五十八話
次は朝五時更新です。
●
夜が来る。霧の密度はさらに増し、自分の手元すら白く煙っている。
屋根に上り、毛布を差し出しながら、サリヴァンは白い息を吐きだした。
「ジジ、変わりは? 」
「気温が零下まで下がった。開花の速度はある程度計算できてる。このままなら、満開まで十分間に合う。語り部は? 」
「一晩かけて爆弾の設置に」
「それならキミは休めばいいのに。決行は明日の昼? 」
「いいや、朝だ。夜明け前に儀式は終わらせて、それから動く」
ヒューッと、ジジは口笛を吹いた。
「なんだい。張り切るじゃないか」
サリヴァンは鼻から何度目かのため息を吐いた。
「馬鹿言うな。ここで張り切れなくて、いつ張り切るんだ? 」
●
切った髪は、火口にするのと同じ手順で、油を塗り込んだ上から蝋で固め、一本のロープのようにして、ベルトに挟み込んだ。
何度か素振りをし、袖口から『銀蛇』が淀みない動きで顕れるまでの動作を確認する。
両刃の短剣から始まり―――――片刃、片刃の長剣、両刃の長剣、錐のように細い刺突剣、厚い刃の双手剣、短槍、長槍……さらには死神の大鎌のようなものまで。
霧を裂くように、刃の軌跡が生んだ白い線が、閃いて輝いた。
襟から湯気が立つほどに体を温め、首筋をざらりと撫で、頭が軽いことに気が付く。軽く首を振ると、耳に差し込んだピアスが、チリチリと澄んだ音を立てた。
霧の向こうに向ける瞳の色が強い。白く吐き出された吐息に、腹の内で燃えるものが込められている。
すべてを閉ざして、瞼を閉じる。
それは短い黙祷だった。
夜明け前。
埠頭に拵えたのは、白いクロスをテーブルにかけただけの簡易的な祭壇だった。そこに、潮風で錆びかけた燭台を置き、花を飾り、わずかな宝石と、皿に山盛りにした塩を置く。擦り切れた石畳には、貝殻を使った鳴子をしきつめた。
サリヴァンは『銀蛇』ではなく、石を割ってつくった剣を手に取った。蘇芳色の刃が篝火にぬるりと赤く輝き、熱せられた鉄に似た光沢をみせている。
サリヴァンは極めて伝統的な手法を模倣して、祭壇の前に立つ。皇子たちもまた、サリヴァンの二歩後ろに立ち、祭壇の前に拝している。
サリヴァンは、今度は吐息の色さえ殺してみせながら、瞼を閉じた。霧に遮られ太陽はまだ遠いようであるが、海の端には、もう太陽が手をかけているだろう。その光が届くのがずいぶん遅いというだけのことだ。
太陽も、月も、星も無い。それは今から儀式を行う魔術師にとって、「水が無いままパンを焼け」というようなものだった。
ならば、水のかわりに別のものの力を借りるしかない。
「天支えし偉大なる祖神の姉妹たち、波のニンフの娘たち。アトランティデスよ、血族に加護を与えたまえ……」
塩を掴んで、ざらりと祭壇に広げる。何かを描くような手が、ナイフに触れて血を流した。白い塩粒を染めるように踊る手指の先にある顔は、文字通り傷口に塩を擦りこむことに苦痛を感じていない。祭壇に、血と塩の粒でなる図が描かれる。
『円』は『囲い』。二重の円となれば、それは『調和』を司る。
『三角形』は『循環』。それを二枚重ねた六芒星は、『循環』に加えて『浄化』も司る。
六芒星の中に描きこむ一文字一文字にも意味がある。それらを組み合わせ、魔術師は『あちら』へと語りかける。
ジジは、祭壇の向こう側に立っていた。
海を背に、尖った銅板の欠片を握って、その断面を肌に食い込ませた。
「オルクスのしもべ……————ヤヌスの許しを……—————トリウィアの導きを……—————」
けして大きな声ではない。しかし、聞こえない距離でもない。
サリヴァンのくぐもった声は、霧中に取り残されるように遠ざかる。海を背にするジジは、ミルクのような闇の先、霧のうねりで瞬いて見える赤黒い光を見つめた。
唐突に、強く、生温い海風が霧をさらう。空の向こうで、鳥に似た甲高い音がした。
サリヴァンは、まだ絶え間なく呪文を呟いている。塩が傷口に融けだし、傷を苛む。血で汚れたクロス、赤く染まった結晶、今にも風に攫われそうな篝火から伸びる細い煙。それらが白い暗闇の中に、ぽっかりと漂流している。
霧はのっぺりと、大きな固定された塊のようになって静寂している。しかしこれは、いわば振り子が一瞬止まって見えるようなものだと、ジジは理解していた。
耳からではなく、頭の中で、サリヴァンの呪文が響く。
(「————……ゥズニルの寝台―――――隠された青―――――海に落ちし陽光の君―――――願い――――……黒き岩壁の……せんとして……————ナナボシの―――――」)
「さぁ~て……」
ジジは両手をポケットから出し、揉みほぐす。
「……まずは何が出るかな? 」




