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【完結】星よきいてくれ  作者: 陸一じゅん
後編 灼銅の魔人

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六十話


 尻もちをついた姿勢のサリヴァンは、立ち上がるのではなく、横に転がることでアポリュオンの砲弾のような拳を避けた。

 しこたま打ち付けた右の脇腹がじくじくと痛む。

 転がった勢いで立ち上がり、前のめりに駆けだす。


「――――ジジ! 」

 黒霧がサリヴァンの体をさらい、大きく跳躍して、寄り合い小屋の屋根に手をかけた。そのまま屋根伝いに走る。煙の白蛇が、霧を晴らしながら先導する。連なる倉庫の屋根を三棟越えたところで、ジジが大きな声を出した。


「サリー! アポリュオンが追ってきてない……! 」

「なんだってぇ!? 」


 はたして怪物は、地面で翼を広げているだけだった。

 おぞましいほど逞しく大きな背中を向け、篝火にぴったりと張り付いて動こうとしていない。サリヴァンの脳裏に、黒い稲妻が閃いた。


「まさか……! 」

 アポリュオンは翼を広げ、腕を広げて炎を囲むようにかざした。


「……来る、来る来る来る来る来る―――――!!! 」

 青い篝火に、泡のように黒いシミが浮かんだ。


 ……ずるり。

 ――――それは、さながらサナギからの羽化のように。


 理性なき空虚に濁った緑白の複眼が、主人にして父の顔を見て、くちばしを激しく鳴らす。

 一匹が炎の中から押し出されると、あとはもうワラワラと、異形の蝗たちがあふれ出した。


 埠頭は驚くべき速度で、黒光りする蝗の羽で埋め尽くされる。ガチガチとくちばしの合唱が響き渡り、その中心にいるアポリュオンは、満足げに腕と羽を広げていた。



 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。


 くちばしの合唱の中に、やがて本当に意味のある言葉が広がっていく


 ――――奈落の王にしてしょくの王。大いなる食事に感謝せよ。

 ――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。

 ―――――食らえ、食らえ、食らえ。


 蝗たちは歯の無い灰色の咥内をさらして、幼児のような声で高らかに合唱している。


 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。いなごの王にして神の毒。混沌の蛇のきょうだいよ。あらゆる食事は赦された。我らいまこそ飽食に耽るとき。目玉を捧げ、前菜に……。


 グウィンらにもその歌声は響いた。

 この国に残ったわずかな耳ある者は、例外なく、ぞっと背筋を震わせる。

 膝が震えて立ち止まりそうになるたび、互いの肩を強く叩いて先を急いだ。



「走れ、走れ、走れ――――! 」

 サリヴァンは舌打ちをして、屋根から身を躍らせた。『銀蛇』を鞭のように伸ばし、埠頭に立つ街灯に巻き付けて地面すれすれを滑空する。


 翅をくつろげ、今にも飛び立とうとしている蝗の背中を蹴り飛ばし、その固い背中を足場に再び飛び上がった。踏みつけられた蝗が、ガチガチとくちばしを鳴らす。

 闘争に白く濁った複眼は、波のようにサリヴァンへとその邪心を向けた。


 サリヴァンは寄り合い場の粗末な扉を蹴破るように中に入ると、余ったトランクをひっ掴む。

 顔を上げて目にしたのは、ぞっとする光景だった。


 窓に、開け放たれたままの入口に、蝗たちが群がって、その腐った卵のような濡れた複眼を向けている。

 棘のついたあしが、中に入ろうと仲間たちを掻きむしる。サリヴァンの脱出口は塞がっていた。


「――――くっそ! 」

 海側と逆の窓に向かって『銀蛇』を向ける。噴き出した炎蛇が、あぎとを開いて窓枠ごと蝗たちの体を半分むしり取った。窓枠の痕に足をかけながら、トランクを開ける。組み立てにかかった十秒と少しの時間が、恐ろしいほどの緊張をもたらした。

 ガチャン! と金具がはまる音がする。


「……よし! 」

 頷き、振り返った瞬間、後頭部を蝗の肢先がかすめるところだった。

 髪が長いままだったのなら捕まっていただろう。鼻先を硫黄と腐臭が混ざった吐息がかすめる。

 くちばしの奥にあるノコギリのような歯列すら、数えられる距離だった。


 『銀蛇』で薙ぎ払い、跳躍する。倉庫とのあいだの細い路地には、葦に似た腰ほどの芯が固い雑草が生い茂り、踏めば跳ね返って、サリヴァンの太腿を真っ赤になるほど何度も叩いた。

 組み立てたばかりの持ち手がじわじわと熱を帯びていくのを感じながら、サリヴァンは祈るように、自分の組み立ての成功を信じた。


 頭の上に影がさす。

 視線を向けるまでもなく、サリヴァンは炎を放った。炎が通ったあとの乾ききった熱風が、サリヴァンの呼吸も苦しくする。

 血のようにどろりとした嫌な汗が、全身を包んでいた。


 ――――ポッ、

 はっとして、手にしたものの先を見下ろす。

 ――――ポッ、ポポポ――――


 先っぽの円柱についた無数の穴から、オレンジ色の火花が散っていた。握りの部分はもう、はっきりと温かい。魔力を吸い、無事に動き出している。


 サリヴァンは安堵のため息の前に、それに跨った。ばねのように跳ね返る葦を蹴りあげ、勢いよく空へと飛びあがる。握りやすいようにくぼんだ持ち手には革のテーピングがされ、繋ぎ目はきちんとはまっているらしく、ぐらつきもない。先から吹き出す炎の勢いもまぁまぁだ。折り畳み式なので、サリヴァンが愛用しているものよりやや細身なのが難点であるが、じゅうぶん飛べている。サリヴァンは前屈姿勢になり、『箒』にさらに魔力を押し込んだ。



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