みんなのひいろ
緋色が五歳のお正月。母、父、祖母の四人でトランプ遊びをしていた時にその力は発揮された。
「なんか、これの気がする!」
そう言いながら緋色は指をさし、カードを触る。ババ抜きをすれば一番に手札をなくし、七並べをすれば一度も外すことなく当てていく。どのゲームでも緋色は一度たりとも負けなかった。子ども相手だからと大人たちが手を抜いたわけではない。
「なんでわかるの?」
母親が緋色を膝に乗せながら訊くと、
「わかんないっ。ひーにね、みんな見せてくれてる感じ。ぜーんぶわかるよ」
トランプに飽きて、祖母からもらった饅頭を口いっぱいに頬張りながら答えるのであった。
異様な能力を信じない父と祖母は「偶然だろう」と深くは捉えなかった。しかし母親は「一大チャンスかもしれない」と心の中で確信した。
緋色の母は、小さい頃芸能人になりたかった。
芸能界に入り、輝かしいライトの下で歌って踊って世の中からチヤホヤされたいという願望を持っていた。それなりに目鼻立ちの良い顔、スラッとした細く長い手足を揺らしながら繁華街を歩けば芸能事務所の人間から声をかけられていた。
しかし、両親の反対により、その道が開かれることはなかった。いつしかその夢自体を諦めざるを得なくなった。
「私に子どもが生まれたなら、女の子なら花のように可憐で、男の子なら風のような爽やかさのある人間になるに決まっている」
緋色の母親はずっと深い底で沈殿している願いを自分の子どもに託すため、虎視眈々とその時を待っていたのだった。
母親は家庭用ビデオカメラを手のひらに収め、緋色が裏返しのトランプの絵柄を次々に当てる様子を撮影した。期待通り、緋色は最後の一枚まで間違えることはなかった。
「やっぱりこの子はスターになるかもしれない」
にんまりと顔をゆがめながら、停止ボタンを押した。
そのビデオをダビングし、テレビ局数局に送りつけた。「これはさすがに作ってるだろ」と早々に破棄するところが大半であったが、一局だけ映像をそのままワイドショーで流した。ゴシップとゴシップの間の、ちょっとした「お口直し」のミニコーナー。普段から視聴者が撮影した可愛いペットや赤ちゃんのビデオを流していて、緋色は「透視が出来る⁉ 五歳の女の子!」として紹介された。すると、「この子可愛い! 子役?」「やらせを流すな」など様々な意見や感想が番組に寄せられた。たかだか五分ほどのミニコーナー宛に反応があったのは初めてのことだった。何かを感じ取ったプロデューサーはすぐに特番の枠をもぎ取り、企画を組み立てた。
生放送で、日本中の「すごい能力を持っている」と噂のある子どもたちを集めたゴールデンタイムの特別番組。探してみれば、番組が成り立つ数の子どもが見つかり、誕生日を迎えて六歳になった緋色ももちろん出演が決定した。
緋色本人は事の重大さに関して興味がなかったが、母親は息まいていた。ついに自分のかわいい娘が全国のテレビに映る。それは自分の夢が叶う瞬間ともいえるのだ。まるで母親も出演するのかというほど、エステに行って身体を磨き、ブティックに行って服や靴を新調した。
そんな彼女を見て父親は「バカなことをしている」と呆れていた。
「緋色がカードの絵柄を当てられるのは正直奇妙だと思う。だからってテレビに出るのは緋色は変な子だと認識されてしまうんじゃないのか? そういうのは隠しておいた方が……」
「なんでそんな消極的なこと言うの? 緋色の力はすごいのよ? それを武器にしないのはおかしいでしょ?」
「全部お前が目立ちたいだけだろ。緋色の意志は? ちゃんと聞いてるのか?」
「緋色はまだ子供なんだから。私がやりなさいって言ったらやる。それが経験と思い出になって成長していくんじゃない」
