【コミカライズ】イヴェット・ペルティエ侯爵令嬢は、嘘告を絶対に許さない
放課後、借りていた本を学園の図書館へ返しに行こうとしたところだった。
本館から続く渡り廊下へ続く扉を開けようとした時、窓の外から高笑いが聴こえてきた。
あまり感じの良くない笑い方に眉を顰めて、窓に近づいた。
虐めであるならば、教師に報告しなければならない。
我が国の貴族の令嬢子息が通うこの学園にも、不本意ながら虐めというものは存在する。
基本的に高位貴族の生徒が親の爵位を笠に着て低位の貴族の生徒へ無理難題を言いつけたり、商売をしている家のモノを持ち出して献上しろというらしい。
イヴェットは、そういう愚かな行為が大嫌いだった。
窓の外では、男子生徒たちが集まっていた。見覚えのある顔ばかりだ。同じクラスの男子生徒たちだった。
中心にいる生徒ふたりの手には木剣が握られていた。
どうやら虐めではなく、放課後を使って剣の練習をしていたのだろう。
そこで勝った生徒が負けた生徒に対して勝ち誇っていただけなのだと分かって、イヴェットは自身の早とちりを恥じると共に、虐めなどではなかったことに胸を撫で下ろした。
ただの生徒同士における鍛錬。
勝った相手と負けた相手が逆なのではないかと疑問は浮いたが、勝負ごとに絶対はないのだろう。だからこそ、そこには勝者の喜びがあるだけだろう。そうと分かれば長居する必要もない。
図書室へ本を返しに行こう。そう思って踵を返した時だった。
「あはは。お前の負けだな。敗者であるお前は、今すぐイヴェット・ペルティエ嬢の所へ行って、愛の告白をしてくるんだ!」
聴こえてきたその内容に、頭をガツンと殴られたような気がした。
思わず耳を疑ったが、あの豪奢な金の髪は間違えようがない。勝者となったバルテルミ・デシャルム第二王子殿下が、あまりにも低俗な宣告を敗者ユーセフ・ダラディエ伯爵令息へ突き付けていた。
学生、それも我が国の第二王子という生徒たちのお手本となるべき尊い御身にも拘らず、賭け事に身をやつした挙句の果てに、何故、侯爵令嬢である私イヴェット・ペルティエを、敗者に対する罰ゲームの対象などに指名なさるのか。
あまりの怒りに身体が震えた。頽れそうになる身体を励まして、出来るだけ静かに、イヴェットは窓辺で耳を澄ませた。
「えぇっ、そんなこと、出来る訳がっ」
「いいや、お前はやるんだ。ユーセフ・ダラディエ。お前は僕との勝負に負けたんだからな!はっはっは」
「それは殿下が」
「僕が何を言おうと、試合の最中に動揺して隙を見せたお前が悪いんだ、ユーセフ」
「!」
無理難題を突き付けられて頭を抱えているのは、ユーセフ・ダラディエ伯爵令息だ。
ただし次男であり伯爵家の跡取りとはなれないと理解した彼は、幼い頃より己を鍛え上げた。今やバルテルミ殿下の未来の側近として期待される有能な生徒だ。
騎士の資格を学園在学中に取り、座学だってずっと学園一席を取り続けている。
どれだけイヴェットが努力しようとも、一度たりともその座を奪えたことはない。まさに文武両道だ。ついでにいえば、冬の夜空のような紺の色の髪に赤い瞳が印象的な、かなりの美形でもある。
きっちりと撫でつけた紺色の髪の下にあるルビーのように赤い瞳は、意志の強さそのもののようにまっすぐだ。
完璧な伯爵令息としてクラスメイトとなった彼はいつも気難しい顔をしていて、イヴェットとは事務的な会話しかしない。
もっとも、イヴェット以外の令嬢ともそんな感じではあるが。
それでも、強く正しいユーセフ・ダラディエ伯爵令息ならば、こんなバルテルミ殿下のおふざけに乗ったりすることはないだろう。
たとえ未来の側近という立場が無くなろうとも、きっと正しい判断をして、イヴェットの名誉を守ってくれる。そう信じられた。
イヴェットは、安心して図書館へ続く渡り廊下を進んでいった。
そうして実際に、「今すぐ」と殿下から言われていたけれど、イヴェットはその後何事もなく家に帰り着いた。
だからすっかり安心して翌朝いつものように登校したのだ。
なのに。
「ずっと好きでした。私と付き合って下さい。むしろ結婚……いや、まだ学生なので、とりあえず婚約してください」
「「「「「きゃー!!」」」」」
よりにもよって、登校時間の校門でそれは実行されてしまったのだ。
登校中の生徒たち特に令嬢たちから、本気の悲鳴が上がった。
当然だがユーセフ・ダラディエ伯爵令息は令嬢たちから人気がある。最悪の事態だ。
目の前に掲げられているのは、12本の赤い薔薇で作られたブーケだ。
正しくプロポーズのために作られた完璧なブーケだった。瑞々しい花弁は艶やかで美しい。
対して、跪いたユーセフ・ダラディエ伯爵令息の顔は真っ青だ。
その中で、ひと際赤く輝く宝石のような瞳は不安の色に揺れている。
どう見ても本意ではないと言わんばかりだった。
そんな顔をしてまで第二王子殿下の側近になりたいというのだろうか。
──イヴェットを、傷つけてまで?
本意ではないこのプロポーズは、バルテルミ第二王子殿下の悪ふざけによって強制されたものだと分かっていた。
悪いのは、バルテルミ殿下で、ユーセフ・ダラディエ伯爵令息だって被害者だ。
分かっている。分かっていても、イヴェットは傷ついた。
直接その傷をつけたのは、ユーセフ・ダラディエ本人だ。だから。
「喜んで」
真っ赤な薔薇の花束を受け取ってイヴェットがそう答えると、周囲からものすごい歓声と悲鳴が上がった。
「……え、あ。本当、に?」
「あら、受けてはいけませんでしたか?」
「いや、そんなことは。ちょっと……嬉し、すぎて、信じられなくて」
呆然とした彼にそう言われて、微笑みを返した。
まさか自分のこの嘘告が、受け入れられるとは思わなかっただろう。
イヴェットは侯爵令嬢で、彼は第二王子の側近候補ではあるものの今はまだその地位は確定したものではない。今突然、実兄がダラディエ伯爵家を継いでしまえば、単なる騎士爵持ちという称号のみになる。つまり、爵位を次代に継げない吹けば飛ぶような存在だ。
どうせ断られるからと思って安易に嘘告を選んだのでしょう。
──でも、残念でしたわね。私、これが程度の低い悪ふざけだと知っているの。
「まぁ。こんなに大胆に朝の登校時間の真っ最中で告白をしておきながら、振られることが前提でしたの? 私、お断りした方がよろしかったかしら」
わざとらしいかと思いつつ、小首をかしげて受け取った花束に顔を伏した。
そうやって罪悪感を誘いながら図星を突いてやると、飛び上がらんばかりに焦っている。
「いやっ、そんなことは! 受けてくれて、光栄です。とても、嬉しい。ありがとう」
これほど簡単に、焦りを見せては駄目ではないかしら。
完璧なユーセフ様も、こんな茶番には向いていらっしゃらないようね。
たぶんきっと、どこかでバルテルミ殿下とその仲間たちはこの茶番を見て笑っているのでしょう。
好きなだけ笑っているといいわ。こんな馬鹿な遊びを思いついたことを、後悔させてあげる。
「うふふ。早速侯爵家へ報告しておきますね。お父様に挨拶に来て下さるのでしょう?」
「はい」
ハッと表情を硬くして頷く。その緊張した様子にほくそ笑む。
口が滑ったのかもしれないけれど、結婚とか婚約などという必要はなかったのに。
わざわざ傷を広げようとなさったりなさるから悪いのよ?
