四十三話
「わたしのことは、ぜひとも『ドゥ』とお呼びください」
おそらくそれは、アルヴィンに向かって言われたのだろう。しかしアルヴィンには、頷くほどの余裕もなかった。膨れ上がる恐怖の殻に穴をあけたのは、やはり、ミケの存在である。
「……時を待つのです」
アルヴィンは項垂れるふりをして頷いた。
(……大丈夫。ぼくは必ず生き延びる――――)
しかし、そのミケが言った。
『現実は物語のように脚色されない』と。
両手を広げた『魔術師』を中心にして、溶けだした氷像の姿を逆再生したように、何もない床から『それら』は現れた。
その場に現れた四人の男は、まるで息を吹き返したように、背中を丸めて咳き込んでいる。懐かしいほどに見慣れた姿。
息をしている。
――――生きている!
「兄さん! 父上……! 」
腕を鎖で拘束され、血の気が引いた顔は憔悴してはいたが、傷らしい傷は見当たらない。そのことに、まずアルヴィンは安堵した。
しかしそのアルヴィンの姿にこそ、兄たちは絶句する。
「アルヴィン……! 」
「アル……! 」
「……どういうことだ」
その、斬首刑を待つ囚人のように、首を垂れたままの皇帝が、おもむろに獣が唸るような声を発した。
「この身一つで、貴様らの目的は達せられたはず! 息子らに何をさせようというのだ……! 何を考えている! 」
常は凪いだ泉のように静かな父の激昂する姿を、アルヴィンは初めて目にした。
囚われの皇帝は、足枷の鎖を引き摺りながら立ち上がる。
『魔術師』はじっと、人形のように立っていた。
「……立て。グウィン。この魔術師の前で膝を折ってはならない。ケヴィン、ヒューゴ、アルヴィン――――兄を守れ。グウィンが倒れたら、必ずや、次に引き継ぐのだ。絶やしてはならぬ! 」
次兄ケヴィンが、いまだ整わない調子を押して顔を上げた。
「ゲホッ……陛下……!? 何を仰っているのです……! まるで、そんな……! 」
「ケヴィン、頭のいいお前なら分かるはず。時が来たのだ。始まってしまうのだ。我が一族は役割を果たさねばならん。我が国の名誉とお役目を、あの不埒者から守り抜くのだ! この国は堕ちた! あの者は必ず選ばれる! 」
「今なのですか! 」ケヴィンは悲鳴のように叫んだ。「三千五百年! そのあいだに何も起こらなかったのに! よりにもよって今……私たちの世代なのですか! 」
長兄グウィンが小さく唸った。顔は厳ついが、無口で優しい兄だ。しかし今の兄は、鞘から解き放たれた刃のように恐ろしい。そしてそれ以上に、憔悴しきっているはずの父の、尋常ではない眼孔の強さが恐ろしい。
「父上」
長兄と父の、白刃のような視線が交差する。そこではアルヴィンには分からない『何か』が交わされた。
声色から、フードの下で『魔術師』が満面に笑みを浮かべたのがわかった。
「今夜、予言は果たされる……人類の選定が今、この夜、始まるのです。『皇帝』に座るのは、息子のほうではない。貴方だ。もう手遅れなのですよ、レイバーン。あなたは『最悪』で『最後』の『悲劇的な』皇帝として人類史に刻まれる……」
魔術師が父にむかって、招くように腕を持ち上げた。
魔術師は天に掲げた屍の腕を大きく広げ、声高に歯を鳴らしてみせた。
「開戦だ! 鬨の声を上げろ! そう、お前だ!《《 我が奴隷》》、レイバーン・アトラス! 」
青い燐火がレイバーンに灯る。
ひと塊の青白い火玉となったレイバーンは、咆哮を上げながら舞い上がり、再び人の形を取った。腰を曲げ、虚ろな眼孔を晒し、髭に埋もれた唇が震えながら開く。質量を伴わない滂沱の涙が、老木に突き出た瘤のような頬を伝い、燐火の欠片のひとつとなった。
皇帝は、操られるがままに、とつとつと言葉を紡ぐ。
『――――我は先祖より継承されし選ばれし者。『皇帝』のさだめ持つ魔女の墓守……』