その様子を緋色は電気の消えた真っ暗な廊下で聞いていた。とはいえ、リビングへのドアは閉まっていて、くぐもった声が漏れ聞こえるだけ。ふと目が覚めて、母も父もまだ隣で寝ていないことに不安を覚え、起きてきたのだった。二人がケンカしているのは伝わり、冷たい床に座り、様子を伺っていた。だが、幼い緋色は眠気には勝てなかった。目を覚ますと、いつものベッドの上にいて、右を向けば母、左を向けば父が眠っていた。すべて夢だったのだと安心し、二度寝した。
収録当日、テレビ局に集められた緋色をはじめとする子どもたちは番組進行の流れを簡単にリハーサルしたあと、控え室に詰め込まれた。学校の教室と同じくらいの広さに十人ほどの子どもと、その両親や付き添いの大人たちがおり、ずっと賑やかだった。
本番が始まると状況は一変した。固い表情を浮かべる大勢のスタッフ、見慣れぬ機材、眩しすぎるライト。スタジオの異様な空間に耐え切れず、泣き出したり、逃げ出したり、特技を披露しても失敗する子が出てしまった。
終盤の出番だった緋色は特に緊張することはなかった。スタジオから戻ってきた子たちが泣いて、叫び、暴れていることに最初こそはびっくりしたが、すぐに慣れた。ちょうど先日、学校の予防接種でそういう同級生の姿をたくさん見たからだろう。
それよりも楽屋に置かれていたクッキーがおいしくて幸せを感じていた。そんな緋色に母親は一着の服を目の前に差し出した。
「今日のために作って来たのよ、ワンピース!」
実際に仕立てたのは彼女の母親――つまり緋色の祖母なのだが子どもの緋色は気に留めない。自分のために服を用意してくれたことが嬉しかった。Aラインワンピース。白色の丸襟、胸元にはころんと丸みのあるクルミボタンが上下二つずつついている。そしてなにより、緋色を惹きつけたのは日の光のような、火の熱さのような、気持ちが自然と高鳴っていく布の色だった。
「真っ赤だね!」
「赤は赤でもこれはあなたの名前と同じ緋色って言うのよ」
「えー! そうなの!」
「緋色」が彼女の中で一瞬にして好きな色一位になった。早く着たくなり、トレーナーの裾に手をかけはじめる緋色に、
「お母さんがなんであなたに緋色って名前を付けたかわかる?」
と母親は訊ねる。
「お母さんも好きな色だから?」
「好きな色って言うのは正解かな。緋色はね、強い色だからよ」
「強い?」
「この色を見た時『頑張るぞ~!』ってならない?」
「うん。なんか力がむくむく出てくる感じ」
「なにも怖くなくなりそうじゃない?」
「あー……そうなのかも!」
「せっかくのチャンスなんだから。他の子に負けちゃいけないの」
「ふぅん」
母親は真紅のルージュをひいた口元をきゅっとあげ、緋色の頭を優しく撫でた。
「緋色は強い子。みんなの緋色」
「みんな?」
「今日から緋色は有名人になるんだよ。みんなが知ってる、かわいくて、変わった力をもった女の子ってね」
緋色は父親と母親だけの緋色のままでいいのにと思ったが、母がこんなに嬉しそう、まるで同い年の子のようにニコニコしているのを見たら言えなかった。
ワンピースに着替え、簡単な化粧を施し、トイレもすませて座っていると、「出番だよ」とスタッフが呼びに来た。母とはスタジオの出入り口のところで別れた。ちらっと振り返ると母はスタジオの壁にもたれ、堂々とした出で立ちで緋色を見つめていた。母の方がよっぽど緋色が似合う強い人だと思った。
いざ舞台袖につくと、心臓が痛いくらいに音を立てて、身体が小さく震えていた。生まれて初めて緊張に動揺して、下を向く。ワンピースの裾が見える。こんなに薄暗い場所でも緋色だけはなぜかそのままの色に見えた。同じ名前の仲間。仲間がそばにいる。それを感じた瞬間、緋色はまるで家にいるかのようなリラックスした感情で照明の下へと立った。
ビデオを撮った時と同じように、テーブルに並べられた裏返しのトランプを左上から順に答えていくよう司会者に説明を受ける。
「ではスタート!」