学園でこれだけ人気の高いあなたからの婚約の申し入れをこれだけの観衆の目の中で、振ってしまったなら、どれだけお高くとまっているのかと陰口を叩かれることになってしまうに違いない。
親との話し合いで「実は水面下ですでに縁談がある」とでも言って断って貰う方がましだと判断した。
ついでにそれまでの時間、精々冷汗を掻くとよろしいわ。
楽しみにしていて。
絶対に、この嘘告に乗ったことを、あなたにも後悔させて差し上げますわ。
そのつもりだったのに。
──おかしいわ。なんで私は、ニコニコと笑顔のユーセフ様とふたりでお茶を飲んでいるのかしら。
あの日の夕方、同じ馬車で侯爵家へとやってきたユーセフ様を、お父様は喜んで迎え入れた。
そうしてなんと即日その場で、イヴェットたちの婚約は本当に誓約が為されてしまったのだ。
ユーセフ様は、毎朝、侯爵家まで迎えに来ては学園へご一緒して、夕方は侯爵家まで馬車で送って下さる。
勿論学園でもほぼずっと一緒だ。
あのムカつくバルテルミ・デシャルム第二王子殿下とは、ほとんど一緒にいるところを見なくなった。
たまに目配せをしているような気もするが、イヴェットが視線を送るとそっぽを向いてしまうので、確かではない。
だから、イヴェットに分かる彼らの交流といえるものは、今や挨拶くらいのものだろう。
彼らの間はまるで、それまでのユーセフとイヴェットの関係のように遠くなってしまった。
「イヴェット様と、またこうして一緒にお茶を飲める日がくるなんて思いもしませんでした。幸せすぎる」
それにしても、このところのユーセフ・ダラディエ伯爵令息の演技力が、異様に高くなっていて目のやり場に困る。
頬を染め、熱く見つめる。この表情がすべて演技、偽物だなんて。
あのバルテルミ殿下とのくだらない賭けの現場に居合わせていなかったら、完全に騙されてしまうところだった。
いいえ、私イヴェット・ペルディエでなかったら、あの賭けの現場で見聞きしたことの方を夢かなにかであったのではないかと思うに違いない。
演技することに慣れてしまえば、知恵者なユーセフには、乙女をたぶらかすことなど造作もないのだ。たぶん。
侯爵令嬢たるイヴェットだからこそ、こうやって自分を律することができているのだ。そうでなかったらひとたまりもないだろう。
「次の休日は観劇に行く約束ですよね。お迎えに上がりますね。できれば前にお贈りしたドレスを着ていただけたら嬉しいです」
「えっと、赤いドレスでしたでしょうか」
まるで自身が薔薇になったような素敵な赤いドレス。色味のちがう赤いシフォンを何層も重ねたやわらかなドレスは、軽くて着心地が最高によかった。
「赤いドレスを着たイヴェット様もお美しかったですけど、紺地に金の刺繍が入ったドレスがいいです。あの……実は、あのドレスに似合いそうなチョーカーを見つけてしまいまして。イヴェット様の細い首にきっと映えると思うんです」
にこにことベルベットの箱を差し出してくる。
そっと開けてみれば、中にはルビーがちりばめられたチョーカーが入っていた。
ドレスの刺繍と同じ葡萄の葉をモチーフとした金の細工で出来ており、ルビーはその色の濃淡を使って葡萄の実を模しているらしい。美しく愛らしい逸品だ。
紺色のエナメルがところどころに使われていて差し色になっていて、確かにこれならばあの紺色のドレスに似合うだろう。
「素敵」
「気に入ってくれたなら良かった」
毎回会う度に渡される花束、何着も届くドレスにアクセサリー。
ドレス工房も超一流だ。侯爵夫人である母だって数着しか持っていない王族御用達の工房の手によるものばかり。これはたぶんきっと、第二王子の伝手を使っているに違いない。
それにしても、学生で、なにより伯爵家の次男でしかないユーセフ様がどうやってその費用を捻出しているのか。心配になる。
「あの、こんなに毎回、高価なプレゼントを頂かなくとも」
贈られたばかりで身に着けていない今ならば、お店に返品できるのではないかとベルベットの蓋を閉めて、そっと差し戻した。
けれど、その箱をじっと見つめて受け取っては貰えなかった。
「気に入りませんでしたか?」
しょんぼりとされてしまい、焦る。
「いえ、とても素敵なお品だと思います」
「ですよね! 一度でいいいので、私の前で着けてみせて頂けませんか?」
「え、それは……」
「だめ、ですか?」
駄目です! 価値が下がります!!
