六十五話
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その男が、亡者から蘇り、最初に求めたものは鏡と紅で、最初にしたことは、まず化粧だった。
歩き出す前から、美貌を褒められて育った。
すくすくと、天女のごとくと謡われた。見目麗しさを買われ、時の天帝にも御目通り叶ったこともある。
妻がいた。
特別美しいわけでもない、小太りな女だったが、甘く透き通る声をした女だった。
それぞれ十四と十で、家のために引き合わされた縁だった。
「比翼の鳥となりましょう」と、口先だけで言葉を交わし、形ばかり夫婦となった。
男は十七のころ瘧鬼(※熱病を司る神)に見初められ、美貌の肌にあばたという影を負った。
妻は、美しい声で笑った。
「これでずいぶん扱いやすい夫になりました」と、笑って、笑って……「よく生きてくださりました」と、言って、閨にひざまずき、男の頭の上で涙をこぼした。
まことに比翼の鳥になった。
二十八のとき戦が起こった。
二十九の夏、息子を二人、立て続けに亡くした。
三十二の冬、戦場で五番目の娘が、嫁ぎ先で自害したとの報が入る。娘は婚礼から二月と経っていなかった。葬儀には出られなかった。
三十五の春。
敵軍の将の捕虜に落ちる。
あばたが醜いと、左の顔に火をかけられる。
翌夏、仲間の手のものにより、這う這うの体で故郷へと戻る。
療養をし、季節を一巡りしても、家に帰る許しが出ない。
妻からの文に、想いがつのる。
最後の文には、束ねた七人分の髪と、妻の紅が入っていた。
「疫と魔と避けましょう」と、妻の柔らかな手が、おのれの目元に紅を差す夢を毎夜見る。
閉じた目蓋の裏、忘れられぬことが多すぎる。
帰りついた屋敷の焼け跡には、家なき者たちが居付いていた。
乾いて晴れた青い空。
その下にただよう腐臭。
河原に並んだおびただしい磔の中から、妻の襦袢の色を探してさまよう、幽鬼のような我が身の足。土の色。
乾き、縮んで痩せた妻の尖った爪の形。目蓋から溶け出した目玉。空洞の暗さ。
そこに群がる卑しい虫や鳥獣どもの血の色。
その美貌は天女のごとくと謡われた。
あばたのうえに火傷を負い、左の視界と妻子供を失ってから、戦場を駆ける姿は鬼神のごとくと謡われた。
八十二まで生きた。
(忘れるものか。忘れるものか)
―――――人生の大半を費やし、憤怒と復讐を、誰より親しい朋とした。
この男は、そういう男だった。
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「えッ! うっそだろォ! 黒いのが死にやがった! 」
『赤い戦士』は口を丸く開けて驚いた。赤い髪が風にまくれあがる。
「私もあっちに行きたくなってきたなア」
小指で耳の穴をほじり、ため息を吐く。
『黒い騎士』とは対照的に、この戦士は粗野で、体のどの部位も太くて大きい。腰には剣があるが腕にたずさえているのは棍棒で、これで殴り殺すのが生前から染み付いた戦い方だった。
「なあ、アポなんとかよ。私はあっちに行きたいんだが」
「呆れた輩だ。さきほどまで、こいつは自分がやるだの手を出すなだのと喚いておいて」
アポリュオンはそう言うとむくりと起き上がり、貌の無数の目で戦士と、その足元に這いつくばる男を見下ろした。
ジーン・アトラスは、もはや動くこともできない。ぎらぎらとした視線だけが勇ましい。
「だってこいつ、骨が無いんだよな。あーあ。黒いのみたいに、ちっこくて細くても戦える男だと期待してたんだが」
「こいつはただ『王』だった男だぞ。王が身一つで戦うことはない。王は武勇を誇る必要が無かったのだ。こいつは軍を率いた経験も無い」
「ふん。じゃあただ玉座にいただけの男か。そんなやつを、どうしてあの女は蘇らせたのかね」
「考えがあるのさ。……さて、もう十分だろう」
