六十三話
老爺語るに、それは遥かな神話の時代、その栄華が散りゆくころのこと。
アトランティスが海に沈む少し前、大陸の砂漠に、豊かな国があった。
大河のほとりにあるその国に、ひとりの娘が生まれる。そこでは名を与えられるのは男児のみ。女児は名無しのまま、嫁ぐまでは父の名を、嫁いでからは夫の名を、自らの所有者として刻まれた。
娘は齢十一にして、美しく成長した。
かの国の王が、娘の美貌に目を止め、宮殿へと迎え入れるほどに。
顔に刺青を刻まれ、王の所有物として宮殿へと召し抱えられた娘は、あまりの美しさに国王の目を眩ませた。
娘は美しかったが、まだ幼かった。
国王は嫉妬深くなり、残虐となる。
母恋しさに贅沢を欲しがらぬ娘に業を煮やした国王は、まず娘の父に娘の母を差し出させ、いわれなき姦淫の罪で処刑する。同じく恋しいと漏らした兄も、母親との近親相姦があったとして、その頸を娘の前に並べられた。
残る父は葬儀代を受け取ると砂漠へ追放され、幼い弟だけが、娘に仕える奴隷として養育されることを許された。
娘はひとり、舌を抜かれたわずかな召使いとともに尖塔へと監禁される。
人々は噂した。
【王の城には星の姫がいる】と。
時ほどなくして、国王乱心の噂を聞きつけた隣国が、大河のほとりに目を付けた。大陸を横断し、海へと続く大河を手に入れれば、臣民の繁栄は約束される。
戦争になった。
統率の取れぬ大河の国は、みるみる領土を切り取られ、国王も討取られる。
すぐさま王弟が即位したことで、大河の国はようやく持ち直し、からくも終戦と相成った。
若き王弟は、非常に聡明な人物であった。そしてその賢さと同じだけ、臆病な男でもあった。
新しき国王は、塔を開き、娘をはじめて目にしたとたん、胸が疼いた。
娘は十五になっていた。
長年の幽閉の中でも美貌に磨きがかかることは止められず、四年の間に憑りついた闇が、よりいっそう娘の魅力に拍車をかけた。
若い王は、胸に覚えたその疼きに怯えた。娘の魅力に怯えた。兄がこの娘に、指一本も触れないまま閉じ込めていたということに褥で気づき、また戦慄した。
そう、娘は次なる王の妃となった。王は怯えたまま、娘の魅力に屈したのだ。
娘はほどなくして、姫を孕む。
姫君は、いまや誰もが忘れた言葉で『星』をあらわす名を与えられた。
そうして――――――生まれてすぐに、あの尖塔に入れられたのである。
大河の王国はもはや姿が無かった。虎視眈々と好機を待ち、英気を養っていた隣国により、あっさりと都は陥落し、星の姫君は喉を突いて自死した。もちろん、国王も後を追った。
大河に住まう臣民は虜囚となり、奴隷となった。隣国は大河を得て増長し、宮殿は異国の王によって娼館へとなり果てる。
星の名を持つ娘は、美貌を約束されているとして、尖塔へと閉じ込められた。
温情という名の、ていのいい飼い殺しの見世物であった。
御付きは去勢された男奴隷が一人。星の娘の母弟、伯父である。
苛烈な環境であった。
少年ひとり、赤子ひとり。
まず、全身に刺青を入れられた娘が三月寝込んだ。僅かな食事を注ぎこみながら、なんとか生き永らえる。
時に食事すら届けられないこともあった。空腹に窓から鳥を釣り、爪で腹を割ると血を啜ってはらわたを呑む。
それでも食事ができないと、少年は自らの血を吸わせ、どうにか生かした。
そんな日々にも、十年で終わりが訪れる。
『混沌の夜』の訪れである。
大河が洪水となって国を襲った。尖塔にいた彼らは無事であったが、こんどは疫病の影が落ちる。さらに、恵みをもたらす大河が干乾び、蝗害が雲となって訪れた。
ひもじさの中、娘だけは生き延びた。伯父の死肉すら食んで、娘はようやく、尖塔から外へとまろび出る。
呪いあれ、と娘は言った。
この世よ滅びたまえ、と娘は祈った。
荒野に立つその小さな体を、蝗の雲が襲った――――。
《……死後、娘の魂は、父親の信仰にもとずいて冥府の慈悲深きネベトフトゥに引き取られた。名を呼ぶものを失った彼女は、今日まで、自我の薄いただの亡者に過ぎなかった。しかし……なにがきっかけだったのか。あるとき、娘は急速に思い出したのだ。生前の怒り、呪いの言葉、血による祈りを――――》
老人はそのまま、本当に枯れ木になったように、杖にもたれてしばらく動かなくなった。
旅装の神が言う。
《……きっかけならば、あの黒い泉であろう》
「黒い泉? 」
《地上の見たい場所が見える泉だ。未練ある霊を慰めるため、魔術に長けた女神が作って隠したのだ。欲する者のみに泉への道は拓かれる》
「その名は」
《……イシス。青き星の化身にして、星を頂く玉座の守り手という意味だ》
アイリーンはドンッとまた石畳を踏みしめた。
「力ある名だ! ありすぎる! そんな魂が地上へみすみす逃げ出したのか! 何をしていた! 」
《……それだけ憐れみに足る娘であった。そして娘もまた、誰かを憐れんだのだ……そう『黄金の子』を。彼の遺灰は、三つに分けられた。ひとつは『銀の人類』を生み出すために使われ、もうひとつは鍛冶神のもとに。そして最後の一つが、この冥府にあった。娘は泉で、かつての『黄金の人』を見た。そして、恋をしたのだ。自分と同じ、すべてを奪われたもの。世界で最初に生まれ、最初に怒りという感情を知ったその人に――――》
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