そう言ってしまえれば、どんなに楽だろうか。
「駄目じゃ、ないですぅ」
自分の甘さが、憎い。
いいや、ユーセフの甘え方が上手すぎるのだ。きっと女性を沢山泣かせてきたに違いない。最低だ。
だからきっと、こういう演技も上手なのよ。──そう思ったら、胸が痛くて仕方がなかった。
「よかった! きっとお似合いですよ」
ニコニコしながら、ユーセフ様は箱の中身を取り出すと、そのまま立ち上がってイヴェットの後ろに回り込んだ。
「あの?」
「あぁ、やっぱりよくお似合いだ」
止める間もなく、かちりとちいさな音がしてイヴェットの首に美しい金細工がはめられた。
金の重さが、肩にかかる。
準備よく侍女から差し出された鏡を覗き込んだ。
「きれいね」
鏡の中に映ったチョーカーを彩る葡萄を模したたくさんのルビーは、まるでユーセフの赤い瞳のようだと思った。
そんな自分の思考が恥ずかしくなって、ちょっと意地の悪い言葉が口をついて出た。
「葡萄の実に紫色の石ではなくて、ルビーを使っているのって変わっているわね」
そう口にした瞬間、何かを思い出しそうになった。けれど、嬉しそうに話し掛けられて微かな記憶は霧散してしまった。
「あぁ。ね? 同じモチーフだし、あのドレスとよく合うと思うんです」
そう言われて気が付いた。
同じ葡萄の葉がモチーフであるにしても、あのドレスの刺繡とこのチョーカーのデザインは、あまりにも同じ過ぎるのではないだろうか。
「あの、もしかしてこの品は?」
「バレちゃいましたか。実は、ドレスと一緒に発注したんです。でもちょっと凝ったデザインにしすぎてしまって。ドレスと同時期には仕上がらなかったんですよね」
これから一緒に贈れるように気を付けますね、とにこやかに言われて言葉を失った。
つまり、ドレスだけでなく、このチョーカーもデザインからすべて新しく仕立てたということだ。特注の品なのだ。
そういえば、他のドレスたちに合わせたアクセサリー類もそれぞれ同じモチーフだった気がしてきた。
あれもこれも、全部が似合いそうなものを探して来たのではなく、作らせていたのだ。
「あのっ、本当に。もうこれ以上私のためにお金を使うのはやめて欲しいわ」
「気にしないで。いいえ、私のために受け取ってくれませんか。安心してください、こう見えて、私はすでに騎士なのです。学園内での第二王子の警護についておりましたので、きちんとお給金もいただいておりました。その他にも、その、いろいろとあるのでお小遣いには不自由していないんです。勿論、結婚してからも、イヴェット様に不自由させないだけの自信もあります。だから、ね? 受け取って下さいませんか」
熱く語るユーセフの情熱の籠った視線で見つめられ、懇願されて、それでも拒否できるほどイヴェットは強くなかったらしい。
「……はい」
「よかった」
ほぅっと熱い息をはくユーセフの顔は、もう見ていられなかった。
普段格好いい彼を、可愛らしいとすら思ってしまう。
これがすべて演技だなんて、一体誰に見抜けるだろう。
嘘告を、後悔させるどころの話ではない。
今や、この嘘告を受け入れたイヴェット自身が、一番後悔していた。
苦しくて苦しくて、降参だと大きく声を張り上げそうだった。
「それで、その次のおやすみなんですが、どこか行きたい場所はありませんか? あぁ、植物園で百年に一度と言われている花が咲くかもしれないそうなんです。よろしければ、一緒に蕾を見に行きませんか。咲いたらまた見に行けば、きっと一生の記念になると思うんです。それとも、前にお話しした湖へ、一緒に遠乗りに行きましょうか」
婚約が決まってからというもの、すべての週末にユーセフとの約束が入れられている。
それでもまだ足りないのだと主張してくる偽物の愛に、イヴェットは溺れる寸前だった。
そろそろ一旦線引きをして、仕切り直しをしたい。なんならすべて暴露して、第二王子共々破滅へ突き落としてやりたい。
「あの、次のお休みは、友人たちとお茶会を開くつもりなのです」
ですから、会えませんと続けようとした言葉は、けれども最後までは言わせて貰えなかった。
「お茶会は侯爵家でですか? なら午前中、いえ朝の散歩を、ご一緒させて頂けませんか」
今日のユーセフは、妙に押しが強かった。
押されるとつい押し返したくなるのは人の常だろう。
イヴェットは、なんとか断ろうと頑張った。
「いえその、いろいろと準備がございますので」
「では、その準備を手伝わせてください。そうしたら、イヴェット様のお顔を見るだけでもできますよね」
「伯爵令息のお手を煩わせるようなことはできませんわ」
「では、では私もお茶会の末席に」
「ごめんなさい。令嬢の交流の場へ男性を招き入れるのは、マナー違反ですから」
「そう、ですか。そうですよね。ははっ」
力なく笑って肩を落とす姿に、罪悪感が募る。
なぜこんな思いをイヴェットがしなくてはならないのだろう。
理不尽だ。そのひと言が頭の中を埋め尽くしていく。
そうして、それはついにイヴェットの心の縁を超え、強い言葉となって溢れた。
「はぁ。もういい加減にして下さいませんか」
「え、あの? どうなさったのでしょうか、イヴェット様」
突然のイヴェットの豹変に、オロオロするユーセフは、きっと自分の演技に対して完璧だという自信を持っていたに違いない。
いいや、完璧だった。十分すぎるほど、完璧すぎた。
茶番なのだと知っているのに。
本当に愛されているのだと思わせてしまうほど。
「この婚約は、あなたの有責で破棄させて頂きますわね。お父様には私から伝えておきます。どうぞ、ダラディエ伯爵にはユーセフ様からお伝えください。ご自分が何をしでかしたのかも、きっちり説明してくださいね」
もう絶対に視線を合せたりしない。
偽りでしかない愛は要らない。
蕩けるように甘く見つめてくる赤い瞳に、これ以上心を捕えられてしまう前に、決着をつけるのだ。
「え、あの……なにか、何がお気に障ったのでしょう。申し訳ありません。もう二度としないと誓います。ですから、どうか許してください。あなたに婚約破棄などされたら、死んでしまいます」
みっともなく縋ってくる姿を、笑ってやれれば良かったのに。
笑ってやるつもりだった。こんなところではなく、第二王子やそのくだらない取り巻きの前で。
お前たちの悪巧みなど全部お見通しで、偽りの愛を囁かせ侯爵令嬢であるイヴェットを愚弄した悍ましい性根を、全生徒の前で突き付けてやるつもりだったのに。
それでも、できるだけ美しく見えるように、姿勢を正して立ち上がる。
きっと、ユーセフとこうしてふたり切りで会話をするのは、これで最後だろうから。
一番美しいと思える自分で、この言葉を告げたかった。
「帰って、バルテルミ・デシャルム第二王子殿下に報告なさい。『イヴェット・ペルティエは、ユーセフ・ダラディエからの告白が、あなたからの命令を受けただけの嘘の告白であると最初から知っていました。嘘告は失敗でした』とね」
「待って、イヴェット! 違う。誤解です」
「お客様のお帰りよ」
縋るユーセフの手を避ける。
イヴェットの告発を聞いていた、隅で控えていた侍女は、すでに従僕を呼びつけていたらしい。
怖い顔をした従僕たちにユーセフはあっという間に取り囲まれて、それでもなんとかこちらへと手を伸ばそうと藻掻いていた。
