悪役令嬢だと思っていたのは、まさかの真正ちょろいんでした! 誰も君の魅力がわからないなら、今夜は僕とおどりませんか?
筆頭侯爵家次男、エルネストは、嫡男である兄に呼び出されていた。
きっと新たに自分が果たすべき役目を与えられるに違いない。
「パラシオス公爵家令嬢、マグダレナ」
聞き覚えのある名前が兄から告げられる。
「アレハンドラ王子の婚約者ではありませんか?」
「ああ。公爵家の威光をふりかざし、強引に決められた婚姻である。公爵家はこの結婚を機に、外戚として力を強め、王家の血筋に食い込もうとしている」
公爵家の名を出すたびに、兄は迷惑そうに眼を細めている。
「幸い、マグダレナ公爵令嬢は高飛車な性格が災いし、社交界でも孤立している。婚約者の立場を利用してアレハンドラ王子に近づこうとするたび、無様に失敗しているらしい。お前にはこのマグダレナ嬢と懇意になってもらいたい。王子の婚約者でありながら、よその令息に心を移した令嬢との悪評が高まれば、この婚約も正当に翻意にできる」
兄は深刻な顔で続ける。
「さらに、パラシオス公爵家にはもっとべつの疑いもある」
「べつの疑い」
「我が国の金融政策を決める公開市場委員会の情報や、他国にかける関税についての情報をそとへ漏らしている疑いがある」
「とんでもない話です」
「まったくだ。王子も心底マグダレナ嬢には嫌気がさしているらしい。婚約の破棄を希望しても、あちらが受け入れないとか」
われわれの力で、お救いしようではないか。
兄の言葉に、エルネストもうなずき返す。
マグダレナ嬢は青がまじって少しくすんだ髪色をしていた。グレー味のあるアッシュブロンドである。
とある貴族の主催するガーデンパーティーでさっそく近づいた。高飛車で、鼻持ちならない女かと思いきや、服装も時と場所と家格を考慮した過不足のないもので、ふるまいも派手過ぎなかった。
何回か人違いかと思ったが、そうではないようなので、エルネストは動き始める。
「マグダレナ嬢。アレハンドラ王子の婚約者であるあなたにこんな感情を抱くなんて、間違っているとわかっています。でも、私はあなたのことを好きになってしまったようです」
最初呆けていたマグダレナの顔は、みるみるうちに赤くなり、前のめりにエルネストの手をつかんだ。
「あ、あなたは筆頭侯爵家フローレスのエルネスト様でいらっしゃいますよね!? 私にお声がけされたということは、父の情報をお求めですか!?」
「え? え? え?」
「どんな! どんな情報をお求めですか!? 私のことを好きと言ってくださった方ですもの! 私の差し出せるものなら、なんでも! なんでも差し上げますわー!」
「ちょちょちょ!ちょーっと待て!」
「あ、兄上―!!!」
ガーデンパーティーから逃げ帰ったエルネストは、一目散に兄のもとへ走っていく。
「どうしたエルネスト!」
「どういうことですか! あのマグダレナとかいう人! ちょっとチョロ過ぎません!?」
「チョロすぎるってどういうことだ。稀代の悪女と有名だぞ」
「なんかの間違いでしょ! いきなり本丸の情報よこしてこようとしましたよ!」
「いいじゃないか! その情報もらっておけばすべて丸く収まるな!」
「ええ……」
悪女と名高い公爵令嬢が、ちょっと好意をしめしただけでころっと落ちる女だなんて、聞いてない。
数日後、恒例の王宮での舞踏会で、エルネストはふたたびマグダレナに接触をこころみることになる。
前回はマグダレナの様子があまりにもおかしかったのでひるんだが、今回はもっとうまくやる。
マグダレナは会場の片すみで、壁の花とまでは言わないが頼るものがないふうで、じっと立っていた。その視線のさきには、アレハンドラ王子がいる。
王子はマグダレナには目もくれず、数々の令嬢と次々にダンスをこなしていく。幸せそうに女性たちと笑顔をかわす王子を見るマグダレナは、さみし気ではなく、いっそ楽しそうだった。
王子やその周辺の女性たちに危害をくわえる計画でも立てているのかと警戒したが、そうではなさそうなので、エルネストは居住まいをただし彼女に話しかける。
「マグダレナ嬢」
「まあ、エルネスト様」
華やいだ笑顔でマグダレナは振り向いた。
「踊られないのですか」
「ええ、アレハンドラ王子のお姿を拝見しておりました。今日もお幸せそうだなと思いまして」