「父上……! 」
『……時は来たれり……知恵の果実はここに熟した……。魔女が交わした神との誓約により、我が名と宿世を以て、ここに、『神の審判』の開、し、をぉお……グゥウ……』
魔術師の指が向けられると、ためらうレイバーンの手が溺れるように泳ぎ、身を捩らせ、顎骨を軋ませながら、皇帝の口が開く。
『……宣言、する、ァ………ァァァアアァァアああああ――――ッ』
しじまのように平らだった墳墓の床が、水面に石を投げ込んだように罅割れ、崩れていく。身を切り裂かれたような父の悲鳴が響くなか、息子たちは、揺れる地面と崩れゆく大地に縋りつくようにうずくまった。
『逃げろ! お前たち! 逃げるのだ! 父の二の舞になってはならん――――』
魔術師が狂声を上げる。
「啓示を得たり! 我が名を得たり! 我が名は今この時より選ばれしもの! 世界を変える資格あるもの! 宣誓する! 我が名は真に選ばれしもの『魔術師』となった!」
アハハハ……――――。
魔術師はローブを脱ぎ捨てる。取り巻く青い炎が、いままさに出来上がっていく瑞々しい体を照らしていた。キャラメル色の肌に巻き付くように、まぶたの淵にまで刺青がほどこされている、若木のような少女の体。
アルヴィンの喉の奥から何かがせり上がる。唇を引き結んで飲み込み、アルヴィンは爪が食い込むほど拳を握った。
少年の胸には決意がある。
ついさきほど、死ぬ気で牢を出た。あのときとは違う決意が、あの浮島のような灯りのなかで、ミケと交わした決意がある。
魔術師は興奮して、こちらを見ていない。よろよろと立ち上がり、
魔術師に向かって足を踏み出そうとした、そのとき。当の魔術師の顔が、アルヴィンを向いた。
魔術師はくるりと振り返って笑んだ。
「そう……次はあなたの番だ」
魔術師がさっと手を上げる。その指先から何かが出て、隣を通り抜けたように感じた。風切り音に導かれるように首を回したアルヴィンの瞳に遅れて、右の二の腕に痛みが奔る。
見開いた瞳に、起きたすべてのことが、つまびらかに晒される。
「アアアアア……―――――」
電池の切れかけた玩具のようにアルヴィンの舌が震える。
「ミケェ―――――ッ! 」
彼が視たのは、アルヴィンの二の腕を掴んでいた手首が、弧を描いて皇帝の足元へと落下するところだった。深緑のローブに包まれた矮躯が二つ折りに曲がりながら飛んでいく。
両断され、二つに分かたれた断面から、血の代わりとなって黒い霞が溢れた。
遅れて、鉄を叩いたような硬質な音が広間に響いた。アルヴィンは足を踏み出し、両腕を伸ばす――――。
目に映るすべてのものが緩慢になった。
胴と足が分かたれたミケは、金色の瞳を見開いて、アルヴィンをまっすぐに見つめている。
ぽっかりと開かれた口の中で、舌が何かを言わんと動いた。
その口からも泥のような霞が吐き出される。
代わりに、千切れた右腕が持ち上がって、アルヴィンに伸ばされた。
魔法が解けていく。ミケを作っていたものが崩れて消えていく。
鼻の先から黒い霞の中に顔を押し付けると、微かな肉体の名残りの抵抗と、古紙とインクと金臭さの混じった嗅ぎ慣れた体臭、その持ち主の囁くような最後の息吹が耳に触れた。ミケの解けかけた体にも、少年の肌の感触が、名残りのようにかすめる。
(わたしはこうなることを知っていた)
あなたが泣くことを知っていた。
最期にあなたの笑顔を見たかった。
こんな顔をさせたことが、わたしの一番の罪だった。
ああ――――どうして神様。この子にこんな試練をお与えになるのですか。
この涙がこの子のさだめだというのなら、わたしはその運命を否定したい。
だってわたしは、どうしようもなくこの人を愛しているのだから。
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