「どうぞお帰りを」
「イヴェット様! お願いです、話を聞いて!」
「力尽くでお帰り願って」
衝撃で真っ青になっていた侍女の顔が、今や真っ赤になっていた。
たぶんきっと、イヴェット以上に怒りに震えているのだろう。
侯爵家のすべての者が、イヴェットとユーセフの婚約を祝い喜んでいた。
その信頼を、彼は失ったのだ。
イヴェットの、言葉で。
「ざまぁみろ」
呟いた言葉を投げつけるべきユーセフはすでにその場にいなかったけれど。
代わりに聞いていた侍女が、やさしくイヴェットの前に、身を寄せてくれた。
そうして無言で、顔を拭ってくれた。
「あとで甘い紅茶と一緒に、蒸しタオルをお持ちいたしますね。あんな男の為に、お嬢様が泣いたりする必要は、まったくありません」
そうしてイヴェットは、自分が泣いていることに、気が付いたのだった。
それから一週間、イヴェットは学園を休んだ。
いいや、もうすぐ来る長期休暇が始まるまでこのままずっと休んで、新学期から通い出すつもりだった。
お母様には、「いっそ、隣国の叔母様のところへ留学に行っちゃう?」と唆されたけれど、いきなり決められはしなかったので新学期からの留学の手配が間に合う寸前までは保留にして貰うことにした。
「……何もしたくないわ」
彼からの嘘告を受け入れて三か月。たった三か月のことでしかないのに、あまりにも一緒にいすぎた彼との記憶はそこら中にあって、ありすぎて、イヴェットは部屋から出ることもできなくなっていた。
庭に咲いている赤い薔薇を見ても、建物の彫刻に入っている葡萄の葉のモチーフを見ても、なんなら赤い物でも紺色のものでもなんでもすべて。
イヴェットが彼と結びつけてしまうことができるすべての物が視界に入るだけで、涙が出てくるのだ。
情けない。なんて情けないの、イヴェット・ペルティエともあろう者が。
侯爵令嬢としての誇りはどこへやったのかと自分でも問い詰め自分を奮わせたいところだったが、何をどうしようとも、どうにもならなかった。
でも、そろそろベッドからは抜け出すべきかもしれない。
せめて部屋着から着替えてみることだけでもしよう。
そう決めて、久しぶりに自分から侍女を呼べば、彼女たちは心の底から喜んでくれて、「お嬢様の美しさを取り戻さなくては」と、いつも以上に張り切りだした。
お陰でデイドレスにしては多少おめかしが過ぎるほど艶やかに仕上げて貰った。
耳の後ろから複雑に編み込んで流したハーフアップは、アクセサリーなど何も着けていなくとも夜会にだって出れそうなほど華やかだ。
小花模様が入ったやわらかなモスリンのデイドレスは、肩のパフスリーブも愛らしくて、イヴェットのお気に入りで、着ているだけで心が落ち着いた。
「イヴェットお嬢様の金色の御髪は、本当に美しいですね」
お風呂にだけは入っていたけれど、時間を掛けたお手入れについてはずっと拒否をしていたので、今朝は気合の入った侍女たちの手で、とても入念に香油を揉みこまれ、何度も丁寧に櫛梳られた。
お陰で、今はちょっとだけ、前のイヴェットを取り戻せたかもしれない。
「ありがとう。あなた達のお陰で、少しだけ自信が取り戻せそうよ」
「光栄ですわ。でもお嬢様はもっと自信を持たれるべきです。ペルティエ侯爵家の自慢のお嬢様ですもの」
「そうですよ! あんな男に騙されたくらいで、痛っ、あ。あの、そういう意味じゃなくって、お嬢様ならもっといい男がいっぱい、いえあのそのあの、失礼しましたっ!!」
一番年若い侍女が、両隣の先輩たちから次々と肘で突かれ、弾かれたように頭を下げた。
後輩の失言に震えて一緒に頭を下げる侍女たちへ、笑顔を向ける。
「大丈夫よ。怒ったりしないわ。私を励まそうとしてくれたのでしょう?」
やさしい。イヴェットの周りには、本当にやさしい人がたくさんいて、皆から愛されている。
「……せっかくお嬢様がお元気になられたというのに。廊下が騒がしいですね。少し様子を見て参ります」
そう言って、侍女のひとりがドアを開けた時だった。
「ここに隠れていたのか、イヴェット・ペルティエ侯爵令嬢。謂れのない批難を好き勝手言いたい放題してくれた癖に学園へやってこようとしないから、忙しい僕がわざわざ足を運んでやったぞ! 感謝するがいい」
豪奢な金色の髪、透き通るような青い瞳。
それはどちらも我がデシャルム王国の王族の証だ。
「……バルテルミ・デシャルム殿下」
さっと一斉に腰を落として王族に対する最高位の礼をとる。
学園内ならいざ知らず、ここは学外であり、ペルティエ侯爵家の邸内だ。
ここでの王族への不敬は、そのまま侯爵家の恥となる。
それがたとえ、令嬢個人の部屋へ案内も受けずに勝手に押し入ってきた状態であっても、だ。
「王国の小太陽、 バルテルミ・デシャルム第二王子殿下へ、ペルティエ侯爵家一女イヴェットがお目通りいたします」
腰を深く落したまま、王族に拝謁する口上を述べる。
目線を合せないイヴェットに、殿下の視線が刺さった。
どれだけそのまま睨まれていただろうか。ほんの数分かもしれないし、数十分を超えたかもしれない。
ずっとベッドの中でごろごろしていた身には少々厳しいだけの時間が過ぎた。
悔しかったが、もう音を上げてしまおうかという弱音が頭を掠め始めた頃、その人はやって来た。
「殿下! イヴェット様にご迷惑をお掛けするのはやめて下さい。すべて私が悪いのです」
「やっと来たか、ヘタレ男め。お前のせいで、侯爵から僕まで悪者扱いされたではないか」
「ぐっ。申し訳アリマセン」
「よし、ようやく役者がそろった。イヴェット嬢も楽な体勢にしていいぞ」
胸を張ったまま、ひらひらと手を振る。
王子は、まったく自分の仕出かした悪ふざけを反省している様子はなかった。
むしろ自分こそが被害者だと主張しているような物言いだ。
そして、それを言われたユーセフが、その場に蹲ったまま謝罪したのがイヴェットには気にかかった。
というか、ユーセフは何故蹲ったままなのだろう。
イヴェットにはユーセフを視界に入れるつもりはなかったが、どうしてもチラチラと視線が吸い寄せられてしまう。それが悔しい。
「して、イヴェット嬢。君は、僕が剣の勝負でこのヘタレを負かした場に居合わせたということでいいのか」
「はい。図書館へ本を返しに行く途中で、殿下の笑う声が聞こえて参りまして。その、……その時点でどなたのお声かわかりませんでしたので、万が一を考えて様子を見に参りました」
「んー、もしかして、その時点で虐めを想定したのか」
「申し訳ありません。ですが、万が一そうである可能性がある限り、私は何度でも確認に行くでしょう。関係ないと無視して素通りすることは、私にはできませんでした」
「うむ。それもまた高位貴族として正しい道であるな」
「ありがとうございます」
「だが……最初に浮かんだ悪い想像に引き摺られて、その後の会話の主旨を勘違いしてしまうのは良くないな」
「主旨を勘違い、ですか?」
ふんすとばかりに胸を張ったまま、王子が鷹揚に頷いた。
「……おい、ヘタレ。ここから先についても、僕が説明してしまっていいのか」
「しかし、私には、イヴェット嬢と直接会話をする権利がありません」
