吉太は二人が現れた茂みを探ると小道が小枝で隠してあった。吉太はその小道を用心して歩いたが道は1本ではなく分岐する地点が多くまさしく迷路であった。吉太は興味を持つと道を一本づつ分岐を一カ所づつ丹念に調べた。たどり着いたその先はあの集落があった。
吉太は少年が住んでいる家を確認するときびすを返し、もと来た小道で帰った。吉太は自宅へ帰り地図を取り出し、件の集落が領地内であるのを確認した。そのことを父の春日吉吾に報告した。早速、春日吉吾は吉太の案内で集落を検分した。その豊かな環境に春日は喜んだ。馬掛庄は山間に在るため田畑からの生産が低かった。しかし、この新しい土地を開墾することによって馬掛の生産は一気上がるのだ。春日は新道を整備すると共に新しく入植する領民を選んだ。
春日は従来からの住民と新しい住民との集落を馬掛新村と名付けた。従来からの住民には年貢を納めるよう布告した。江戸から戻った緒方彦左は集落の変貌に驚いた。戦国時代は終わり遁甲者を必要とする場面が無くなっている。彦左達はこのまま馬掛新村の住人として行くか、遁甲者を必要とする雇い主を探しそこでうがみ者となるか選択を迫られた。彦左は仲間を集め行く末を相談した。そして、全員はこのまま遁甲者として生きていくことを選んだ。 彦左達は寄り所となる雇い主を探しに江戸に出た。口入屋の軒先に釣るし札が出ていた。
「へすふむひゐゐれら」
一般人であれば何のことか分からないが、遁甲者であれば読めた。遁甲者の隠語である「いろは置き文字」で書かれていた。「とんこうもの(遁甲者)のそむ」と読める。
「いろは置き文字」とはいろはの一行をずらして置き換えて文章を書く暗号である。たとえば「きようははれ」で置き換えると「まけをろろた」となる。「いろは置き文字」は単一換字式暗号の一種であり、シンプルで広く知られた暗号の一つである。シーザー暗号とも云われ、古代ローマの将軍ガイウス・ユリウス・カエサルが使用したことからこの名称が付いたとされる。シーザー暗号は左に3文字分シフトさせたアルファベットを用いる暗号である。きわめて単純な暗号であるが、現代の暗号において重要な規則と鍵という2つの要素が含まれている。
彦左はその口入屋の釣るし札に興味を持つ。彦左は町人に変装し口入屋へ尋ねた。口入屋の番頭と会話をしながら吊るし札の詳細を知った。
口入れ屋の主人は戦国時に敦厚者を専門に戦国大将に紹介していたが、今は普通に口入れ屋をしているという。口入れ先が敦厚者を欲している。それで「へすふむひゐゐれら」と出したとのこと。口入れ先は恵那屋と分かり彦左は恵那屋を探索する。恵那屋が木曽川藩との関係が深いことに興味を持った。
彦左は武士の格好になり口入屋の番頭に「表の釣るし札を見た」と告げ自分は甲賀の流れを組む遁甲者と名乗る。番頭は釣るし札の意味が解る彦左を遁甲者と理解し、紹介状を書く。紹介状をもらうと恵那屋の主人大河内将兵衛に直接会うべく、恵那屋を尋ねる。
大河内将兵衛は彦左に会った。彦左の物腰振る舞いに将兵衛は共感をもった。好漢は好漢を知るということか。将兵衛は東北地方の国を調べるよう彦左に依頼し、当初の路銀として50両を渡した。その剛腹さに彦左は驚いた。左は了承し一党と共に東北地方へ出立した。1ヶ月ほどで彦左達十三人は恵那屋へ戻り報告した。その報告を見た将兵衛は的確な内容に満足した。その数日後将兵衛は彦左達を恵那屋へ呼び、奥邸へ案内した。奥邸は木曽川藩邸である。
将兵衛は商人の格好から武士の姿に変わり彦左達と会った。将兵衛は彦左達を木曽川藩調べ役に任ずると伝え、住まいは藩邸内に家族共々移住するよう言った。遁甲者は尋常の城主から見れば敵方の情報を探り、あるいは敵内にデマを流し、果ては敵方をの首領を暗殺するなど不可解な存在で妖魔のごとく扱かわれ人とは見なさなかった。その様な存在である自分らを調べ方とはいえ武士として雇ってくれるという。
彦左達はその言葉に落涙した。十三人は馬掛村へ帰り家族共々木曽川藩邸へ移住した。彦左は調方頭領として江戸恵那屋に多大の貢献をした。江戸恵那屋調方頭領である緒方彦左は数日前から恵那屋に修理で来ている二人の大工のうち一人を緒方と同じ遁甲者であると看破している。
彦左がその大工を注意深く観察していると裏口の閂と母屋の雨戸に仕掛けを施している。
彦左は将兵衛にそのことを告げると将兵衛は面白いと言いその男が忍んで来るのを待っていた次第である。
将兵衛は真田雪村公ゆかりの資料を収集している。これは木曽川藩主湊家忠が真田雪村に傾倒し信望しての行動である。その資料のなかに片仮名を羅列した書簡とき奇妙な刀が混じっていた。その書簡を見ているとき彦佐がそれは「いろは置き文字」ではないかと答えた。
将兵衛は彼から「いろは置き文字」を聞きそして解読した。書簡を全文読めた。書簡が解読出来ると敦厚者と思われる人物は恵那屋を辞した。書簡にて書かれた内容は上野流の奥義についてであった。
「情報を得たり時軽重を考慮すべからず 判断するは主なり
耳に聞いたと眼に見たもの鼻に嗅いだもの食しもの手に足に触りし五感じしもの全て持ち帰るべし
「感越」天候人心五感に感ずること全て情報也
天候による作付け、領民の心等五感に感ずることを子細無く集めるべし。
「身越」情報を持ち帰るに手一本足一本あれば事足りる也
医術に通じヤモリの如く身を切るべし
「山越」野に伏せ山に伏せ川に伏せすべし
野にある山にある川に食は在るなり
「体越」身は常人の如く在れされど常人より強く在れ
身を磨くは内筋を鍛えよ
「舞越」獲物は小柄刀を用い逃げるべし」