どうも調子の狂う発言が多いが、エルネストはさも残念そうな声を絞り出して応じる。
「マグダレナ嬢のようにお美しい婚約者をただ立たせておくなんて、私には王子のお考えが信じられません」
マグダレナはなんだかよくわからないという顔をしている。エルネストは構わずその手を取った。
「誰もあなたの良さがわからないようだから、今夜は僕と一緒に踊りませんか?」
「……いえ。ご遠慮いたします」
「ええ……」
完璧な流れだったはず。エルネストはなにも間違えなかった。これでダンスの誘いを断る令嬢がいるなんて。みんなに嫌われ、冷遇され、誰からも顧みられない。そのあなたを、エルネストだけが相手をしているというのに。
「エルネスト様は、婚約されている方はいらっしゃるのですか」
「……いえ」
ああ、婚約者の存在を気にしているのか。それなら問題ない。エルネストは侯爵家次男という立場だったが、いまだに決まった相手はいない。
「では、好きな方は」
「今はあなたに魅かれております」
即座に答えたが、マグダレナはふふっと笑ってごまかした。
「いつか、大切に思う方ができたとき、私と踊ったことがあるなんて知れたら、エルネスト様の評判に傷がつきますわ」
マグダレナはそう言ったきり、その日は会場の片すみで、ずっとアレハンドラ王子を見ているだけだった。
マグダレナ・パラシオスは稀代の悪女である。
そもそも、その評判はどこで生まれたのだろう。
エルネストの知る限り、それはアレハンドラ王子とマグダレナが学園に通い始めてから出回った話である。
学園とは、この国の貴族の子弟が学問をおさめるために通うことになっている学び舎のことである。
この学園内で、マグダレナはアレハンドラ王子と同じ教場でなければ嫌だとごねただとか、王子が級友たちと健全な交流をしようとするのを姑息な方法で妨害したとか、恥も外聞もない卑しい話ばかりが聞こえてくる。
エルネストはその話を同じ学園内で聞くことはあったが、マグダレナ嬢本人と直接話すことはなかった。遠目にみても、そのような悪心をもって人を弄ぶようには見えないのに、人とはわからないものだと恐ろしささえ覚えたものだ。
しかし実際はどうなのだろうか。エルネストは興味がなかったから、その話の真相について、つきつめて考えたことはない。
そして今目のまえで、マグダレナのカバンの中身が中庭の噴水のなかにぶちまけられているの見て、何かがおかしいと気づき始めたところである。
マグダレナの生家、パラシオス公爵家が、他の貴族に好かれていなかったのは確かだろう。横柄な態度や、国政に強引に口を出して来る様子に耐えかねている家は多かったはずだ。しかし公爵家に直接に文句を言える家もそう多くはない。その不満を、子ども同士の関係のなか、一身に受けていたのがマグダレナだった。
「アレハンドラ王子は、きっと私以外に想う方がいらっしゃるのですね」
立ちすくむエルネストの助力さえ期待していない。マグダレナはひとりでカバンの中身を拾い始めた。水に濡れながら、黙々と。
「小さいころに決められた婚約ですもの。心変わりはしかたがありませんわ」
こうやって私を遠ざけなければ、その方と一緒にいられないのだわ、王子様おかわいそうに。
マグダレナは濡れて波打った教科書を拾いながら、さみしそうにつぶやいた。
「兄上」
エルネストの呼び声に、兄は執務中の机の上で顔をあげる。
「アレハンドラ王子は、マグダレナ嬢に婚約破棄を提案しても断られるとおっしゃっていたんですよね」
「ん? ん、ああ」
歯切れの悪い返答である。
「マグダレナ嬢の様子を見る限り、破棄を提案すれば穏便に受け入れてくれるように思えたのですが……」
「めったなことを言うな! 王子側から婚約破棄を申し入れるなんて、公爵家に対して貸を作るようなものだ」
「では、あえて破棄を申し入れてはいないと?」
「ああ。しかし、しぶとくも王子の婚約者の立場にしがみついている女だぞ? マグダレナは。どうせ婚約破棄など受け入れないに決まっている」
何かがどこかで決定的に食い違っている。そう思ったが、そのねじれを正す力が、エルネストにはなかった。
ある日の学園での授業が終わり、生徒たちがあらかた帰宅した時間に、エルネストはマグダレナと会う約束をした。