合図を聞くやいなや、軽やかに絵柄を言い当てていく緋色。めくっていくアシスタントの女性が「ごめん、一枚ずつゆっくりでもいいかな⁉」と焦りだす一面もあった。残り半分になると賑やかしの芸能人たちも、スタッフたちも興奮を隠せず、手に汗を握りながら、一秒たりとも見逃すものかと神経すべてを緋色の声とトランプに集中していた。
そして、
「ハートの2!」
最後の一枚のカードがめくられ、ハートの2が現れると、地が割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。緋色は母に視線を送る。母親は頬がとけて落ち、なくなってしまうのではないだろうかと心配してしまうほどにほころんでいた。
一夜にして緋色はスターの仲間入りを果たした。放送後、緋色の元には数多の芸能事務所から声がかかった。母親は一社一社契約内容を隅から隅までチェック。そして、その中でもギャラが高く、緋色を預けても安心できる会社を選んだ。事務所は緋色に「ひいろちゃん」という芸名を与え、デビューさせる運びとなった。宣材写真はあの緋色のワンピースを着て撮影をした。
表舞台に出る前に、緋色はいろんな実験をされた。能力のデータを取るためだ。いつものトランプの絵柄当てに始まり、箱の中身を予想させられたり、明日の天気を予測したり、見ず知らずの人間について問われたり、物や人がどこにいるのか探させたり。そこでわかったのは、緋色は「未来予知は出来ないこと」、「物に関しては離れていてもわかるが、人間や生き物に関しては近場でも探せないこと」だった。
ひいろちゃんとしての初仕事は、夕方に放送している全国ネットの情報番組内、毎週水曜日、十分ほどのコーナーだった。
あの生放送を見て「この子は流行るぞ」と踏んだ制作陣がコーナーを作り、オファーしたらしい。内容は、視聴者から「なくしたものを探してほしい」「埋めた場所がわからないタイムカプセルを探してほしい」などの依頼を募集し、ひいろちゃんが超能力で解決するという流れ。タイトル名は『名探偵ひいろ』となった。番組内で依頼募集をかけると予想よりも多くの申し込みがきた。番組、事務所、母親はすべてに目を通し、実験データを踏まえ、採用の可否を決めた。
一週間に一件ずつ解決する様子を放送していたが、基本学校の休みである土日に何件か分をまとめて収録した。緋色はいろんなところへ行ける嬉しさでさほど疲れは感じなかった。現場に着くと、秒で見つけてしまうため、スタッフは大変骨が折れた。事前に依頼者へ失くした時の状況や、その物への思いなどをインタビューしないと尺が余ってしまうため、東奔西走し工夫していたことを緋色は知る由もない。
たった十分のコーナーであったが、ひいろちゃんの人気は回を重ねるごとに上がっていく。デフォルメイラストのひいろちゃんが描かれたステッカーを作れば、テレビ局内のおみやげ売り場には長蛇の列が出来て、すぐに完売。依頼者のみに渡される、ひいろちゃんのサインが入ったメモパッドはオークションにて高値で取引された。
ひいろちゃん宛にどんどんと仕事が舞い込み、
「ひいろちゃん、この飲み物にはなにが入ってるかな?」
と国民的人気女優が訊ねる。ひいろちゃんがペットボトルを指さしながら笑顔で、
「この中にはたくさーんの乳酸菌が入っています!」
とたった一言のセリフを述べる乳酸菌飲料のCMで知名度を確実に上げた。
八歳になる頃には、『名探偵ひいろにおまかせ!』という曲でCDデビューを果たした。音楽番組に出演し、まだあどけなさの残る声、手の振りだけの簡単なダンスを披露。マネのしやすさがウケて、その年の小学校の体育大会では課題曲としてこぞって選ばれた。