内容を要約すれば敵地を探るために気象状況、作物の出来具合、河川等の修復具合等々見るもの聞くもの全てを探索するよう指示してあり、情報を雇主へ報告する前に捕まった時は足手など切り落としてでも帰還するために何処をどの様切断すれば痛みが少なくなるか医術を知るよう、食糧が尽きたときは野山で食べられるものに通じること、体術へは通じても筋肉隆々の体には成らず如何にも常人に見られるように、そして武器は上野梅安考案の継立刀を使用するようにとの内容である。継立刀とは一見只の短棒に見えるが仕込み刀である。室内での刀争を考慮しての長さである。
大刀を室内で振り回すと長すぎて鴨居などが邪魔になり刀争がし難い。刀身と鞘は繋げる工夫があり繋げると短槍となる。そのまま棒術の獲物としても使用できる
将兵衛は坂下を見つめると、「真田殿は領地を奪われても大阪夏の陣に駆けつける軍資金を持っておられた。」
真田雪村は軍費を商いで捻出したのである。真田家は沼田を領有しているとき藩内で産出した漆を販売していたが、漆を原料にした工芸品を販売するようになった。真田家は廃藩され所領を失い、工芸品が産出出来なくなった。それで雪村は工芸品を仕入れてそれを売った。つまり雪村は商いを実施したことになる。しかし、雪村は商いで儲けるのが目的ではなく軍費の調達が目的であった。
そこが、商人と一線を画するところである。その点、木曽川藩も同様である。木曽川藩主湊家忠の祖父であり清洲藩難波倉屋敷の総代であった大河内各兵衛は米商人の言うがままの値段になる自藩生産の米の取引に業を煮やしていた。各兵衛は次男の誠兵衛を清洲藩籍を残したまま米商人として難波恵那屋を開店した。これによって清洲藩は他藩に比べ自藩生産の米の代価が良く藩財政が豊かになった。
木曽川藩と真田家の藩政が一致するところに木曽川藩主家忠は真田雪村に傾倒した。将兵衛は坂下に「殿は雪村殿に傾倒し雪村殿に縁ある書物等を集めるようになった。」と言う。木曽川藩主湊家忠は真田雪村関連の収集家である。
将兵衛は坂下に「お主上野流の使い手であろう。」坂下は将兵衛に上野流を継承している答えた。すると将兵衛は「我が藩に士官せぬか」と坂下に言った。自分の遁甲技を破るほどの術者がいる木曽川藩に興味を持ち「士官する」と答えた。
居住は藩邸内に移るよう言われ、「移る」と返答し長屋へ帰り引っ越しの準備に掛かった。その晩長屋の向かいに住んでいる松島藩浪人松井伝兵の娘菜都が坂下を訪ねてきて一晩しとねを共にしたいと言う。娘菜都とは会えば挨拶を交わす程度であった。が、何時しかお互いに相手を思うようなっていた。
坂下は菜都を好いてはいたが突然の訪問にそれもしとねを共にしたいとの言に坂下は娘に訳を問いただした。菜都は父親と牛尾との顛末を坂下に話した。坂下はすぐさま松井伝兵に会い詳しく有様を聞いた。
伝兵は「牛尾と会った数日後荻窪の木曽川藩邸を尋ねたが門の表札が変わっており、その時会った侍は居なかった。月が変わったとき、銭屋から返済の期限が来たと催促が来た。証文を見てみると最初の一ヶ月の利子は安かったが2ヶ月目からは一桁利子が上がっていた。松井が自分の証文を確認すると利子が上がる由の追記が記載されていた。松井が銭屋と証文を交わしたとき牛尾が確認をした、その時追記が書かれたようだ。」「銭屋はすぐ金を返せと言ってくる。返せなければ娘菜都を苦界に落とせと言ってくる。菜都は父の苦悩を思い図り苦界へ行くといった。」と松井は坂下に述べた。
騙されたのであれば逃げれば良いのである。坂下はこの実直すぎる武士に亡き大叔父を思い浮かべた。坂下は父母の思い出は淡い。祖父が海野の襲撃で他界し父は大叔父に引き取られ成人した。しかし、その父も若く他界し坂下を育てたのは大叔父である。
このとき坂下の菜都に対する思いが絶頂に達した。
坂下は手を突くと「菜都殿は私の思い人です。先日士官が成りました。菜都殿を嫁に頂きたい」。松井は坂下の申し込みは嬉しかったが、借金のことで難色を示した。そのことについては藩屋敷で相談すると言って松井を説得した。坂下は松井親子に自分についてくるよう言い長屋を出た。一行は恵那屋に着くと坂下は番頭に何か言い、坂下は松井親子と共に店の中へ入った。松井は将兵衛に会い「木曽川藩が藩士を募っており士官しようとしたがその話は出鱈目であった」と話した。
将兵衛は話を聞き終えると仁王の如く、阿修羅の如く顔面に怒気を帯び手が体が震え絞り出す声で「おのれ、我が藩を貶める輩め、如何に成敗してくれようぞ」と呻いた。彦左を呼び牛尾達の動向を調べるよう言った。
将兵衛は松井に向かうと我が藩へ士官せぬかと問うた。松井は今居る場所を恵那屋の奥座敷と思っており、将兵衛の風貌を見ればお店のご隠居然としていたため、恵那屋を只の商人と思った。松井は将兵衛から木曽川藩と恵那屋の関係を聞き、木曽川藩へ世話になることとなった。将兵衛は「破落戸き共に菜都殿をかどかわされてはならぬから藩邸内で起居するよう」にと告げた。さて、彦左は牛尾達の探索に掛かった
廻船八木屋の主人八木大蔵は長州水軍の寄騎であった。長州水軍が解体(1600年)したとき、八木は持船であった早船1艘を回船に切り替え回船業を始めた。戦国時代も終わり、国内の移送は盛況となり、八木は船を5艘まで増やした。そのとき従って来た朗党は船頭となった。八木の兵担を担っていた小十郎は番頭として八木屋を切り回していた。八木屋が5艘目の船を揃えたとき八木大蔵が倒れ寝たきりとなった。それでも小十郎は八木に仕え八木屋を守った。
そんな時八木の息子と称する男が現れた。いかにも破落戸然とした男であり八木蔵人と名乗った。小十郎は八木には蔵人と名付けた息子がいたと聞いていた。蔵人という男は八木からもらった息子の証となる書き付けを持っており、八木は蔵人を名乗る男と会うと八木屋を男に譲ると言った。男には8才になる蔵八という息子がいた。