あの、彼女の持ち物を濡らした噴水の前で。
実際にマグダレナがどんな女であったとしても、エルネストがやることは決まっているので、少しずつ彼女を懐柔していくしかない。
「あの、これ。エルネスト様のお役に立つかもしれないと思って」
「またなの!?」
「だ、だめでしたか?」
「いや、いいんだが」
どうやって実の父親を追いつめる情報を引き出そうか悩んでいるところなのに、マグダレナは自分から、パラシオス公爵が他国と接触している証拠を持ってきてしまった。
「父は……悪いことをしております」
マグダレナは父の悪事に無頓着ではなかった。
「私が王子と正式に婚姻し、王家の外戚となったときには、つながりのある周辺国から圧力をかけて、実質国の政治を握るつもりでいます。これはそのための、下準備です」
彼女は自分の家がなにをしようとしているのか、正確に把握しており、それを止めたがっている。
「私が悪いのです。幼い私が、アレハンドラ王子のお嫁さんになりたいなんて言ったから、父は娘の願いをかなえようと奔走して、それが実現するとなったら、目の前にある権力に手を伸ばさずにはいられなくて、野心を持ちました」
全部私のせいなの。
それは違う。
パラシオス公爵家は、三代前の王の弟が興した家だ。もともと王家の血が入っていた。家を興した本人は、兄である王をよく支え、なにも問題がなかった。だが代を重ねれば、なにかのきっかけで自分が王であったかもと考える輩が排出されてもおかしくはない。
それがたまたまマグダレナの父だっただけだ。
マグダレナがいなくても、いつかは同じようなことが起こっていた。
「あの……エルネスト様。見返りを求めるなど浅ましいとわかっております。けど……」
ああやはり、マグダレナもエルネストに代価を求めるのだな。エルネストは萎えた気分で両手を広げる。
「マグダレナ様の望むことなら、なんでもいたしますよ」
最初、彼女の印象が周囲のウワサと違ってずいぶん驚いたが、所詮はマグダレナも評判通りの女だったに違いない。どんな浅ましい望みを求めてくるのだろうと、内心エルネストは嘲笑した。
「……それでは、先日私にかけていただいた言葉を、もう一度ちょうだいできますか?」
言葉? エルネストは予想外の言葉に目をしばたたかせる。
「もしかして、あなたのことが"好き"だと言った、あの……」
「は、はい! でも、今おっしゃっていただいたので、もういいです。大丈夫です」
「そんな……こんな言葉でいいのなら、いくらでもささやいて差し上げますよ」
エルネストは磨き上げたやわらかい笑顔で言う。どうせそこに気持ちなどないのだから、エルネストにとってはただの文字である。
「こんなささいなものが見返りで、よろしいのですか」
「はい……だれかに"好き"と言葉をいただくのが、初めてだったので」
マグダレナは頬を染めて、目を伏せた。
「うれしかった」
エルネストの方が気恥ずかしくなるくらい、はにかんだ美しい笑顔で彼を見上げる。
「好きという言葉で、こんなに幸せな気持ちになれるのですね」
うれしい。とてもうれしいです。
でも、この言葉は嘘だ。エルネストには、マグダレナを想う気持ちなどかけらもない。それにも気づかないで、のんきで、気の抜けた馬鹿な女だ。
エルネストがあきれて眺めていると、
「エルネスト様はお口の形すらきれいなのね」
マグダレナはドレスの裾をはためかせて、ひとりで踊り始めている。
「その美しい口元をすりぬける言葉の、たとえ全部がうそであっても、もういいの」
エルネストは心臓がはねるほど緊張する。マグダレナはエルネストの嘘と真実を、どこまで許しているのか。
「私のことが好きだと言ってくれる方がいるなんて、奇跡のようです」
うれしい、うれしいと言って、マグダレナは花の咲く噴水を背にして、歌うように舞っていた。
筆頭侯爵家は、王家を守るもっとも強い盾でなければならない。
エルネストと兄は、そのように育てられてきた。
兄は嫡男として爵位を継ぎ、いつかは表舞台に立つことになる。一方エルネストはどうか。
爵位を継がぬ次男は、家を存続させるための予備であり、ときには便利な道具になる。
立場上身軽なのをいいことに、ある程度の年齢になると、エルネストは様々な令夫人や令嬢のもとへ、王家の益となる情報を集めるために遣わされた。