アポリュオンは、かたわらに置いていた鎖をじゃらりと拾い上げた。
「カマエル。気が済んだのなら、これでそいつを縛って仕事を終わらせろ。それからだ」
「はぁい」
赤毛のカマエルは、飛ぶのが好きだ。冥界の炎を踏みつけに高いところに立つと、世界を踏みつけにするようで心地がよかったから、この男はこの体で蘇ってからというもの、空を飛ぶのが楽しくて仕方がない。
生前、孤児だったこの男は売られるように、母国が運営する『奪還軍』と呼ばれる遠征軍の数合わせとして聖騎士見習いとなった。
『奪還軍』の目的は、先祖が奪われたとされる聖地の奪還。しかしその記述上の『先祖』は、侵略してきた民族が滅ぼして久しく、ようするに『聖地奪還』は略奪のための大義名分でしかなかった。
そんな軍に育まれ、まともな信仰心が宿るわけはない。
農奴の生まれの子供は過酷な行軍と略奪を繰り返す生活に水が合った。洗礼を受け、正式に僧となるも、それは名前だけのもの。旅の道すがらに宿った信仰心は、剣ではなく棍棒で殴り殺すための大義名分となった。
カマエルは、純粋に戦うことが好きだった。いたぶることも好きだった。
間違った正義を、間違っていると割り切って、欲望のために利用する悪辣さも備えていた。
「この世界にあふれる今の人類は、全部異教徒ってことでいいんだよな? 」
「おまえから見れば、そうだ」
と、アポリュオンが言う。
「じゃあ、どれだけ殺しても、私の神は私をお赦しくださるな? 」
「おまえがそう思うのなら、そうなのではないか」
と、アポリュオンは頷く。
「いい世界だなア! 」
大きな口を開いて、カマエルは少年のように破顔した。
魔術師と、魔術師が徴集した過去のつわものたちの共通点。
この三人の亡者、そしてアポリュオンは、無垢なる衝動によって集い、繋がっている。
その核を人類でいちばん最初に『怒り』を知った人物に託すというのは、非常におもしろみを感じる試みであった。生前でもこんなに楽しいことは無いほどに。
『魔術師』が……いや、星の娘が、冥王の宝物庫から盗み出した『黄金の人の遺灰』は、豪奢なつくりの陶器の小瓶に収められていた。卵のような純白に、入れられた墨は瑠璃。柄を縁取る金銀と金剛石。宝石をあしらった蓋は、冥界の炎で溶かした金泥で、厳重に封印されている。
懐にしまいこみながら、黒い男が思ったのは、「こんなものか」という感想だった。
神の宝物庫にこめられた小瓶は、たしかに美しかったが、生前いくらでも見たものとそん色なかったからだ。
星の娘は「そんなものですよ。見た目に騙されてはいけません」と言って笑った。
若い娘のくせに、やけに枯れた声をした娘である。低い声色は、酒焼けした老婆のようだった。
仕込みは完璧といえた。
材料となるのは、『混沌の泥』を含む語り部の『銅板』。その主人である人間の持つ『怒り』。
『混沌の泥』によって、炎になって吹き出した怒り。そこに、『遺灰』を注いで、『黄金の人』を復活させる。そうして顕れる『黄金の人』が、優れた指導者であっても、腰抜けの原始人であっても、どちらでも良かった。
ただ期待しているのは、『黄金の人』の持つであろう『怒り』である。
その『怒り』が、この世界全てを焼き尽くすことを、、亡者たちは心から期待していた。
カマエルは飛び去り、アポリュオンは鎖を引いてどこかへと歩き出す。
そして魔術師は、それを城の塔――――そう、あの鐘楼で、水盆を手に見ていた。
そこからは、城の上に浮かぶあの紅の花もよく見える。ままごとに夢中の童女のように、ぺたんと尻をつけ、にこにこと降り注ぐ火の粉の雨を眺めている。
「もうすぐお会いになれますね」
少女は頬を紅色に染め、誰が聞くこともない言葉をうっとりと呟く。
かたわらに、瀟洒な小瓶が割れて転がっていた。
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