蔵人が八木屋の主人となってから八木屋は発展しなかった。蔵人なる男の散財が激しいのである。それでも小十郎は八木屋を守った。蔵人なる男は偽者である。偽物は武州うまれの無法者作吉という。本物の蔵人は八木が静岡港で知り合った女に生ませた。八木は女に幾ばくかの金と書き付けを渡した。八木はその後静岡の女とは疎遠となった。男子なら蔵人、女子なら良と名付ける内容であった。
本物の蔵人は飴売りとなって宿場宿場を渡り歩いていた。旅先で知り合った作吉と同道の旅をしていた。八木のことを作吉に言った晩に寝込みを襲われ殺害され書き付けを奪われた。作吉は八木のことを知っていた。作吉は蔵人になりすまし八木屋を乗っ取ったのである。
十八才になった蔵八も破落戸である。蔵八は旗本遠藤下屋敷に賭場を開き股者を名乗り銭屋の借金の取り立て屋もやった。ある日表通りを歩いていた菜都に目を付けた蔵八は菜都の後をつけ、元松島藩士松井の娘と探った。蔵八の賭場に元松島藩士牛尾がいた。牛尾は蔵八に賭場の借金があった。蔵八は牛尾に松井の娘菜都のことを聞いた。牛尾は松井の娘の他に2人の元松島藩士の娘も知っていると言い、すべてお任せあれと蔵八に言った。
牛尾は賭場の会場である旗本遠藤の下屋敷を木曽川藩江戸屋敷に仕立てあげ松井、田頭、小山を騙し彼らの娘を苦界へ貶めようと企んだ。松井、田頭、小山は松島藩の勘定方であった。いずれの娘も美形であり松島3小町とはやされた。牛尾は勘定方の小物であったとき役所の小金をくすね、それがばれて放追された。牛尾とは組が違うためそのことを松井、田頭、小山は知らなかった。
旗本遠藤の下屋敷番当を木曽川藩上司に仕立て上げ銭屋で松井に借金させて士官を斡旋すると吹聴した。まんまと牛尾の口車に3人は乗ってしまい、娘を手放す羽目となった。
蔵八は菜都に執着した。こ奴は根っからの悪党である。菜都を苦界に売り飛ばし、置屋で菜都をなぶるつもりであった。田頭春、小山吾紀が置屋に売られた。彦左は牛尾を捕まえ調べるうちに娘達が売られたことを知った。彦左達調方は置屋へ押し入り春・吾紀を助けだし恵那屋へ保護した。
彦左の配下が田頭・小山の住居へ行った。田頭・小山は両人とも切腹をする寸前であった。牛尾に騙されたこと、娘を助け出したことを両人に説明した。両人は怒るとともに安堵した。彦左の配下は両人を恵那屋に案内し松井とともに2人は木曽川藩へ士官した。彦左は八木屋の主人蔵人が偽物であり牛尾、銭屋の一部始終の有様を将兵衛に報告した。将兵衛は彼らを成敗することにした。
将兵衛は八木屋番頭小十郎を恵那屋へ招き、蔵人が偽物であり旧松島藩士の娘達を拐かした顛末を話し偽蔵人達を成敗することを告げた。小十郎は将兵衛の話しに驚いたものの万事お任せしますと恵那屋を辞した。
彦左党は遁甲者でありそれぞれが得意技を持っている。まず偽蔵人の筆跡で金銭借用書を作成した。次に銭屋の偽実印鑑を作り銭屋の金貸し免許を恵那屋に売る譲渡書を作成した。彦左達は八木屋へは番頭小十郎の手引きで入り込んだ。偽蔵人・蔵八が寝入ったのを見計らってシビレ薬を炊き両人が身動きできないのを確認すると、偽蔵人・蔵八の両手に朱を塗り付け借用書に手形を鮮やかに押した。蔵八が恵那屋に多額の借金をし保証人が偽蔵人という文言である。
それから数日後、八木屋へ町役人が乗り込み偽蔵人・蔵八を捕らえた。借金返済の期日が過ぎても一向に返済が無いと恵那屋将兵衛が偽蔵人・蔵八を役所に訴えたのである。偽蔵人・蔵八はそんな借金は身に覚えがないと訴えたが、偽蔵人・蔵八の筆跡で手形まで押してある証文を見て両人は何が何だか分からないまま獄につながれた。判決は八木屋及び持ち舟は恵那屋に弁済することとなった。江戸恵那屋は回船八木屋と銭屋を手にした。牛尾と銭屋は人足場へ送られた。もとより体力が無い二人は幾日も持たず頓死した。八木屋は小十郎が総頭となり木曽川藩所属となった。店舗が増えた江戸木曽川藩邸では松井・田頭・小山は大いに役に立った。坂下と菜都は祝言を上げた。
第二章第三節.木曽川の赤備
坂下は藩主家忠に木曽川へ来るよう命をうけ菜都と一緒に木曽川へ出立する。木曽川藩の所領は木曽川支流丸川を挟んで両岸にあり、西側を進地、東川を千形という。
木曽川藩領になる前は近江香下藩八万石の飛び領で進地、千形の石高は併せて五千石ほどの取れ高であるが、湿地を開拓すれば2倍の1万石になる土地である。香下藩に遠隔地にある領地の開拓をする余力も気力も無かった。
香下藩の本領は琵琶湖北側湖畔にある。本領を流れる黒川は琵琶湖畔にある多々良山の麓で二筋に分かれて琵琶湖に流れ込む。多々良山は山半分が琵琶湖へ突き出た岬となっている。多々良山の両湖岸が香下藩領で西側が吉村、東側を位津という。黒川が多々良山梺で分流する上流両域は清洲藩の飛び領得田である。地図で見ると吉村、多々良山、位津はつながって見えるが、実際は多々良山で吉村、位津は分断されている。得田の石高は四千五百石である。香下藩の希望は得田と進地・千形の交換である。得田を香下藩領とすれば吉村・位津がつながり黒川の水利権も独占できる。
徳川忠吉が関ヶ原の合戦の報償として清洲藩五十万石を拝領したとき、近江得田四千五百石も併せて拝領した。近江得田は大阪倉屋敷総代大河内各兵衛の管理となり次男の誠兵衛が代官となって治めた。誠兵衛は得田に漆を植え漆器を栄えさせる。誠兵衛は漆器を清洲藩へ納入するため名護屋へ各兵衛の末娘で妹である由良を伴って来た。
誠兵衛は清洲藩の士籍をもつ難波恵那屋の店主でもある。恵那屋は大阪倉屋敷総代であった大河内各兵衛が次男誠兵衛に米問屋の免許を取得させて開いた店である。