面倒臭い奴だなぁと呆れた王子は、イヴェットと視線を合わせた。
「王子命令を出す。イヴェット嬢が、このヘタレからあの日の説明をきっかりと聞いた上で、先ほどの会話の続きを僕としよう。反論も抗議も、すべてその後に受け付ける」
「畏まりました」
ふたり、連れ立って庭へ出る。
俯きながら少し前を歩くユーセフは、すこし痩せて見えた。
イヴェットも人のことは言えない。けれど、イヴェットは侍女たちからなんやかやと世話を焼かれ甘やかされていた。甘いケーキや紅茶を家族からしょっちゅう差し入れされていた。どれも全部を食べきれたわけではないが、だから窶れてはいない。
それに比べて、元がしっかりとした筋肉のついた身体をしていたユーセフの肩が、たかが一週間でひと回り細くなっているのを見ると、さすがに心配になった。
初夏の庭は、ペチュニアやサルビア、モナルダなどこれから来る暑い夏の季節に耐えられる強い草花が咲き誇っていた。
「たった一週間で、咲く花の種類って変わってしまうものなんですね」
庭を見渡したユーセフが呟く。
ふたり一緒に眺めて歩いた庭とは、まったく違っていることにショックを受けているようだった。
仕方がないのだ。イヴェットが、何を見てもユーセフを思い出して泣いていたから。
お母様が庭師に申し付けて、すべて植え替えてしまったのだから。
「イヴェット様は、私からの告白を、殿下の命令に背けなかったから行なっただけの、罰ゲームかなにか、だと思われながら、受けて下さったのですよね。質の悪い悪ふざけを諫めようとされた、だけだった、と、言うことで、合ってますか」
「えぇ、そうね」
「……そうですか。ようやく分かりました。納得した、の方が合ってるかも。そうですよね、私のように情けない男の心を、イヴェット様のように素晴らしい方が受け入れて下さる方がおかしかったんです。素晴らしい夢を、ありがとうございました」
深く頭を下げられて混乱する。
謝罪される夢は何度も見た。
心の底から反省したのだと、もう一度手を取らせてくれと懇願される、都合のいい夢を。
けれど、実際のユーセフの言葉には違和感しかない。
「あの?」
「あぁ、すみません。殿下から言われたように、あの日にあったことを、きちんときっかり説明させて頂きます。お怒りは、その後に改めて、如何様にもお受けいたします」
そうして、ユーセフは語りだした。
「では、あの日のあの会話は」
「殿下の婚約者候補として、イヴェット・ペルティエ侯爵令嬢が挙がっていると聞かされまして。それで……お祝いを、述べようとして、言葉が出せなくなってしまって。それで、根性みせろと対戦を」
「……根性」
「それで、頭がまっしろになったまま剣を取ったのですが、挙句に『イヴェット嬢との見合いは明日だ』とか言われて」
「私はなにも聞いておりませんでしたが」
「そうですか、どうしよう。殿下なら、イヴェット嬢との見合いだけでなく婚約者候補に挙がっているということも、すべてが出鱈目だったとかありそう」
……。
思わず胡乱な目になるのを、目を閉じてやり過ごす。
どういうことだろう。順序立てようとしても、何故か途中でよく分からなくなる。
「あの、殿下が何故そのような嘘をつく必要があるのでしょうか」
そう、そこが分からないので、イヴェットには話の筋が見えないままなのだ。すべてが腑に落ちないでいる。
「……それは」
「それは?」
「それは私が、ずっと、幼い頃より、ずっとずっと、イヴェット様を、お慕いしているから、です」
ザァッと風が強く吹いた。
足に力が入らなくて、その拍子にみっともなくも、よろけてしまった。
そんなイヴェットの手を、大きくて力強い手が、支えた。
ずっとイヴェットを見つめるだけで甘く蕩けていた赤い瞳が、今は悲しみに沈んでいた。
その瞳を見上げた瞬間、いつか思い出しそうになったのに消えてしまった遠い記憶が、一気に戻ってきた。
「泣いてるの?」
「泣いてない」
「嘘。大きくて綺麗な瞳。葡萄みたいで綺麗なのにね」
子供同士の茶会の席。
隣り合わせた令嬢から「怖い」と言われてショックを受けた様子で逃げていった令息の背中を追った。
花の陰で、声を潜めてしゃくりあげる後姿が悲しくて、声を掛けた。
「なにそれ。変なの。葡萄は紫でしょ。僕の瞳みたいに赤くない」
「そういう品種もあるんだよ。すっごく甘くて美味しいのよ。いつか探して食べてみてね」
一緒に食べようとは言えなかった。なんとなく、ここまで追ってきてしまったことが急に気恥ずしくなったから。
だからそれきり、イヴェットはその葡萄のように美味しそうな赤い瞳のあの子に、近づこうとはしなかった。
「葡萄みたいな、赤い瞳の……」
擦れた声で思い出を囁けば、彼はそれは嬉しそうに、笑ってくれた。
「あの後、母に強請って、自分の瞳みたいに赤くて甘いという葡萄を探して貰いました。本当にすっごく甘くて美味しくて。だから、あなたに報告したかったのに。お茶会で会えても、あなたは二度と視界に、この赤い瞳を入れようとしてくれなかった。きっと、思い返して怖くなったんですよね。うん。それは仕方がないです。仕方がない」
けれど、まるで自分に言い聞かせるような言葉を言い終わる頃には、あれほど嬉しそうだった顔は、笑っているのに寂しそうな、まるで泣いているような顔になっていた。
ユーセフの、そんな顔を見たかった訳じゃない。
罪悪感で、胸が潰れそうだった。
「ごめんなさい。そうじゃないの、あれは、泣いてるあなたを追いかけて話し掛けたり、あなたの、赤い瞳も、あの甘い葡萄みたいにおいしそうだなって考えてしまった自分とか、そういうの纏めて全部恥ずかしくなってしまって。それで、あなたの瞳を見れなくなってしまった、だけなの」
きっと、イヴェットの頭のてっぺんから湯気が上がっていることだろう。
それほどに、全身が、熱い。
「あー……だから、その。あの時の殿下は、幼い頃からずっと好きで、学園で傍にいるようになったらまっすぐでどんなことに対しても真面目に取り組むあなたにどんどん惹かれていってしまっていくばかりだったけれど、でも遠くから見ていることしかできなかった私に、『ちゃんと振られて来い』と鼓舞してくれていただけなんです。殿下ではなかったとしても、あなたに正式な婚約者ができてしまったら、振られることすらできませんでしたから」
「ユーセフ様は、私に、振られたかったのですか?」
あの朝、告白を受けた時の反応を思い出して、顔から血の気が引いた。
道理であんな反応になるはずだ。
あのプロポーズは、幼い思い出に蹴りをつけて、前を向くための儀式でしかなかったのだ。
「つまり、あの日の私は、とんでもない勘違い女だったということですね」
声が震えた。自分の声なのに、まるで誰か他人が喋っているようだった。
みっともなかろうが、不敬と言われようが、待たせている王子のことなどもうどうでも良かった。
今すぐ走って逃げだしたかった。
「違います! 嬉しかった! 凄く、凄く嬉しかった。今だって、あなたとこうして会話できて、あなたを苦しませていると分かっていてとても辛いのに、嬉しくて堪らない」
ごめんなさいと謝罪されて、胸が詰まった。
