5:さいしょの神様
宙から降りてきたその人は軽い音を立てて暁の目の前に立った。
自分の身長より高いその人をすこし顎を上げて見上げると、彼は懐かしむような眼差しで暁を静かに見つめてきた。
青年期に見えるその姿とは裏腹に、見たままの年齢でないことだけは第一印象からもわかった。
白布に白糸で意匠を凝らした細やかな刺繍をほどこされた長衣は、彼の神聖さを際立たせていた。
彼は右手をするりと伸ばすと、暁の左頬に触れ、前髪を左耳に掛けた。
あらわになった暁の群青の瞳を見つめ、納得したよう微笑むと小さく頷き、彼はぽつりとつぶやいた。
「何か視た?」
優美に笑うその顔は、自愛に満ちているというのに、言葉の音は背筋が凍るほどに冷たいものだった。
『何か』とはきっと、あの藤色の花の木の下にいた人のことを指すのだろうことはわかる。
「何か・・・とは?」
「相変わらず、賢い子だね。わざと何を指しているかわからないフリをして、僕の意図を探っているね?」
探ったところで、もう答えを見つけている相手には嘘をついても無駄で、これ以上「あの人」の情報を引き出すことは無理そうだ。引き際を間違えると大変そうな感じをひしひしと感じるので、暁は一呼吸おいて口を開いた。
「人が、居た。のは、わかった」
「誰?」
「今、オレの目見て確認したろうに。人だというのが分かっただけで、あとは、なにもわからなかった」
まるで誰かに目隠しされたように、わからなかった。認識ができなかった、というのが正しいかもしれない。
「うん。良かった、効いてて。まだ早いからね。」
「効く?早い?」
暁の思考を置き去りにして、彼はこの世の春とばかりに笑った。
「君は、まだ知らなくて良いことだ。なんたって、僕は、まだ許していないからね。ところで」
言葉を切って彼はまじまじと暁の顔を眺めた。
「今世も美人で男前だけど、相変わらずというかなんというか、この状況で少しも動じないね。『ここはどこ?』とか、『お前は誰だ?』とか、疑問はないの?」
話をはぐらかしてきた事は分かった。
『効く』とは何のことか、『まだ早い』とは何を指すのか?聞きたいことはあったが、先刻の探り合いの会話でも感じた通り、情報カードを出す気がない相手に、この時点でそれを尋ねるのは時期尚早だ。
彼は自分を知っているらしい。今の状況は、相手はホームで、自分はアウェイだと理解する。
「特には、あ」
暁はひとまず会話を合わせることにした。
「オレの今の名前は、真行寺 暁。あなたの名前を聞きたい」
「僕の大切な一番星は、今も変わらず礼儀をわきまえているね」
その『大切な一番星』というフレーズは、いったい何なのだ?暁の眉間が1ミリ寄ったが、彼は気にしていない風に続けた。
「僕は、天狼———セイリオスとも呼ばれている。呼びやすい方でどうぞ、アカツキ」
ひとまずお茶でも飲もうか。と、彼は本の山に埋まるテーブルの中で唯一テーブルとしての体裁を保っているここから大分遠い卓を指さし、暁の手を引いた。
椅子を引かれたその場所は、大きな窓からやわらかい日差しが差し込む一角のひとつだった。
窓の外は、どういうことかわからないがそこはには凪いだ大海原が広がっていた。
紺碧といっていい、深い青だ。
その色からもこの海の深さがわかるというものだが、この目線で、海と、窓。船でもない限り、この風景は拝めるはずもなく、そして、ここは確実に船ではない。
何故なら―——。自分へのツッコミで、暁は窓から部屋の中に視線を漂わせ、上を見上げた。
本棚は、天に向かい、高く聳え立っている。それはもう、凄い高さだ。
ここへ移動する前の場所は、3階位まで吹き抜け程度で天井があったのは確かだが、ここは違う。
最上部など霞んで見えない。
先程までいた世界の常識は即刻捨てた方が良いな。ここはもう世界が違う。
暁は即座に100回目の人生を生きた世界の常識を宇宙の彼方に捨て去った。
何事も経験である。
自分で選んだわけではないが、伊達に100回も違う世界を渡り歩いたわけではないのだ。知らない世界を受け入れるコツは、理解より、諦めである。
しばらくすると、お茶セットに茶菓子も載せたカートが、カラカラと音を立て、彼らのもとへやってきた。
「自動?」
「魔法だよ」
科学の世界にいたのだものね。と、彼はティーカップを暁の前にサーブした。
「やっとひと息つけるよ」
自分のティーカップに静かに口を付けて、こくりとそれを喉に流すと、彼は静かに続けた。
「本当に無事で、良かった。生身でゲートを潜るなんて、自殺行為がすぎる。本来はゲートは体を捨て、魂のみで通るものなんだよ」
注意事項を今聞いても、時すでに遅い。これで死んでいた場合、自分はここには来ていないのだろうか。
「どのみちここには来ていたとは思うけど」
表情の出ない暁の真意を読むのはスイだけだと思っていた暁は、通常より開いた目で、天狼—セイリオスを見た。
「僕が君を手放すことはないからね」
ふふ。と何も読ませない笑顔を振りまき、天狼は暁の前髪を指先で滑らした。
「僕は、世界を作っている」
天狼は、周囲をぐるりと見渡した。
「でね、作った世界を忘れてしまわないように、記録して、保管しているんだ。ここにあるすべてが僕の作った世界。今も生きている世界と、もう終わってしまった世界もある。生きている世界はまだ整理できないから、君が現れたあたりに積み上げていて、終わった世界は、本棚へ仕舞ってる。ああ、君の過ごしてきた世界ももちろんあるよ」
「全部?」
これにはちょっと驚いて、暁は口をついて尋ねてしまう。
「全部ある。探してみるといい、98冊読むとなると時間がかかるだろうが、君の生きた世界の始まりから終わりまで・・・まだ、続いている所もあるけれどもね」
「98冊?」
「そう、98冊」
「99冊では、ないのか?今のオレは100回目の転生だ」
「だって、初回は、読んだでしょう?」
「・・・え?」
100度の転生で99回の記憶を持つ自分が、唯一持っていない、覚えていない『初回の記憶』。
それを、読んだ?
覚えがない。とまで考えて、何かがちりりと頭を焼いた気がした。
「今、君が来た世界で読んだはずだよ。そう、道筋をつけた」
天狼は暁の群青の瞳を見つめて、静かに、幼い子供に絵本の読み聞かせをするように言葉を紡いだ。
「むかしむかし、世界がまだなにもない真っ暗闇だったとき。
さいしょの神様は、なにもない闇の世界に、自分の魂のひとしずくをおとしました」
六つに分かれたしずくは六匹の竜となり
なにもない世界の神様となった。
「・・・あれは・・・あなたが、さいしょの神様、なのか?」
さいしょの神様の名は『天狼』。
暁の100回目の転生となった世界のある国では、狼のように鋭く青白く輝くことから『天狼星』と呼ばれ、またある国の神話では「光り輝くもの」「焼き焦がすもの」の意味をもつ『セイリオス』と呼ばれる、夜空で一番輝く星の名だ。
暁の群青の瞳に、うすい赤が星のように散り始める。
その瞳を見つめて、天狼は満足げに笑んだ。