エルネストに婚約者がいないのは、そうした活動で流した浮名が影響して、遊び相手以上の存在にはなれないと社交界で判断されているからだ。
真剣に愛を向ける相手ではないと思われている。エルネストの「好き」と「愛している」は羽のように軽い。みんなそれを知っているから、なぐさみにつまむ菓子のように簡単に受け取って、簡単に消費する。エルネストが愛情をそそいで喜んでくれる人間など、この世にはいない。
「エルネスト。マグダレナ嬢の懐柔は順調かい?」
「ええ。上々ですよ。兄上」
エルネストは、決定的な証拠をマグダレナから受け取ったことを隠した。それを告げれば、彼がマグダレナに会う必要性はなくなる。
「公爵家の罪があきらかになったら、彼らはどうなるのですか」
「よくて国外追放。ほかの貴族からの評判もよくないから、求める声が多ければ死刑もありうる」
「そうなれば……」
「家族もろとも運命をともにすることになるな」
「そうですか」
こたえた声の調子が、低すぎた。兄はすぐに気づいて、こちらに向かってくる。取り繕わねばならない。
「マグダレナをゆすぶる、きっかけにしようと思いまして」
「なるほど」
兄は、エルネストの肩に触れる。
「それは良い考えだ。エルネスト、いつもありがとう」
今回も、よろしく頼むよ。兄の肩をつかむ力が強くなり、エルネストは逃げられない自分の一生を思っていた。
エルネストは、はじめてマグダレナに呼び出された。
王宮の裏の、丘のうえだ。通うものもあまりいない。すれ違うほどの幅もない、斜面に作られたせまい階段を上っていく。
登りきった先のひらけた広場に、マグダレナはいた。
「エルネスト様」
自分で呼び出したくせにとても驚いていて、その姿がおかしかった。エルネストは自然に笑いながらたずねる。
「あなたが呼び出したのでしょう。どうしてそんなに驚いているのです」
「もう……いらっしゃらないかと思って」
「どうして?」
「私があなたに渡せるものは、すべて渡してしまったので」
やはり彼女は、エルネストが近づいて来た理由を正しく理解している。なのにどうして、エルネストの嘘にまみれた愛の言葉に、いちいち喜ぶのだ。
「マグダレナ嬢。あなたから得られるものがもう何もなくても、私にはここに来ることを選ぶ自由があります」
嘘ではない。エルネストは、自分で選んでここまで来た。それを聞いて、マグダレナはふわりと笑った。
夕日がその傾きを大きくしている。
「今日はどうしてこのようなところへ? 何か私に見せてくださるのですか? マグダレナ様」
「……夕日を、一緒に見たかったのです」
王都の外の森のかなたに、海が見えている。夕日を映して光り輝く海と、まさに沈もうとする太陽で、世界はこのうえもなく明るかった。
「ここから見る夕日が格別なので、誰かと分かち合いたくて。アレハンドラ王子を一度おさそいしたこともありますが、いらっしゃらなかった」
マグダレナの口からアレハンドラの名を聞いて、エルネストは今まで覚えたことのない窮屈さをその胸に感じる。
「すばらしい景色ですよ、マグダレナ様」
「そうでしょう? この丘、実は公爵家の持ち物なのです」
「へえ」と、マグダレナがこれから先に言う言葉を予想していないエルネストは、気軽に応じた。
「父が……公爵閣下が亡くなれば、この丘だけは私が継ぐことを約束しています。だから今のうちから遺言を書いておきますわ。マグダレナが死んだら、この丘はエルネスト様に差し上げますって」
まるで、自分の死が間近にせまっているのをよく知っているかのような口ぶりだった。
「そんなの、いりませんよ」
「そうおっしゃらずに! ぜひ!」
「いりません、本当に」
いらないんだといいながら、エルネストはマグダレナの肩をつかんだ。
「マグダレナ。どうかそんな悲しいことを言わないで。君は自分で、幸せになろうとは思わないの?」
「幸せそうな人を見ることが私の幸せですわ。王子が私がいなくなったあと、本当に好きな方と結婚すると考えることも、エルネスト様が私がいなくなったあと、ここからの夕日を眺めてくれると想像することも、私にとっては幸せです」
違う。彼女は自分が救われる形で自分自身の幸福が実現しないことをよくわかっている。だから全然違うものに、幸せを託そうとしているだけだ。