テレビ出演、雑誌の取材、イベントゲストなど一気に多忙を極め、『名探偵ひいろ』は月に一回の放送となった。それでも依頼は絶えなかった。その頃から、学校の欠席日数が増え始めた。遠足や体育大会といった行事の参加は出来なくなり、緋色は残念で仕方なかったが、芸能の仕事は楽しくてたまらなかった。頑張れば頑張るほど母親は喜び、「緋色は良い子。強い子。みんなの緋色」と頭を撫でる。それが彼女にとってご褒美だった。
CDデビューして半年後、ドラマ『パパは名迷探偵⁉』の主人公の娘役に抜擢された。へっぽこ中年探偵の一人娘で助手的役割のしっかりもののメイ役。芝居の経験はそれまでなかったが、実際と同じ八歳の役だったため、普段通り、家族や友達と話すようにセリフを言うだけで、「自然体の演技だ」と高評価を得た。
作品が人気を博し、半年に一度新作がテレビ放映されるシリーズとなり、映画化もされた。
ドラマの撮影で長時間拘束が増え、長寿コーナーとなっていた『名探偵ひいろ』はひっそりと最終回を迎えた。
このまま女優の道へ進むのかと思われたが、『パパは名迷探偵⁉』シリーズの最終シーズン最終回と共にひいろちゃんは芸能界引退することを発表した。
緋色は小学六年生、十一歳になっていた。引退理由は「学業に専念するため」。パッと聞けばよくある理由だが、真相は「両親の離婚」であった。
父親は緋色には内緒で母親と「芸能活動は小学校卒業まで」と約束させていた。しかし、母親は素知らぬ顔で卒業以降のスケジュールを抑え始めていたことが発覚。
「いい加減にしろよ、自分の夢を娘に背負わせるのは……!」
強く握った拳で父親はダイニングテーブルを勢いよくたたきつける。衝撃でコップが倒れ、入っていた麦茶がこぼれるのを二人は気にも留めない。
「あなたは娘がトップスターの仲間入りして頑張ってるのをなんとも思わないの?」
「思わないね。緋色は確かに可愛い。真面目で自慢の娘だ。あの透視能力だってすごいと思うさ。だけどそれでいいのか? 緋色は普通の女の子の生活が出来ないまま大人になるんだぞ?」
「普通の生活なんて、やろうと思えばいつでもできるじゃない。芸能活動は違う。選ばれて掴み取った子しか生き残れない。緋色は幸運な子なのよ? 人気が下がることなく、ずっと新しいオファーが届く。手放したらもう一生戻れないの」
「それは本当に緋色が望んでいるのか? お前の指示があるから従ってるだけじゃないのか」
話し合いは緋色抜きで何度も行われたが、緋色のいる場では仲のいい両親を保とうとした。話し合いの回数を重ねれば重ねるほど夫婦の形が崩れていった。徐々に二人は精神的余裕がなくなっていき、ついに家族三人、リビングで顔を合わせて話し合いが行われることとなった。
ゲッソリと頬がすっかりこけてしまった父親は一言、緋色に問う。
「お前はどうしたい? このまま芸能界にいるか、辞めて普通の子になるか」
母親は何も言わず、泣き腫らした目をテーブルの木目に落としていた。
「私は……」
声が震えた。自分が出す答えが、家族の運命を左右することなど、言われなくてもわかった。緋色は何度も手のひらの汗をスカートで拭ったあと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は、普通の女の子に、戻ります」
こうして両親の離婚が決まった。
緋色は母親についていくつもりだったが、経済的理由と親権を強く求めた父親側に引き取られることとなった。母親は粘ることもなく、あっさりと合意した。
荷物をまとめ、母親が出ていく際、彼女は涙を流しながら娘を抱きしめた。
「夢、見させてくれてありがとうね」
「お母さん……私は……」
「緋色は強い子。みんなの緋色で、私の緋色だった。これからは自分の好きなように歩いたらいいからね」
「自分の好きなように歩くってどうしたら……」
母親は何も答えず、背を向け玄関へと向かった。その日を境に母親と再会することはなかった。
緋色のそれからの人生はあまりにも平々凡々だった。