あの日の放課後、あの会話を聞いてからずっと、彼に本気で謝罪させたかった。ずっとそう思ってきたけど、今はそんなことちっとも思えなかった。
むしろ謝るのは自分の方だと思っているのに、声が喉に詰まって出てこない。
それでも、想いを伝えたくて、何度も首を横に振った。
涙が、散った。
「泣かないでください、イヴェット様。あなたを泣かせているのが自分だと思うと、死にたくなる。お願いです。私にできることなら、何でもします。二度と視界に入るなというなら、国外に出て行ってもいい。死ねというなら死んでもいい。だから」
それ以上は、もう何も言わせたくなくて、その胸元へ飛び込んだ。
力いっぱい彼の服にしがみつく。
「なら、笑って。笑顔で、わたしの、そばに、いて。わたしと、ずっといっしょに」
「いいの? やっぱり間違いだったなんて言われても、この次は受け入れられない。もう、逃がしてあげられなくなる」
「うん、うん。離さないで。ごめんなさい。わたし、勘違いであんなことを言ってしまったのに。それでも、やっぱり、私はあなたの傍に、いたい」
ぎゅうぎゅうに抱き締められて、抱き着いて。
ふたりで、ずっとそうしていた。
そうして、待ちくたびれたバルテルミ殿下が庭まで来た。
「どうやら落ち着くところに落ち着いたようだな。さすが、僕。お前たちは寛大な僕に心から感謝して、次代、兄上の治世のために尽くすがいいよ。あと、ユーセフはリラ嬢に似合うドレスとパリュールのデザインを急ぐように。お前がこの一週間腑抜けていたお陰で、彼女の誕生日に間に合わなかったら、絶対に許さないからな」
どうやらリラ嬢というのは、バルテルミ殿下の想い人のようだった。
伯爵令嬢だというその人は、王子妃になるには爵位が低いということを気にしていて、なかなか殿下を受け入れてくれないらしい。
「彼女が引かない程度に豪華すぎない、けれど彼女の可憐さと優しさを最大限引き出すデザインにするように」などと、次々と条件を挙げていた。
「必ず。納期に間に合わせるとお約束いたします」
「申し訳ありませんでした」
ふんすとばかりに胸を張るバルテルミ殿下に、ふたりで頭を下げる。
偉そうな態度をとる殿下のその耳がちょっと赤くなっている。
あの日も、間近で見ればこんな風に微笑ましい会話であったのだろう。
こんな口調ではあっても、ユーセフは殿下に大切にされているのだ。
それにしても、ふたりの会話の中で騎士であるユーセフに対する要求として不可解な部分がある。
疑問が顔に出ていたのだろう。ちょっと恥じらった様子で、ユーセフが教えてくれた。
「実は、イヴェット様と会話ができなくなってから、あなたの絵を描くようになったんです。その時、こんなドレスを着せたいとか、似合いそうなアクセサリーを考えるのが楽しくなってしまって。それはそれで描きためていたのです。そうしたらそれをバルテルミ殿下に見つかって。それからずっと、……デザイナーのような真似もさせて頂いているのです」
真っ赤になって告白したユーセフはかわいらしかった。
「ではたくさん贈って頂いたドレスやアクセサリーたちは、もしかして?」
「えぇ。私のデザインです。……気持ち悪いですよね」
恥じ入る様子のユーセフに飛びついた。
「とても素敵だわ。あなたが私の事を考えてデザインしてくれた物を贈ってくれていたなんて。なんてロマンティックなの!」
「おい、いちゃつくなら僕が帰った後にしろ! いいや、リラ嬢のデザインをしてからだ! 分かったな、ユーセフ。おい、僕の言葉を、聞けよ!」
✿——— コミカライズ記念♡感謝SS ———✿
『甘いデート』
鏡の中で広がったスカート。裾が揺れる度にビジューがきらきらと光る。その美しさに目を奪われる。
「綺麗」
まだ揺れている裾を見下ろし、そっと指で撫で下ろした。
「あれだけお金を使い過ぎないで欲しいと伝えておいたのに。まったくもう」
そんな風に怒ってみせたけれど、後ろにいる侍女たちにはイヴェットの気持ちなどすべてお見通しなのだろう。生温かい視線を感じる。けれど、それには気付かない振りをする。
昨日また新たにユーセフから届けられた紺色のワンピースドレスは、身体のラインにフィットしたトップに対して、腰から広がるスカートのラインがとても美しい優美なものだった。
「素敵。こんなに素敵なドレスを、ユーセフ様がデザインされているなんて」
彼の髪の色を写し取ったような冬の空の色のような紺は清廉で、派手にならない程度に裾へ彼の瞳の色である紅いビジューを使った刺繍が施されている。
刺繍のモチーフは、もちろん艶つやで美味しそうな葡萄だ。
幼い頃の出会いをいつまでも大事にしてくれていたのだと思うと心がいっぱいになる。
ふたりにしか通じないエピソードを使って、イヴェットに着せてみたいデザインとして考えてくれた美しいドレスを前に、イヴェットの胸の高鳴りは激しくなるばかりだ。
彼そのもののようなワンピースドレスを身に纏って欲しいのだと告げられているのも同然で、気恥ずかしくて堪らないのに、とても誇らしくもある。
「イヴェットお嬢様、とてもお似合いです」
「ありがとう」
イヴェットの一方的な誤解により、一時はペルティエ侯爵家が一丸となってユーセフを目の敵にしていたこともあった。
だがすべての誤解が解けた今は、皆がイヴェットとユーセフの恋を応援してくれている。それが嬉しい。
「今日のお嬢様を見たら、ユーセフ様はまたお嬢様に惚れ直してしまわれますわね」
「えぇ間違いないです」
「もう。馬鹿なことばかり言わないで頂戴」
真面目な顔をして断言する侍女たちを諫めたけれど、想像してしまって頬が赤くなっているのがバレない訳もなく。微笑ましそうに笑われて、より頬が熱くなった。
「さぁ。この髪飾りを留めたら、完璧ですわ」
ぱちん。緩く編んだ髪に、紅いルビーが輝く髪留めを留めて貰った。
鏡の中のイヴェットは、頭の天辺からつま先まで、ユーセフが用意してくれたユーセフの色を身に纏って居て、とても幸せそうに笑っている。
自分が笑おうとしていないのにもかかわらず、だ。
侍女たちの生温い視線を受けて顔を引き締めようとどれだけ頑張っても笑顔になってしまう自分は、どれだけユーセフに愛されているのか。
それに報いることが自分にできているのか。イヴェットには分からなかった。
今日は、イヴェットとユーセフが正式な(と言ってもペルティエ侯爵家とダラティエ伯爵家の間で交わされた婚約なのだから最初から正式なのだけれど)婚約者となってから初めてのデートとなる。
もう何度もふたりで出掛けているのだから今更と言われるかもしれないけれど。
「決めたわ。私、絶対にやり遂げてみせる」
***
「お迎えありがとう、ユーセフ。今日、ご一緒できるのを楽しみにしてました」
こっそりと頭の中で何度も繰り返し練習しておいた挨拶を口にする。
指の先、口角を上げる角度、目元の弛ませ方、すべてに神経を行き渡らせた渾身のお出迎えだったはずなのに。
肝心のユーセフはイヴェットを視界へ入れたそのままの状態で固まっていた。
「あの、ユーセフ?」
「……」
声を掛けても返事すらない。動こうとしないユーセフに不安が募る。
(ウソ嘘! なんで何も言って下さらないのかしら。もしかして、私ったら何か粗相をしてしまったというの? なんてことなの!)