各兵衛は米商人に自藩で生産した米を買い叩かれるのに憤りを感じた。大河内各兵衛の祖父は伊井家の家臣で有り堺の商人でもあった。祖父のことを思い大河内各兵衛はならば己が米商人になれば良いと考え誠兵衛に恵那屋を開かせ、飛び領地得田の管理も任せた。さらに清洲藩産の米を大阪へ運ぶ手間を省くため大阪にあった倉屋敷を廃し名護屋へ持ってきていた。さて、難波恵那屋誠兵衛が得田の特産品漆器を本藩に納入に清洲藩へ来ていた。誠兵衛が登城する前に藩主忠吉が倉屋敷へお忍びで来た。倉屋敷では大河内各兵衛がまだ采配をしており各兵衛と誠兵衛が同席しているところへ忠吉が現れた。各兵衛と誠兵衛へ礼を言いに来たのである。自藩の米が他藩より高く取引されていることにである。
その席に由良がお茶を持って現れる。忠吉は由良に一目惚れした。
忠吉の正妻政子は梅貞大童子の出産後に体調が悪くなって病没した。梅貞大童子が成人し家吉と名乗る今も忠吉は独り身を通した。妻の父伊井への義理を通した結果である。関ヶ原の合戦の時、忠吉の義父井伊のおかげで戦功をあげ清洲藩を拝領する。家吉は元服からさらに成長し、藩の運営を任しても良いと考え名護屋城を築城し嫡男家吉を住まわせる。忠吉自身は清洲城に居住していた。正妻政子への義理も果たしたと忠吉は由良を側室に迎えた。程なく由良は懐妊し家忠を生んだ。忠吉41才、由良17才の時である
忠吉は次男家忠を溺愛し大名にしたかった。せめて支藩の藩主にと考え、忠吉は家忠を支藩主にするため兄秀忠の政治形態を模倣する。兄秀忠は嫡男の家光に家督を譲ったかに見えたが2元政治を行った。兄秀忠は大御所と称し御簾内で政治力を保った。大御所制度は家康が考案実施し、兄秀忠はそれを踏襲する。
忠吉は大御所に代わる称号を大館と称し家忠のため2元政治を行った。飛び領地であった琵琶湖得田領四千五百石と支藩への捨て扶持五千五百石を自分の扶持から回し1万石とした。大河内誠兵衛を支藩家老とした。
香下藩領進地・千形と琵琶湖得田の領地交換の沙汰が幕府からあった。香下藩が幕府に願い出て受理されたのだ。その報を聞いた誠兵衛は忠吉に目通ると「進地・千形は現在五千五百石の領地であるが開拓をすれば1万石の領地になります。開拓費用は恵那屋から十分手当できます。進地・千形の地を支藩の領地にしてほしい」大舘忠吉に願い出た。
忠吉にしても大館として支藩に捨て扶持をいつまでも回せない。忠吉は大館を返上し長男家吉(梅貞大童子)に清洲藩の全ての藩政を渡すから、進地・千形を支藩の領地に認めてほしいと嘆願し家吉は了承した。
木曽川藩は由良の子家忠を藩祖とする支藩となる。進地にあった香下藩庁は二階建ての陣屋であったが木曽川藩陣屋として使用した。全ての清州藩の藩政を掌中にした家吉(梅貞大童子)は名護屋城を中心とし、清洲藩を名護屋藩と改称した。木曽川藩の家老となった次男誠兵衛は三男将兵衛がいる江戸恵那屋を通じて関東平野の河川沼などを開拓した専門家後藤を木曽川へ招聘した。進地・千形の開拓は10数年の期間が必要と思われたが、後藤の働きで6年で完了した。ここに木曽川藩1万石の大名が誕生した。
この大工事で恵那屋の財産は底を突いた。大河内各兵衛は江戸・大阪恵那屋の強化を計った。新規に出来た木曽川藩属の家来の大方の人員は大阪で雇った。戦闘用員は名護屋藩より寄騎にて必要数借り受け木曽川藩は完成した。
家忠7才となる。名護屋藩家老松藤の領地隣に千形があった。松藤の領地はほかにもあった。木曽川・長柄川・揖斐川三川が合流する中州の領地度山洲四千五百石がそうである。度山洲は三ケ川の度々の氾濫で収穫料が四千五百石に満たなかった。木曽川藩は名古屋藩の支藩であるから度山洲と千形の交換も可能に違いないと松藤は思い名古屋藩主家吉(梅貞大童子)に交換を願い出た。それをあっさりと家吉は了承した。
木曽川藩家老大河内誠兵衛は名護屋藩主家吉(梅貞大童子)に呼ばれ度山洲と千形の領地交換を言い渡され誠兵衛は耳を疑った。度山洲は西方からの攻撃に対して名護屋藩にとっては防御の要害地である。それを簡単に他者に手放すとは思えなかった。忠吉が53才で逝去して3年が立ち家吉(梅貞大童子)は39才、家忠は15才となった。
武士であれば度山洲が名護屋にとって要害の地であることは分かるはずである。それを千形が美田とはいえ度山洲との交換とはと誠兵衛は苦笑した。度山洲が度々洪水に見舞われていることは誠兵衛は知っていた。堤のかさ上げ工事をすれば良いのである。松藤はそれをせず、美田の交換に執着した。その松藤の愚かな行為以来名護屋藩の防御は木曽川藩に頼らざる終えないこととなる。
さて、家吉(梅貞大童子)から木曽川・長柄川・揖斐川が合流している度山洲と千形の交換を申し渡されたとき誠兵衛は「洪水地と美田の交換ですか」と難色を示した。そこで「条件があれば聞ける範囲で聞こう」と家吉は誠兵衛に言った。誠兵衛は度山島と進地島をつなげるためその間の中州全てを譲り受けたいと言った。その中州は居住不可能地である。その条件は難なく聞き入れられた。松藤は度山洲と千形の領民の入れ替えをも願い出ていた。千形の領民は松藤領民と揉めていた。ことはたわいない出来事であったはずであるがその原因も分からないほど険悪になった。それは一部の領民同士である。入れ替えするほどでも無かった。しかし、総入れ替えは実施された。木曽川藩として良い結果がでた。堤のかさ上げ工事が順調に進んだ。千形の領民は開拓に慣れた土木工事の熟練作業員であったから。
木曽川・長柄川・揖斐川が合流する地点に度山丘はあった。標高は30mほどの頂部分が平らな小山である。度重なる洪水にも残っているのも山全体が岩石から成っているからである。ここに家忠は築城した。伯父誠兵衛からの進言もあった。木曽川藩の出資は恵那屋である。誠兵衛が家老になり、藩の土木工事の財源は全て恵那屋にあった。今も土木工事を行っている。
度山丘の築城と度山洲の堤工事である。山も度山丘と言い、中州も度山洲と言う。度山丘は築城され丘では無くなったので以後は度山城と言うことにする。