中学入学すぐは「あのひいろちゃんだよね⁉」と話題をさらったが、半年も経たないうちに普通の女子中学生として溶けこんだ。今まで参加できなかった行事を楽しみ、勉強に勤しみ、部活には入らず放課後は友達と寄り道して遊んだ。高校、大学ともに第一志望合格。大学時代に出会い、付き合っていた同い年の男性と大学卒業一年後に結婚した。
現在、三十歳になった緋色は丸椅子に座っている。地味なブラウンのニットと着古したデニム姿の緋色を囲むのは大量の駄菓子。木製の棚に所狭しと商品が並ぶ。添えられている手書きの値札は緋色が書いた。自分が子どもの頃より高くなったなぁと思いながら、油性ペンで一枚一枚作成した。先日また値上げがあり、書き直しをレジ兼作業台でやっていたのだ。ふと顔を上げた緋色の視線の先には、買ったばかりの駄菓子を咀嚼しながら、店の外で「今日はどこの公園行くー?」と相談している子どもたちがいた。
駄菓子屋は夫が社会人四年目に差しかかった、緋色二十八歳の時に突然始めた。
元々気が弱い性質で、特にタテ社会の強い風潮のある会社に入社してしまい、馴染めずにいた夫。いつも通り夕食を食べていると、夫は箸を置き、大粒の涙を流しながら「仕事を辞めたい」と呟いた。
緋色も正直四年もよく働いたものだと思ったから、転職には賛成だった。しかし、そのあと続けた言葉が、「駄菓子屋をやりたい」だった。何の冗談だ? と首をかしげる緋色に夫は充血した目で訴えた。
「なにか自分らしいことをしたい。自分らしいことって何だろうって考えた時、僕は駄菓子屋が向いているって思ったんだ。僕さ、昔から駄菓子好きだろ? いつも仕事終わりにコンビニで買って食べるのがすごく幸せで。お菓子って元気くれるよなぁ。君だってお菓子好きじゃん。きっと僕らの天職になる。そうだ! 夜まで営業して会社終わりの大人が来れるようにしたらいいんだ! 僕みたいに社会に弾かれた人が来てくれるかもしれない。SNS作って、バズるような駄菓子屋を目指すんだよ。良いと思わない⁉」
「そんなの生活できるわけないじゃん。落ち着いてよ。退職は止めないけど、せめて駄菓子屋は……」
旦那は一瞬にして笑顔を消し、眉間に皺を寄せ、
「なんでそんなこと言うんだよ! 緋色はいつだって俺の味方してくれるはずだろ⁉ 大学で一人でいた僕に優しくしてくれたのは君だけだった。僕が言ったことを面白いって言ってくれたのも。僕が新しいことやるって言ったら頷いてくれないと困るよ!」
唾を飛ばしながら叫んだ。恐怖で身体がこわばる。あの日、自分の将来について揉めていた両親の姿と重なってしまい、それ以上反対する意見が出せなかった。
その後本当に駄菓子屋を始めたものの、夫は大人にも子どもにさえ人見知りを発揮し、「僕はSNSで告知したり、発注するから」と店の奥に籠り、接客は緋色一人がやるはめになった。いくら人当たりが良い方とはいえ、一人で昼から深夜手前まで店に立ち続けるのは出来ず身体を壊した。説得の末、営業時間は子どもたちが学校から帰ってくる三時頃から店を開け、夜の七時くらいをめどに閉店とした。「将来子どもが生まれた時のために」と貯めていたお金は底をついた。
正気を取り戻した……というよりも逃げ出すように夫は転職し、サラリーマンに戻った。再就職をしたとはいえ、借金もあり、仕入れた商品の在庫もまだまだある。夫は「また時間ある時には店に立ちたい」と言うため、結局緋色が店を切り盛りしている。
出来たばかりの値札に貼り替えたあと、ふと気まぐれで「また値上げしましたよってつぶやいてみようかな」と思い立ち、更新を止めて放置していた店のSNSアカウントへログインをした。すると、未読のDMがあると通知が届いている。「またどうせ変な業者のDMだろう」と削除しようとしたが、
『初めまして。突然DM失礼します。単刀直入にお聞きします。店主さんって、『ひいろちゃん』ですよね?』