その失態がなんなのかも分からないなんて、あまりにも至らない自分に眩暈がする。
けれど、まだ今日のデートは始まったばかり。
それにずっと思い悩んでいるばかりだったけれど、ずっと練っていた計画を決行すると決めたばかりだ。初手でいきなり諦める訳にはいかない。
「ごめんなさい!」
覚悟を決めて深く頭を下げた。
「……あの、訳も分からず謝罪されてもより不快さを増すだけだと分かってはいるの。でも、私、ユーセフに無視されるような何を仕出かしてしまったのかも分からないの。本当にごめんなさい」
自分がされたら一番嫌な謝罪だ。けれど、これほどまでにユーセフの機嫌を損ねてしまったという事実だけで謝罪するに足りると思う。理由が分かるまでなどと悠長なことを言っている場合ではない。
「え。あ、いえ。違うんです! その、俺の方こそすみません。顔を上げて下さい、イヴェット様」
「あ!」
「え?」
ガバっと顔を上げたすぐ近くに、ユーセフの紅い瞳があった。
まるで宝石のように綺麗な瞳だ。
幼い頃に、おいしそうだと思ってしまった時と同じ。つやつやできらめいていて、イヴェットだけを見つめていた。
途端に恥ずかしくなって顔を背ける。
「や……約束、守って下さい、ユーセフ」
搾り出すようにして声に出すと、顔を真っ青にして震えつつも、約束がなんのことなのかすぐに伝わったようだった。
「え、あ……はい。その……い、イヴェッ、ト」
「はい」
返事をする顔が笑みにふにゃりとほどける。
敬称なしに名前を呼ばれるだけで、何故こんなに嬉しくて、胸が高鳴るのだろう。
侯爵家の令嬢として鍛えぬいてきた筈の表情筋がこれほどまでに言うことを利かないなど初めての経験だ。
(多分、私、すっごく間抜けな顔をしているわ)
勝手に弛んでいく目元と口。それでもそれは不快という訳ではなくて、幸せという言葉がぴったりだ。
「その……イ、イヴェットが、あまりにも美しいので。俺が考えたドレスと宝飾品たちが、想像以上にイヴェットに似合っていて。嬉しすぎて。あぁ、想像していたより似合ってて、本当にきれいで幸せで。あれ、俺ってば同じこと二度言いましたね。でも本当に嬉しくて堪らなくって」
真っ赤になって行きつ戻りつしつつしどろもどろに言葉を探し伝えるユーセフの、その言葉の意味がじんわりとイヴェットの頭に沁みてくる。
そうして、言っている意味がしっかりと理解できた時、目の前にいるユーセフと同じくらいイヴェットの顔も真っ赤になった。
***
『百年に一度咲くという花は終わってしまっていたけれど、その実がその樹に生ったそうですよ』
情報を仕入れてきたユーセフに誘われて植物園へと向かう。
しかし、熟すどころかその実はまだ青くちいさすぎた。
大きく繁った葉と花が散って残ったガクの内側に隠れていて、見えたと言っていいのかも分からない状態だった。
(せっかく連れて来て貰ったというのに、どんな感想を話せばいいの?)
途方をくれたイヴェットがそっとユーセフを見遣ると、彼は自分で『実を一緒に観よう』と誘った癖にまったく樹を見上げていなかった。
一心不乱にイヴェットだけを見つめていて、声を掛けるのすら躊躇してしまうほど熱い視線を向けられている。
そんなことに気が付いたイヴェットは、もっと何も言えなくなってしまった。
顔を真っ赤に染めながら顔をそむけるイヴェットの横顔を見つめるユーセフという、傍から見たら何をしているのかという状態のまま、花もない樹の下で、ふたり立ち尽くした。
そうこうしている内に午後のお茶の予約時間になってしまい、慌てて移動することになったせいで馬車の中ではずっとユーセフが「すみません、本当にすみません」と謝罪を繰り返してくる。イヴェットは「私も、時間に気が付かなくてごめんなさい」と返し続けることになった。
結局お店の前に着くまでずっと謝罪合戦となってしまったままだった。
道が混んでいたこともあって、ふたりは予約時間に遅れてお店に到着した。
老舗のお店でもあったので丁重な態度で「大丈夫ですよ」と受け入れてくれ席へ案内してくれた。
だが非常に残念そうに「ただ、大変申し訳ないのですが、次の予約が入っておりまして、お時間の延長は出来かねます。申し訳ございません」と深々と頭を下げられてしまった。
人気のあるお店でもあるので仕方がないというか、当然のことだ。
そもそも遅刻した自分達が悪いのだ。むしろ急かせて申し訳ないとこちらからも謝罪をして、ケーキと軽食のサーブを受けた。
王都でも人気があるお店なだけあって、ひと口サイズのサンドイッチやパイもバターの香りがよく中のフィリングも卵や冷製肉が柔らかくて美味しかったし、繊細で愛らしく飾り付けられた旬の果物を使ったケーキは口の中でほろほろと溶けるように甘くて美味しい。
香り高く淹れられたハーブティで咽喉を潤し、「どれもとても綺麗で可愛いのに、すっごくおいしいわね」と微笑むと、ユーセフが「ほんとうだ。きれい」と棒読みで答えた。
そうして気が付いた。ユーセフは口元へ食べ物を運んでいるように見えて、まだ何も食べていなかった。
最初に摘まみ上げたサンドイッチを持ったまま、その手も口も、まるきり動いていない。
「ユーセフ?」
いや、ちいさく何かを呟いていた。
「イヴェットが美味しそうに食べているとこ、かわいい。笑顔、きれいだ。最高にかわいい……」
「!!」
またしても、どうしていいのか分からなくなってしまったイヴェットの手も止まる。
結局そのまま予約の時間は終了となった。
お店の好意で手の付けられなかった残りのケーキやスコーンなどは包んで持ち帰るようにして貰った。
なにしろ捨てて貰うのも申し訳ないくらい(主にユーセフの分は)ほぼ手つかずだったのだ。
いろんな意味で申し訳ないので、その他にお土産用のクッキーの詰め合わせなどもいろいろ購入してふたりは店を出た。
「ごめん。俺のせいで」
「ううん、いいのよ。この道の混み具合では公園に着いた頃には帰らなくてはならない時間になっていそうだもの。仕方がないわ。今日の王都がこんなに混んでるなんて、誰にも分からなかったことだわ」