「もっとちゃんと、自分の幸福について真剣に考えるべきですよ」
抱きしめると、目が合わないからそれはだめだ。いまは真正面から言わなければ、きっと信じてもらえない。
「君が好きだよ。今度は本当だ。この口から出るのはでまかせばかりで、どれが本当なのか、もう自分でもわからない。でも、君が好きなのは本当だ」
好きだよ、マグダレナ。
彼女の眼はおののいて、おびえたように手をふり払うと、せまい階段をかけおりて行ってしまった。
エルネストの生まれて初めての心からの告白は、受け取られることがなかった。つまみ菓子のようなつもりでもいいから、せめて触れてほしかった。
何日か抜け殻のように過ごしたあと、侯爵家に一通の手紙が届いた。
マグダレナからであった。
そこには今までふたりで話したことの思い出と、感謝と、それから最後にこう書いてあった。
「私のことを好きだと言ってくれるエルネスト様のことを信じたい。今度の王宮の舞踏会でお会いしましょう」
エルネストはそれを大切に、自分の部屋の机のなかにしまった。
アレハンドラ王子は今日もマグダレナを顧みない。
エルネストは舞踏会の会場で、下を向いて深刻な顔したマグダレナの前に立った。
「……マグダレナ様は、すばらしい心をお持ちですよ。心からそう思います」
そこで少しだけ、アレハンドラ王子を見た。彼はきっと、自分の婚約者がだれと踊っていても気にしないだろう。
「あなたのような人と相思相愛になれたら、きっと幸せになれると思うのに、どうして誰も気づかないのでしょうね」
今まで散々口に出してきた、女を喜ばせような言葉のすべてが嘘っぽくて、マグダレナの前では言えなかった。
「自分の言葉で気持ちを伝えるって、すごく難しいね」
飾れなくて、だんだん言葉がくだけてきてしまう。
「誰も君のよさがわからないなら、今夜は僕と踊りませんか」
マグダレナは、その手を取った。
誰からも嫌われるように仕向けられた、すぐに人を好きになってしまうくらい愛に飢えた令嬢は、その日はじめてダンスホールの中心に踊りでた。
マグダレナのダンスの相手をするものは今までいなかったから、みんながふたりを見ていた。マグダレナとエルネストが一緒にいる理由を、本人たち以外が知る必要はない。だからふたりとも気にならなかった。
ふたりとも、生まれてきて今日が一番しあわせな日だった。
突然華やかなな音楽がやんで、アレハンドラ王子の叫び声がホールに響き渡る。
「パラシオス公爵閣下! 貴殿の昨今の行いについて、詳しくお聞きしたいがよろしいか」
アレハンドラ王子は、マグダレナから渡された証拠に基づきパラシオス公爵を断罪した。それだけで公爵は失脚するし、マグダレナとの婚約も破棄できるはずなのに、王子とエルネストの兄は、マグダレナがエルネストに送った手紙を持ち出しており、それを公衆のまえで、読み返した。
そして「私のことを好きだと言ってくれるエルネスト様のことを信じたい」という文を読んだ時、兄は、あろうことか笑いをこらえきれず吹きだした。
違う、自分ではない。マグダレナをこのように追い詰めようとしたのは、自分ではない。エルネストは弁解しようとマグダレナを見たが、彼女はもう崩れおちていて、その顔は両手で覆われていて見えなかった。
「大丈夫、大丈夫です。まちがっても自分の身の程を誤ったりしません。嘘だとちゃんとわかっていますから。たとえ嘘でもよかったの。嘘でも、私のようなものに好きという言葉をかけていただけるのが本当にうれしくて……」
エルネストは決定的なひとことを聞いてしまう。
「もうこれ以上エルネスト様には近づきません……」
パラシオス公爵家は失脚。一家は国外追放となった。マグダレナは父親からも勘当され、ひとり別の国に去っていった。
あの断罪の場所でマグダレナを守れなかったのは、小さいころから頭を押さえつけられてきた侯爵家次男の血のゆえか。
あの日以来、王宮の舞踏会はアレハンドラ王子の次の婚約者を決める催しものになっている。他国の姫君も訪れたりして、華やかさが増した。エルネストにはどうでもいいことだ。
「エルネスト! 今回のお前の働きもすばらしかったぞ」
たくさんの令嬢を侍らせるアレハンドラ王子を遠目に見ているエルネストに、兄が声をかける。