この一文に手が止まった。久しぶりに呼ばれ、文字化された芸名。このアカウントで過去に投稿した写真はお菓子だけで、顔写真などはあげたことなどない。ひた隠しにしていた過去が掘り返されたことに背筋が凍る。ネットは怖いとは聞いていたが、身に降りかかるとどうするべきかと冷や汗が止まらなくなる。
恐る恐る続きの文を読む。最初に自己紹介し忘れたことへの謝罪と共に、名前は早川源二、フリーのウェブライターであること、ぜひ、ひいろちゃんのその後について取材したい旨が書かれていた。
ひいろちゃん。それは自分の人生の中で一番輝いていた時代だった。そのことについて改めて話を聞いてもらう人などいないから話したい反面、
「こんな地味な主婦になった姿をネットの海に流されるのは……」
とためらいもあった。もし取材を受けたら掲載されるというサイトを覗いてみる。知名度の低い、まだ出来たばかりのニュースサイトだった。ほとんどが有料会員登録をしていないと全文読むことが出来ない仕様だった。
「これなら恥ずかしさはないかも」
緋色は「顔出しNG、店名非公開」を条件に取材を承諾する旨の返信をした。
取材当日。やってきた早川は自分とほぼ変わらない年齢の男性だった。ウェブライターだというから、Tシャツにデニムのようなラフな格好だろうと思っていたら、しっかりとスーツにネクタイ姿で緋色は少々恐縮した。
軽く挨拶を交わしたあと、開店前の薄暗い店内で対に並べた丸椅子に腰かけ、インタビューは始まった。「いつ透視能力に気づいたか」「デビューのきっかけ」「活動していた頃の思い出」など。自分の口から時系列に沿って話すのは初めてだった。
「旦那さんに話したことはないんですか」
「彼、子どもの頃、決められたチャンネル以外のテレビ番組を観るのが禁止だったらしくて。軽く『ひいろちゃんっていう子が昔いたよね』って話したことあるんですけど、『知らない』『君と同じ名前の子がいたんだね』って。もし知っていたらきっと彼のことなので、根掘り葉掘り聞いてきてたと思いますし、なにより『駄菓子屋のためだから』とSNSの告知材料にされてたんじゃないかなと。そういう晒し物にはなりたくなかったので隠してます」
「今回の取材に関しても?」
「そうですね、黙ってます」
思い出を誰かに話し、聞いてもらっていると、自分はいかに不思議で非日常な世界で生きてたんだなと改めて気づく。今になっては透視能力を持ち、芸能界に身を置いていた約六年間は濃密で、まばたきをしている間に過ぎ去った幻覚のように思っている。
「活動の最後の方は演技のお仕事がメインでしたが、やはりタレントから女優への路線変更を目指していたんですか?」
「いいえ。いただいた仕事はなんでも挑戦してみる。それが私と母、事務所で決めていた方針だったので女優一本に絞る予定はありませんでしたが――実は」
そこまで言って緋色は一度ペットボトルの水を一口飲み、微笑んだ。
「小学六年生になった頃に透視能力は消えてしまいました」
「えっ⁉」
「家族にも友達にも会社の人にも誰にも言ってません。今、早川さんに初めて言いました」
能力を使う機会が減っても、緋色は一人で透視出来るか、トランプを使い定期的に確認をしていた。年齢を重ねるごとに見えるまでに時間がかかるようになり、見ようとすればするほどぼやけていくようになった。そして小学六年生の春にはまったく見えなくなってしまった。仕事に忙殺され、その上両親が不仲になる様子を目の当たりにしてしまう機会が増え、心がつぶれそうになっていたからだと緋色は推測した。だが両親が離婚し、普通の学生として楽しい生活をして強いストレスがなくなっても、力が戻ることはなかった。
「今思えば子どもの頃だけ使える魔法だったのかもなって」
「そんな……」
「でも、私って何も大事なこと見通せてなかったんですよね」
「どういうことです?」