久しぶりに暖かく晴れた休日だからかもしれない。王都の人手は常になく、行き交う馬車の数も多かった。いや、多過ぎた。
カフェを出た時点で、あまりにも道が混んでいたので続いて散策するつもりだった川辺の公園には行かなかった。
「あの、本当はこの後川辺の公園へいって散策するつもりだったんですけど」
「けど?」
「……やめておきましょう。こんなに道が混んでいるとなると、公園に着いた時点で帰路につかないといけなくなります」
窓の外の景色はほとんど変わっていない。
ふたりの乗る馬車は、まだカフェからひと区画すら動けていないのだ。
この混雑が続くなら、公園へ着いてすぐに帰路についたとしても、ペルティエ侯爵へ約束した時間を過ぎてしまうかもしれない。
破棄寸前まで行った婚約の継続が叶って初めてのデートだ。門限を破るような失敗を仕出かして信頼を失いたくないのだろう。当然だ。
「そうね、またの機会にしましょう」
「すみません」
「私達、婚約しているのですもの。次回のお楽しみということにしましょうよ」
「そうですよね」
そういって笑顔を作りあったものの、ユーセフの顔は憂鬱そのものだ。
このデートは失敗だった──そんな風に落ち込んでいるのが、イヴェットへ伝わってきて辛かった。
どうすれば雰囲気を持ち直すことができるのか分からないまま、馬車はペルティエ侯爵邸に向かって走り続けた。
いや、実際にはかなりゆっくりした速度だったが。
***
約束の時間よりかなり早めに(とはいっても公園に寄ったり散策するには時間が足りない程度ではあるが)、イヴェットはペルティエ家まで送って貰った。
「今日の俺は、本当にダメ駄目でしたよね。……うまくエスコートできなくて、すみません」
しょんぼりしながらユーセフが頭を下げた。
確かに、今日のユーセフはいろいろと駄目だった。イヴェットとの会話は続かず、段差に足を引っかけ転びそうになり、カフェではほぼ何も飲食せずに時間切れになった。
それでも──
「楽しかったわ! ユーセフが、ずっと私を見つめてくれて。嬉しかった」
「イヴェットさま」
「もう。また“様”ってついてる!」
「あっ。す、すみません、いやゴメン、い……イヴェット」
下から覗き込むようにして視線を合わせて微笑むと、ユーセフも、笑ってくれた。
ユーセフの綺麗な紅い瞳に、イヴェットが映り込んでいる。
自分でも間抜けだと感じる令嬢らしからぬ、気の抜けた、でもとても嬉しそうな笑顔をしていた。
だから、今なら伝えられると思ったのだ。
「あのねっ」
「はい?」
「好きです、付き合って下さい!」
「?!」
がばりと頭を下げて、右手を差し出す。
勢い込んだ口から飛び出していったのは、散々頭で考えてきた物とはまるで違う、直球すぎるもの。
「嘘告を唆されていると思った時、私はあなたならきっと正しい行動を取ってくると信じていた。その信頼を裏切られたと勝手に裏切られた気持ちになってしまって。それでも、そんな気持ちすら吹き飛ばすほどユーセフは私を大切にしてくれて。嬉しかった。本当はずっと、あなたに憧れていたから」
「え、イヴェットがおれに、憧れてた? え、あっ! お、俺達まだ付き合ってもいかった? え、これまでのは、全て俺の、ゆめ?」
呆然とするユーセフの手を、イヴェットは勢い込んで握りしめた。
「わたしと、結婚していただけますか?」
──あら、私ったら『いつか』って言うの忘れてしまったわ。
緊張しすぎ気負い過ぎている自分に笑うものはあるけれど、それでもどうしても告げたかった自分の気持ちを口にできてイヴェットは満足だった。
「は、はひぃ」
ぷしゅぅと音がしそうなほど真っ赤になったユーセフがその場にへたりこむ。
手を繋いだままだったイヴェットまで一緒に巻き込まれるように、引き寄せられた。
地面へと座り込んだユーセフに、抱きかかえられるように。
「うれひぃれしゅ」
瞳だけでなく頬までも、あの甘くておいしい紅い葡萄のように染めたユーセフが笑う。
それが嬉しくて、イヴェットはユーセフの腕の中で頬を摺り寄せた。
「こ、こら! ユーセフ殿、離れなさい。イヴェットも、節度を持たないか!」
「お、お嬢様?!」
出迎えてくれた父や使用人たちが後ろで騒いでいたけれど、イヴェットは幸せすぎて離れたいとは思わなかった。
お付き合いありがとうございました!
このお話は、Xで募集した
#フォロワーさんが私に作ってみてほしいキャラの要素が知りたい
というタグに寄せて戴いた
「 ハイスペックなのに好きな女性にだけIQが3みたいになるヒーロー」
という素敵なリクエストを受けて書かせて頂きました。
楽しく書きました♡ありがとうございましたー♬
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束原ミヤコ様(@arisuthia1)からイヴェット嬢とユーセフのイラストを描いて頂きました♡
すごい!! かーわーいーいー!!!!!
最の高じゃないですか❤
甘くて素敵なふたりを、どうもありがとうございました!
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comicスピラ様『一途に溺愛されて、幸せを掴み取ってみせますわ!異世界アンソロジーコミック10 』
表紙ill:盧先生♡
超絶美麗絵の表紙が目印です!!
こちらのアンソロジーコミックにて、コミカライズ版タイトル「嘘告された侯爵令嬢イヴェットの偽りの婚約期間」と改題して、餅守 楠先生の愛らしい作画でコミカライズして頂きました!
内容も漫画として伝わり易いよう、すっきりと読んで楽しんで貰えるように編集部さまと餅守先生の手で再編集して頂いております。
滅茶苦茶かわいく生まれ変わったふたりを是非応援してください! すっごく可愛いのです♡
そしてバルテルミ殿下も可愛く描いて貰いました!! 感動ものです。
是非その目で確かめてみて下さいませ。
よろしくお願いしますー♡