家忠は経済的藩主と云え、真田雪村に傾倒していた。度山丘自体が岩山であるので四角い城郭にはできなかった。度山城は真田丸そっくりな城郭になった。それが家忠には自慢である。それをみた松藤は嫉妬した。松藤は木曽川藩へ寄奇した名護屋藩士の引き上げを家吉に進言した。木曽川藩は戦闘要員がいなくなった。
江戸恵那屋での偽藩士募集事件の顛末は家忠に報告されていた。報告にあった坂下に興味を持った家忠は坂下を木曽川に呼んだ。坂下は妻菜都を伴い木曽川へ到着したと藩庁へ報告した。木曽川藩では坂下に新居を用意していた。新居に案内され菜都とともに落ち着いた。翌日藩庁に登庁した坂下は藩主に会い木曽川の実状を聞いた。「本藩名護屋藩からの寄騎の返還で我藩は戦士が居なくなった、それで木曽川としては自前の戦士を坂下の出身地である多ノ郷から募集したい。自分は真田雪村殿を尊敬している。不遜ながら真田の赤備えを譲り受けたい」と坂下に言った。
誠兵衛は彦左党に多ノ郷の実状を探索させていた。多ノ郷・中田之莊は他の村より代官の旧家臣への扱いがひどかった。それは代官角田が主人である遠藤安国と共に秀忠に従って関ヶ原へ向かう途中に真田攻めを行った。そのときに真田に角田遠藤共手痛い目にあっていた。その遺恨があるため角田が多ノ郷・中田之莊での旧真田家臣に対する処置は他の旧真田領の新領主よりも酷く扱った。
角田は多ノ郷・中田之莊へ赴任してきたとき、江戸にて剣の腕の立つ浪人を数十人雇って来た。徳川家康が天下を取り江戸幕府が成立した。幕府政策のもと大名の領地の鉢植え政策で取りつぶされる藩も多数あり藩を離れた武士は禄を失った。また、戦国時代も終わり世は平和となり、戦士の必要も無くなり江戸には浪人と言われる武士があふれた。たとえ、それが旗本の領地で遠隔の地であろうと戦闘員を持つ必要は無かった。士官することが出来ればたとえその地が蝦夷でも良いと思う者もあろう。
代官角田は旧真田藩士へ現在の住まいを自身が連れてきた浪人に明け渡すよう布告した。さらに、旧真田藩士の身分を武士から郷士に落とし、郷士を名乗れるのも1代限りとし次の世代は農民にするとした。
旧真田藩士堀田七兵は長年住み慣れた屋敷を退去し、わずかな田畑が与えられた。多ノ郷・中田之莊が旗本遠藤の所領となって5年過ぎた年に大阪夏の陣が起きた。このとき旧真田領から真田雪村のもとへ53人が出奔した。多ノ郷・中田之莊からは13才になる芳田香三郎が参加している。芳田は堀田の親戚になる。
堀田七兵には5人の息子がいた。七兵は遠藤がふれを出す前に家を継いだため父親から郷士の身分を引き継いだ。七兵自身は郷士の身分であるが息子達は農民の身分となる。七兵は息子達には武術を教え込んだ。長男の和郎は今年32才になる。嫁を娶り子供もいる。七兵のわずかな田畑を引き継ぐことになる。次男彦兵から4人は小作人になるしかなかった。
多ノ郷・中田之莊の実状を知った坂下はすぐにでも多ノ郷・中田之莊へ出かける由を藩主家忠へ申し出る。
家忠は坂下へ多ノ郷・中田之莊で武士と合わせて上野流の遁甲者も連れてくるよう言い、一時金として一人当たり十両を用意すると士官の条件を言った。堀田和郎と坂下は従兄弟になる。堀田七兵の妹が坂下の母である。多ノ郷へ着いた坂下は叔父七兵を訪ねた。久しぶりの甥の訪問に七兵は大いに歓迎した。甥坂下の目的を七兵は聞き問いただした。我が息子は5人いる。いずれも剣術は仕込んである。5人とも士官できるのかと。坂下の返答は明快であった。
条件は元真田藩士またはその子であること。嫁は娶っていること。共周りを用意すること。家屋敷・武器武具・馬はこちら用意してあること。家族は全員連れて来ることを。それを聞いた七兵は咽び泣いた。息子達5人が武士になれる。その喜びに坂下を中心に七兵、七兵の息子達5人は飲み明かした。長男和郎、次男彦兵は嫁を娶っていた。問題は三男四男五男の嫁探しである。士官出来るとはいえ木曽川という遠方の地である。娘がいる所へ「木曽川に行きますから娘を嫁にください」と言っても「はい、どうぞ」など簡単に返答もなく嫁取りもなかなか出来ないであろう。
堀田の親戚に飯島と言う者が居り娘が3人いるが、元真田藩士ではない。木曽川藩の募集要項から外れる。飯島に坂下の話をし、七兵の息子3人と飯島の娘3人を娶せ息子のうち1人を飯島の婿養子にするからどうかと。真田と海野が中田之荘を巡って争い、武田の仲裁で海野が中田之荘を手にした時、飯島は海野の与力となる。その後、中田之荘が真田に戻ったとき飯島は海野の与力を辞し、以後真田には敵対しないが誰の与力ともなっていない。角野が中田之荘の支配者となったとき飯島は屋敷・田畑を取り上げられ士籍も剥奪された。今回の木曽川募集対象にはなれない。七兵の息子が飯島の婿養子となれば、飯島は家族の一員として木曽川で武士となれる。飯田は了承し咽び泣いた。
瞬くまに50人が決まり募集を打ち切った。本藩名護屋藩へ帰った寄力は50人である。多ノ郷・中田之莊では連日結婚式がとりおこなわれた。 この事態に代官角田は傍観していた。代官角田はむしろ元真田関係者が多ノ郷・中田之莊を出ていってくれることを歓迎した。元真田藩士は代官角田にとっては厄災のもとであったから。上野流遁甲者8人、赤備武士50人を揃えた坂下は度山洲の自宅へ帰った。度山城下は移転してくる家族でごったかえしていた。坂下は藩主家忠へ報告した。藩主家忠は坂下の労苦をいたわった。藩主はさらに200人連れて来いと言った。
大名は1万石に付き家臣の構成が決められている。騎乗武士(上士)10人、徒走武士16人、槍旗持ち鉄砲足軽200人計226人と定めてある。現在、木曽川に来た武士は50人で全て騎乗武士でありお目見えであり上士である。50人の騎乗武士は5万石の大名に相当する。それでも1万石の大名としては大兵力である。250人の騎乗武士は25万石大名に相当となる。共回りを入れても莫大な支出となる。坂下は藩主家忠の注文に仰け反った。