「私、未来予知や、人とか動物に関しての予測は出来ないんです。もしそういうのが見通せてたなら、父と母が不仲にならないようにふるまえた。旦那が弱りきる前に助けてあげるか、もしくはワガママな旦那とは結婚さえしなかったかもしれません。自分が何をすべきか、最良の未来だって予測して、もっと違う人生があったかも……」
目をつむり、緋色は続ける。
「私のギャラはすべて母が持って行ってしまって一銭も残ってないんです。母にとっても、事務所にとっても、テレビ局にとっても、私は都合のいい金稼ぎのおもちゃだった。私は芸能の仕事続けたかったけど、途中から能力が消え失せてたことが知れたらと思うと今は怖いです。結局私は芸能界にいれる逸材じゃなかった。夢から自ら覚めることを選んで正しかったと思います」
重い空気のままインタビューが終わった。
早川は「最後に一つ」と前置きし、
「印象的だった衣装のワンピースはまだお持ちだったりしますか?」
「ああ、ありますよ。そう言われるかもと思ったので出しておきました」
足元に置いておいた紙袋から服を取り出し、レジのテーブルに広げた。捨てられなかった夢の跡。胸元のボタンが一つ取れていて、汚れでややくすんでいるが、それでも緋色の鮮やかさは褪せずに残っている。
このワンピースの色について、『パパは名迷探偵⁉』の主役だった俳優に言われたことがある。
「君のワンピース、緋色は緋色でも猩猩緋という色だよね?」
「しょうじょうひ?」
「戦国武将が好んで着ていたという色なんだよ」
当時は「へぇー!」と受け答えしただけで終わってしまったが、今脳内には栄枯盛衰の四文字が浮かぶ。別に芸能界のトップに立った自覚はないが、きらめいた季節が過ぎ去り、凪いでいる様子は似ているように感じる。
「わぁ! すごい! 本物だ!」
早川は興奮気味にいろんな角度からスマホで撮影する。
「これは記事に載せても大丈夫ですか?」
「かまいませんよ。私がひいろちゃんだった証なんてこれくらいなので……」
そこで一度言葉を切った。
「そういえば、早川さんはなんで私がひいろちゃんだとわかったんですか」
ずっと気になっていたことをぶつけてみる。彼の答え次第では恐ろしい事件性をも秘めている。だが、訊かずにはいられなかった。
「ひいろという名前は正直珍しいものとは思いません。SNSでは名前は伏せて、【店主】と表記していました。お店のことも家族と友達数名にしか話していません。なのになぜ私だと? 出身が同じとか、ですか? まあ、最近のネットはなんでも載っているから私の知らないところで情報が流れていたのかもしれませんが」
「実は、僕の妻があなたと同郷で同級生だったという話が偶然出まして。彼女に協力してもらって探し出しました。どうしても、お礼を言いたくて」
「お礼?」
「僕はひいろちゃんに救われた一人なんです」
写真を撮り終え、また椅子に座ると胸元からあるものを取り出し、緋色に見せた。それは依頼者にしかもらえないサイン入りのメモパッドの裏面。日にちは今から二十三年前。依頼者の名前である「はやかわ げんじくんへ」と宛名があり、その下には「ひいろちゃんより」と書かれている。間違いなく自分の筆跡だった。恥ずかしそうに早川は口を開いた。
「『名探偵ひいろ』に応募したのは小学生の時で。『友達がなくしてしまったイルカのキーホルダーを探してほしい』っていう依頼だったんですけど、さすがに覚えてないですよね」
「ごめんなさい。当時依頼たくさんあったから」
「ですよね。それはしかたない。……亡くなったおじいちゃんからもらった大切なキーホルダーをなくしてしまって、毎日泣いてる友達の姿を見てられなかったんですよね。藁にもすがる気持ちで代わりに応募しました。採用が決まった時はガッツポーズしましたよ」