「王子殿下も大変お褒めだった」
兄はエルネストの視線の先を追い、すべてわかっているかのように言う。
「お前もそろそろ年頃だろう。このうえは誰でも好みの令嬢と結婚させてやろう。王子も協力くださるに違いない」
「そうですね。では、私が好きだと言ったら、すぐに私のことを好きになっちゃって、一緒に王宮の裏の丘に登って夕日を見てくれる子がいいですね」
「なんだそんな条件でいいのか」
高らかに笑う兄の声が、耳にさわる。
パラシオス公爵家の行いは、国にとって間違いなく悪事だった。
アレハンドラ王子、あなたはマグダレナとはどうあっても結婚するわけにはいかなかったでしょう。正しいご判断です。でも、あなたがマグダレナと正面から向き合っていれば、すくなくとも彼女が毒婦でないことはわかったはずだ。
そうすれば、違う道もあったかもしれないのに。
「まったく、とんでもない女につかまって、一生を棒に振るところだったよ」
鎖から解き放たれたように清々しい顔をした王子のもとへ、エルネストは黙って歩いていく。
まだ夜も明けないうちから、マグダレナは店の階段を下りていく。
祖国を離れて、遠く異国の地に来てから、数カ月たった。小さなパン屋の二階に下宿をして、そのうち店も手伝わせてもらえるようになった。
この国にマグダレナを知る者はいない。生まれ変わるような気持ちでやり直すなら、うってつけの環境だった。
パン屋の朝は早い。
作業場の東向きの窓から朝日が見える。それがときどき、夕日の赤に見えるのが、マグダレナには悲しい。
ある日、仕事が終わって街をあてもなく散歩しているとき、名前で呼び止められた。この街にマグダレナの知り合いは本当に少ない。彼女の名前を知るものも同じくらいいない。
振り返り、そこに立っていた人の姿に、マグダレナは高揚と緊張を同時に感じた。
「エルネスト様」
「マグダレナ」
エルネストはすぐにマグダレナに近づいた。怖さはなかったが、彼女は動けなかった。
「どうしてここに」
「君に会いたくて」
「私は国を追われた身です」
「僕も君と似たようなものだ。侯爵家は勘当だ」
「どうして」
「王子を殴った」
「アレハンドラ様を!? なぜ!」
「だってマグダレナを馬鹿にした」
「それだけですか」
「君と一緒に夕日を見たこともないくせに、知ったような口をきくから」
エルネストはそこでさらに、にやりと笑った。
「ついでに兄もボコボコにしてしまった」
エルネストはマグダレナを連れて、近くの石垣に腰かける。
「後悔はしていない。でも中途半端だったなとは思っている。君の復讐はできていない」
「そんなものいいですよ」
「君のいいところ僕はたくさん知っている」
エルネストは、まだちゃんとマグダレナの目を見ては、彼女のいいところ、つまり自分の好きなとろこをまっすぐには言えない。
「他人の幸せのなかに、自分の幸せを見つけられるところ。きれいな景色を綺麗だと言える心をもっているところ。それから」
それから、と言ってエルネストはマグダレナの手を強く握った。
「僕が好きだと言ったら、喜んでくれるところ」
夕日はマグダレナの頬を紅く染めている。
あの丘のうえではなくても、世界中どこでも、夕日は美しい。君と一緒なら。
「僕のこと、許してくれる?」
「最初から、怒ってなどおりませんわ」
「僕は仕事もないし、君をしあわせにできないかも」
エルネストはかぶっているフードを少し引っ張って、恥ずかしそうに顔を隠す。
「私、働いているから大丈夫です」
「僕も働く。なにができるかわからないけど」
「なんでもできます。この場所では」
「そうだね」
僕は全然、君の運命の人ではないかもしれないけど、君のいいところたくさん知っているから、今はこの手を握るよ。
エルネストはフードを取ると、貴族だったころより大雑把な動きで、マグダレナを誘った。
「とりあえず、踊らない?」
君はとてもいい子だから、君のこと幸せにできる男は他にもたくさんいるかもね。
でも、だれも君の魅力に気付かないなら、今夜は僕と踊りませんか。
夜が駆けていって朝がきて、空が白んで明るくなるまで、月の明かりの下で、今夜は僕と踊ろう。
復讐も、ふたりが貴族だったことも、君が王妃になりかけたことも全部忘れて、それでふたりで幸せになろう。
世界でいちばん幸せになろう。