家忠は「はっはっはっ」と笑うと「心配無い、我が藩は真田雪村殿に習って商いを藩の財源としておる。表高は1万石であるが実高は30万石相当はある」さらに「はっはっはっ」と笑った。
坂下は従兄弟の和郎・彦兵・三男・四男・五男を使い数年かけて198人を集めた。多ノ郷・中田之莊からの出身者がほとんどであった。ここに木曽川の赤備え軍団が揃った。
多ノ郷・中田之莊は角田の布告で旧家臣は郷士となり、その跡継ぎは郷士を相続出来ず扱いは農民となる布告が出た。芳田香三郎は芳田家の家督を相続したが郷士では無く農民となる家督である。そんな折り大阪で豊臣方に味方する真田雪村に従うという五十数名の一団が起こった。香三郎は父に真田様に尽力したいため大阪へ行きたいと申し出た。父芳田仁左衛門は香三郎の将来と真田への恩顧を考え了承した。
真田雪村は53人と少ない応援であったが、それでもありがたく思う。特に前髪が取れたばかりのあどけなさが残る香三郎を雪村は可愛がった。冬の陣では真田丸を構築し徳川軍と戦った。戦いは集結したが和睦は豊臣側には不利な条件だった。真田丸は取り壊され次の合戦が始まれば豊臣に勝ち目は無いと雪村は思っていた。雪村は香三郎にあらゆることを教えた。兵の運用方法、兵担のこと、さらに鉄砲の撃ち方等々を教え込んだ。短い間ではあったが、香三郎にとっては一生分の教養を得る時間であった。
徳川と豊臣が再戦した冬の陣で鉄砲の乱戦の最中であった。香三郎が放つ鉄砲が暴発する。目の前で閃光が光った瞬間暗闇になった。香三郎がうめき声で唸ったが、戦闘の喧噪のなか誰も気づかなかった。香三郎は手探りで後方へ下がった。その様子をおかしく思った雪村は香三郎を見ると、顔が血だらけで目が見えないようである。香三郎を介抱するよう介護の者へ言うと前線の指揮へ戻っていった。
夜半になり香三郎の様態も落ち着いて来、目もわずかではあるが見えるようになった。雪村が豊臣方についたとき、雪村を応援する者が居た。真田家は米のほか、工芸品として漆器を作っていた。それを扱っていたのが、難波恵那屋である。難波恵那屋を采配していたのが、大河内誠兵衛である。誠兵衛は商人ではあり清洲藩籍の藩士である。雪村が九度山にて蟄居しているとき雪村の面倒をみた。雪村と誠兵衛は感嘆相見るなかである。雪村は誠兵衛から幾人かの遁甲者を預かっている。その遁甲者達は時期を見て誠兵衛に返すつもりであった。
雪村はその遁甲者達に誠兵衛の元へ帰るよう言い、香三郎を誠兵衛の所で預かってもらいたいと伝言した。遁甲者たちは大阪城から徳川方の間を意図も簡単に行き来している。香三郎を連れて徳川軍を抜けるのに何の障害も無かった。恵那屋の紹介で目に良いと言われる温泉で療養し、近在の寺で起居した。雪村は徳川軍に特攻をかけ果てたと聞いたとき香三郎は慟哭した。温泉で療養したが、うっすらと景色が見えるが人を判別できるまでは視力の回復が得られなかった。
香三郎は雪村を供養しながら寺で過ごした。十年ほど過ぎた頃香三郎の視力が回復した。香三郎は寺から出ることを決意し住職に告げ、寺を後にした。さらに十年ほど流浪の生活を続けるが、雪村から受けた知識を披露して糊口を凌いだ。
寺に居たときは住職から学問を受け教養はあった。しかし、雪村から手ほどきを受けたと言えば地方の権力者は拝聴を願った。あるとき寄った地方の権力者の度重なる誘いを受け、一時身を寄せたが家来の重度の嫉妬に合ったためその権力者からは1年ほど居ただけで辞した。名護屋藩を西へ過ぎた所に地方の有力者と思える陣屋があった。
玄関脇に座していた林に名刺を渡し、御主人様にお取り次ぎ願いますと告げた。林は香三郎の名刺を受け取り見ることもなく投げ捨てた。「ここはお前のような乞食風情が来るような所ではないわ」と言い捨てると奥へ入っていった。確かに香三郎は旅塵にまみれていた。長旅をすれば汚れる程度の具合を見て、乞食扱いとはと呆れながら罵倒した林を見てこの陣屋の主人の力量を推し量った。林は名護屋藩家老松藤の家来であった。香三郎が木曽川藩進地陣屋へ寄ったときは大河内誠兵衛と名護屋藩家老松藤と新開拓地の取り合いの会合であり、林は松藤家老に付き従い陣屋へ来たが、玄関ではただ屯っていただけで取り次ぎなどの役目には関係ない。
度山と千形の領地交換したころ千形の住民が千形の先にある湿地を千形を開拓した経験を生かし民間開拓を実施していた。住民は開拓した土地を新千形と称していた。実際、度山と千形を交換した地図に新千形は記載されていない。名護屋藩家老松藤の言い分は新千形は千形の延長にある。延長線にあるから千形に属する、つまり松藤の領地となると言う言い分である。地勢的に松藤の言い分に理があった。
開拓した土地は開拓した住民の持ちものになり永代に権利を保証することで落ち着いた。地名は新千形から千形崎となった。明示に入り廃藩置県が実施され木曽川藩は木曽川県となった。千形崎は木曽川藩の倒幕の貢献により木曽川県に編入された。政府は3年後数多くあった県を4府78県に整理した。そのとき木曽川県は名護屋府に編入され、千形崎は木曽川郡千形崎町となった。
木曽川市と千形崎町に分けられたのは、両地をつなぐ橋が無いという理由である。木曽川市が橋の建築計画を国に提出すると、計画の場所が河口とあるとの理由で却下された。千形を地盤とする議員が必死になって橋の計画を妨害したのである。誠兵衛と松藤の調停後に、千形の住民が千形崎を差別する風習が起きた。領地交換前に松藤領民と千形の領民が揉めていた。その揉めていた松藤領民が千形に移住し、千形崎の住民を松藤領民が差別するようになったのである。それは明治になってからも継続した。千形崎が千形崎町となっても千形の住民から差別された。