当時、依頼者と話す機会はなかった。現場に到着して、五分も経たないうちに解決して次の場所へ向かっていたし、ひいろちゃんの神秘性を重んじて、事務所側が極力視聴者と接触をさせないようにしていた。
「あの日のこと、今でも覚えてます。このワンピースに探偵っぽいベージュ地にチェック柄のコートと帽子姿で。『テレビからそのまま出てきたみたいだ!』って友達と盛り上がりすぎて、スタッフの人から怒られたなぁ。その間にひいろちゃんは『キーホルダーなら家の押し入れの奥だよ』って透視してくれて。大人たちと一緒に友達の家の押し入れ、片っ端から荷物取り出したら、奥の奥からキーホルダー……出て来て……」
早川は目頭を押さえ俯く。
「すいません。思いだすと今でも泣いちゃうんですよ。それくらい嬉しい……安心したというか」
緋色は慌ててティッシュの箱を差し出す。よく子どもが「おばちゃん、鼻血ー」と店に助けを求めに来るのでキャッシャーの横に常備しているのだった。早川は涙を拭い、鼻をかんでスッキリした表情を見せると、緋色に笑いかける。
「俺、ひいろちゃんの姿を見て、誰かの役に立つ、俺らしい仕事に就こうって思ったんです。昔から文章書いたり、絵を描いたり、写真撮るのも好きで。そういう好きなものを生かした仕事に就くぞって考えた末、ウェブライターになりました。一般企業に勤めてた時期もありますが結局諦めきれなくて」
早川の表情があまりにも明るく、緋色は目を逸らす。あの世界以外にやりがいを見いだせず、ずるずる流されるまま生きてしまった。気づけば旦那に言われたとおり、店番として毎日ぼーっと座っている日々とは大違いだと情けなくなっていく。
「いいですね。自分のしたいことに気づいて、叶えてる早川さんが羨ましいです」
「実はまだ転職して一年も経ってないひよっこです。でも、毎日楽しいです。偉そうに言える立場じゃないですけど、緋色さんも今からでも自分がやりたいことに挑戦してください」
「いやでももう三十歳だし」
「僕は今三十二です。やりたいことは年齢制限のあることなんですか?」
「え、あ、いや……」
正直なところ、もう一度お芝居に挑戦してみたかった。緋色は結局メイ役一役しか出来なかったが、共演者の芝居に対する真剣な態度に感化され、自分じゃない誰かになる経験をもっと極めたいと思っていた。それを知ってか知らずか、母親も映画やドラマの仕事を小学校卒業後のスケジュールで押さえていた。しかし、自分の透視能力が完全に消えたこと、自分を巡る言い争いの末の両親の不仲は緋色の夢を断ち切ってしまった。中学、高校で演劇部に所属したかったが、父親が母親や、あの日の諍いを思い出させてしまうと考え、諦めた。もう一度その切れた糸を引き寄せて、結べたなら。そんなことを思っていた。しかし、その勇気が出ないまま結婚してしまった。自分の意見を何としてでも通すタイプの夫に言われるがまま、この駄菓子屋に閉じ込められていた。
緋色のワンピースに視線を移す。
「緋色は強い子、みんなの緋色」
優しくも身勝手な部分もあった母親の声がどこからか聞こえた気がした。
「本当に今日は取材させていただき、ありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそありがとうございました。実際の依頼者さんと初めてお話出来て嬉しかったですし、昔のこと聞いてもらえて楽しかったです」
「記事が完成したら一度内容チェックしていただくためメールさせていただきますね」
「わかりました、待ってます」
背を向け数歩歩いたあと、早川はくるりとこちらに向き直した。
「ひいろちゃん……いや緋色さん、これからも応援してますよ」
早川の姿が見えなくなり、店に戻る前に空を見上げる。すっかり夕暮れ空になっていた。薄い雲がゆっくりと風に流れていく。
「緋色は強い子、でも緋色は緋色のもの、だよ」
そう緋色は暮れゆく太陽にぽつりと呟いた。
了