千形と千形崎町の間に運河があったが、それは千形の有力者が所有していた。その運河に橋が1本架けられている。千形の住民は無料で使用できたが、千形崎町からその橋を使用するのは有料である。木曽川市と千形崎町との間には渡し船が往復している。木曽川市の財政は木曽川財閥が木曽川市に本拠をおいているため裕福である。つまりは国より割り当ての地方税の支給は受けていなかった。千形崎町は町債を発行し、それを全額木曽川市が受けていた。木曽川市は千形崎町を手厚く扱っていた。
赤字財政の名護屋市千形区とは住民の行政サービスは雲泥の差があった。千形崎町の住民は千形の差別には歯牙にもかけなかった。それも現代の差別の助長にもなったようである。
松藤家来林に木曽川を追い払われた香三郎は名護屋から船に乗り江戸へ向かった。江戸にはしばらく居たが、故郷の多ノ郷・中田之莊へ帰った。多ノ郷・中田之莊には従兄弟の七兵が居り彼をを訪ねたが居なかった。顔見知りの人々も居なかった。名護屋の度山というところに殆どが移住したとの事を聞いた。香三郎は度山にいる七兵に「大同峠で会おう」と手紙を出し旅に出た。
多ノ郷・中田之莊から旧真田家臣が木曽川藩へ多数やってきた。藩主家忠は木曽川赤備軍団ができたと喜んだが、誰を侍大将にすべきか迷っていた。誠兵衛は坂下から香三郎が生きており諸国を巡っていると聞き、家忠と誠兵衛の意見は一致した。侍大将は香三郎以外適任者は居ないと。そして、八方手を尽くし香三郎を探した。
香三郎から手紙を受け取った七兵は香三郎を思い誠兵衛へ従兄弟の香三郎を是非雇って欲しいと推挙した。それを聞いた誠兵衛は耳を疑った。「木曽川藩として香三郎殿を侍大将として招聘するつもりで八方手を尽くして捜している」と七兵に言った。
七兵はそれを聞くや急ぎ大同峠へ出立し大同峠で香三郎と落ち合った。木曽川藩に多数の旧真田家臣が士官していることを香三郎は知っていた。「その侍大将に香三郎を据えたい」と藩主が願っていることを聞いた香三郎は喜び木曽川藩へ行くことを決心した。度山洲へ到着し度山城を見た香三郎は我が目を疑った。そこには真田丸が正にあったのである。香三郎は地面に突っ伏すと顔をあげ、雪村との思い出が目頭を脳裏を駈け巡り香三郎の顔は涙でグシャグシャになった。
藩主家忠は香三郎が来るのを待ちきれず城外に迎えにでた。行くと七兵と一緒にいる壮年の武士がおりすぐに香三郎と分かった。香三郎が泣いているのを見た家忠は香三郎の手を取るとつられて泣いた。七兵も泣き出した。三人はおいおいと泣いたが、お互いの顔を見て笑いだした。周りを囲んだ家来衆はその光景を微笑ましく包んだ。
度山城で改めて家忠と香三郎は会見した。香三郎は木曽川赤備侍大将に懇願され了承した。家忠は年若い女性を紹介した。家老誠兵衛の娘お陽である。各兵衛の娘由良が忠吉の側室となって家忠が生まれた。家忠とお陽は従妹となるが、香三郎にお陽を嫁に如何かと聞いた。自分のような者を親戚にするという藩主に香三郎は感謝した。ここに木曽川3名家ができた湊、大河内、芳田である。
後日談であるが、誠兵衛と一緒に進地陣屋を見た香三郎はいやな顔をした。訳を聞き誠兵衛は記録から当日の当番を呼び出し問いただした。当番だった者は記録を見て、当日の訪問者は名護屋藩家老松藤であるが林が随行していたと記録にあった。林の似顔絵を作り、香三郎に見せると正にこの者であると示した。誠兵衛は松藤を呼びつけると似顔絵を示し「どのような了見でそこもとの家臣林は我が藩の重要な訪問客を追い返したのか」と誠兵衛は松藤を問いつめた。誠兵衛は松藤の日頃の行いをあげつらい「だから、そこもとの林もそのような振る舞いをするのである」等々。およそ半日松藤は針のむしろに座っていた。
誠兵衛はよほど松藤に腹を据えかねていたので在ろうと思えるほどの糾弾であった。誠兵衛は支藩の家老であるが、本藩の勘定方の家老でもあり序列から誠兵衛のほうが松藤より上席である。
屋敷に帰った松藤はあの林を呼びつけた。呼びつけられた林はお褒めの言葉でも貰えるものと思いながら手を揉みながら参上した。林が頭を伏せていると「頭を上げい」と松藤に言われ、頭を上げた瞬間顔面に痛みを感じ卒倒した。
松藤は林が頭を上げた時、足で顔を蹴りあげた。林はもんどりうって廊下から軒先へ転げ落ちた。松藤は家来に林を身ぐるみ剥いで河原へ捨てて来いと命令した。捨てられた林は乞食の頭領に拾われ最後まできき使われたそうである。
幕末、張州に軍事の天才と噂される人物が現れた。村井造六といい張州富出の村医者の家に生まれた。造六の父村井は大阪的塾の講師安藤と懇意で有る。造六の祖父は張州藩の殿医であった、同僚の殿医が不正を働いたが無関係の村井を巻き込む。その時の裁きで村井家は富出へ追放となり、富出で医院を開業した。安藤の家系も張州の殿医で村井家と安藤家は懇意である。その安藤の伝手で造六は大阪的塾へ入学出来た。安藤塾を卒業した造六は幕府に招聘され戦事方の選任として従事した。その造六が幕府に雇われたと知った安藤家は何とか張州へ造六を取り戻すべく藩政府へ働きかけたが、藩高官は「所詮、田舎医者風情に何が出来るか」と無視された。安藤は革新派である小五郎に相談し造六を張州へ引き戻そうした。村井家は既に御目見以下であり雑兵扱いである。小五郎は造六の身分を苦肉の策として「預かり」扱いとして藩の指揮官に取り立てた。「預かり」とは優秀な人材の身分が低いとき、引き上げるための方便として自家の養子扱いとして処遇する制度である。村井造六は倒幕軍の指揮官として長良川・揖斐川・木曽川河川西側に立ち度山城を数時間眺めていた。「あの城が味方で良かった」と近習に聞こえるか聞こえぬかのように一言喋った。造六は度山城を攻めるべき作戦を頭で立てており、後の言葉は誰にも聞こえなかった。「あの城が敵方であったなら、この先をこの勢力での進軍は不可能である」と。倒幕軍は最新式武器で幕府軍を追い詰めていった。倒幕軍の武器は恵那屋からの供給が殆どで有る。木曽川藩は藩祖の時代から天皇を敬う風習があり、水戸藩監修の大日本史に影響を与えた。恵那屋は幕末期にイギリス、フランス、オランダ等の貿易商を相手に商売をし、最新式の武器を揃え、その武器を倒幕軍に渡していた。
第二章第四節.自動車事業
芳田姓は湊、大河内と共に木曽川三家の一家である。皇族宮家の一つに芳田宮家がある。中部鎮台宮務省の役人池田剛は木曽川に生まれた。池田剛の父は木曽川藩商人恵那屋の手代であった。池田剛は幕末期に木曽川に立ち寄った長州志士斉藤高雄と知り合った。その当時、長州は朝敵となっていた。長州志士は京より追われ、斉藤高雄は京より浜松へ向かう途中のことだった。斉藤高雄の行動は夜間に行動し、昼間は茂みなどに潜む毎日であったため、体がかなり弱っていた。ついに池田家の前で行き倒れた。
池田剛は斉藤高雄がただならぬ人物であると直感した。親身に斉藤高雄を看病し、滋養をあたえた。恩を感じた斉藤高雄は自分の身分を剛に話した。木曽川藩は長州を哀れと感じていた。池田剛はそれをよしとし、斉藤高雄が回復するまで面倒をみた。いよいよ斉藤高雄が浜松まで出立するとき、池田剛は自分の親戚として恵那屋の用人として通行手形を斉藤高雄のため用意した。
木曽川藩の成り立ちとして経済の動向に対して敏感であった。木曽川藩恵那屋の出先は全国に展開し情報をえていた。そのため、池田剛は斉藤高雄を用人として通行手形を取得するのは容易であった。斉藤高雄はその通行手形を使用し、全国を駆け回った。また、先々の恵那屋に寄り情報を得た。斉藤高雄は恵那屋の使用人として動きながら、長州の藩代表として動けたわけである。斉藤高雄は明示政府宮務省大臣となった時、池田剛を中部鎮台宮務役人に推薦した。池田剛は中部鎮台宮務省役人となった。芳田宮家が立てられたとき、池田剛が中部鎮台にて「芳田家が木曽川に存在しているな」と一言いったのを名護屋府役人が聞いた。木曽川県が名護屋府と統合された直後であった。
名護屋府役人は池田剛の言葉を重要視し芳田家に芳田姓を変名せよとの達しを出した。役人がいうには中部鎮台より芳田宮家と芳田名が同じなのは不敬であると苦情が入ったから変名するべしと役人は言ってきた。
木曽川藩は幕末、倒幕側である。名護屋藩は木曽川藩の影響で京寄りであった。廃藩置県により名護屋藩は名護屋府となり木曽川藩は木曽川県となるも3年後名護屋府に統合され名護屋府木曽川市となった。くだんの役人は名護屋藩藩士渡川佐進である。渡川は廃藩置県後に名護屋府役人となった。木曽川藩が名古屋藩から分藩されたとき木曽川藩領千形と名護屋藩領度山が交換され住民も入れ替えがなされた。
千形の住民が開拓した場所が千形崎と呼ばれたが、千形崎も名護屋藩に組み入れられ住民はそのまま名護屋藩領民となった。ここで千形崎の住民は千形の住民からいわれもない差別を受けた。廃藩置県でも千形崎は差別され名護屋市ではなく名護屋府木曽川郡千形崎町となる。渡川は過去の千形崎統治を思い千形崎町および木曽川市を見下すようになった。その邪心が芳田改名への行動となったと云えよう。
統合されたとはいえ倒幕派の木曽川芳田家が宮家と姓がかぶるから改名をもとめられるのも道理がいかぬ話である。しかし、渡川は芳田を吉田へ改名させた。このときの芳田家当主が芳田高倍だった。高倍は改名に無頓着というか執着がなかった。以後、吉田高倍と名乗った。吉田高倍43歳の出来事だった。宮務省役人が池田剛にはあわず、数年ほどで役人を辞した。恵那屋の店が木曽川百貨店となった。池田剛は木曽川百貨店の社員として働いた。芳田姓が吉田姓に変わったことに驚いたものだ。まさか自分の一言で変わったとは夢にも思わなかった。
洋風文化が溢れる東京品川恵那屋に吉田滋は居た。品川恵那屋は漆器を専門に扱っている。後の木曽川デパート品川店の前身である。木曽川家三家のうち芳田家(吉田家)は工芸組頭領も兼ねていた。
吉田滋は品川恵那屋に納入のため赴き、その帰りに自動車を見た。馬無しで、汽車のように軌道もなく走る自動車の虜となった。吉田滋は自動車に乗りたいと思い、自動車を探した。自動車は花街の芸子の、あるいは花街の客の送り迎えとして使用されていたのが見つかった。会社名を東京客車といい場所は花街よりちょっと外れに構えておりアメリカフォード製の乗用車が3台置かれていた。タクシー会社のはしりと言えよう。吉田滋はそのうちの1台に乗った。
馬が目の前に居ない走りに吉田滋は自動車にさらに魅了された。エンジンの振動が心地良かった。車が東京客車に帰ると吉田滋は運転手に自動車の構造操作方法をについて質問、東京客車に入社した。東京客車の社長小見は自動車に熱心な吉田滋をこころよく受け入れ自動車についていろいろ教えた。
小見自身が自動車に対する憧憬が深かったため、吉田滋は自動車の仕組み操作方法など短時間のうちに修得した。やがて滋は東京客車を辞するとき、東京客車からエンジンが故障し不要になったアメリカフォード1台を譲り受けたが、不要になったとはいえかなりの高額を提示された。それで茂は財産を殆どつぎ込んだ。
滋はアメリカフォード車を名護屋工業専門学校(後名護屋大学工学部)に持ち込み研究した。試行錯誤の末エンジンを修理しアメリカフォード車は動いた。走行テストをしたが数百mも走るとエンジンが動かなくなった。原因はクランクシャフトの破損にあったが、その当時のニッショウの技術力でのクランクシャフトの再生は無理であり茂のアメリカフォードは以後名護屋高等工業学校の教材となった。茂の高い道楽となった自動車であった。
そのノウハウは後の木曽川自工の礎となったのは言うまでもない。後に名護屋高等工業学校がオート三輪を試作し、それを生産したのが木曽川自工である。