四十二話
●
目を覚ましたアルヴィンの視界は、黒く滲み、色が無かった。
体が揺れている。どこかに運ばれているのだとわかった。
(まだ生きている)
けれどきっと、もうすぐ……。
アルヴィンは思考を振り払い、明滅する視界をあたりに向けた。また地下に戻ってきたらしいことだけが分かる。
(ミケ……)
『……アルヴィン様』
か細いミケの声がする。
(逃げなくちゃ)
ぐわん、と音がして、あたりがわずかに明るくなった。閉じた覚えのない瞼を開けると、そこにはがらんどうの広間が広がっているのが見えた。淡く輝くような白い壁と、奥にある祭壇には、アーチを描く高い天井までつらぬくような、祖神アトラスの像がある。
乱雑に落とされても、もはや痛みは遠かった。
「それがアルヴィン皇子? 死んでいるのですか」
自分の名前を呼ばれて、アルヴィンはその声の主を探して顔を上げた。
纏うのは広間に同化している白灰色のローブ。それは銀と黒の糸で縁取りと意匠を施された布を引きずって、持ち上げた指の先まで、同色の手袋に覆われている。
「おや、生きている」
鼻の下まで垂れ下がったフードの下で、『それ』が笑う気配がする。
「お会いできて光栄です。アトランティス末裔の子。アルヴィン・アトラス皇子殿下」
アルヴィンは首だけを持ち上げたまま、プッと床に唾を吐いた。その唾が真っ赤で、少し笑える。
「……小賢しいなアこのガキ。なあ、殺しちまいたいんですがね、これ」
「……お前はやりすぎだ」
赤い僧兵でも、灰色の魔術師でもない声がする。アルヴィンが探すまでもなく、その長く艶やかな黒髪の、顔の右半分を仮面で覆った男は、死角からあらわれてアルヴィンを覗き込むようにしゃがみこんだ。籠手をはずした冷たい手が頭をまさぐり、傷の具合を見る。
「ほとんど死にかけではないか……かわいそうに。わたしのほうが先に見つけていれば、穏便に連れてこられたものを。運が悪い小僧だ」
「ふふ……でも生きているなら、素材として問題はありません。その月の化身のごとき髪……瞳…………。『これ』ならば間違いない」
黒髪の男が、場所を譲るように立ち上がった。その横顔と仮面の隙間から、肌が大きく爛れているのが見える。こんどは魔術師が覗き込んでくる。醜いされこうべの頭がそこにはあった。
「ねえ、ここは王城のどこだと思います? 」とうとつに、それはアルヴィンに問い、自分で解答した。
「墓場なんですよ」ローブの下の影が笑う。
「この講堂の正体は、王城の地下にある、アトラス王家の古の墳墓。……とはいっても、アトランティス王国では火葬したあとの散骨が慣習だとか? なんでも、人は水から生まれて火に還るとか?ああ、そういえば今は、フェルヴィン皇国というのでしたか。まあいいでしょう。時代は変わる。しかし、すべての枝を辿れば根に集束するように、ここに遺骸が無い事実が、君の不運です。大切なのは、ここがアトラス王家の墓場だということです。ここはアトランティスの皇帝のためにある斎場。儀式上の『墓』。肉体は火にくべられ、材料たる土に還り、魂はこの『場』にあるとして、人は祈る。祈るための……そういう名目の『墓場』。魂がここへと至るとされるのならば、わたしはここに立たねばならなかった。君という、材料を据えて」
「いったい、何を……」
「今回の催しの目的ですか? 魔女との誓約を果たすための準備です。この世を創造した神々の試練を果たすがため、約束された世界改変を賭けた大戦! その戦の準備です! 」
『魔術師』は謳う。
「神の怒りに触れたアトラスの国アトランティス。地の底、タルタロスに沈んだ魔女の墳墓より、雲海を抜けた天空の神殿へ――――鉄の世代の今こそ、魔女と神々が交わした約定が果たされる! 」
広大な広間に反響したそれが、アルヴィンの肌に凍みて粟立たせていく。
「それこそが!王道への筋書き! 魔女の預言をくじき、天上の神々を地に落すのです! 」
そのときだった。
言葉をさえぎるように、広間にいやな匂いのする大風が渦巻いた。
灰色のローブがはためき、上がっていた腕が『興が覚めた』というようにパタリと落ちる。硫黄の臭気をまき散らし、床に積もった埃を舞い上げながら、新たな姿が渦巻く風の中から編まれる。
その醜悪な巨体に、アルヴィンは畏れ慄いた。
「いつまで道化を続けるつもりだ? 神官よ」
――――頭は馬に似ている。
しかし、アルヴィンの知る馬とはかけ離れていた。
巨躯に、ねっとりとまとわりつく硫黄の臭気のする黒い靄。脂光りするような黒い馬頭に、昆虫のような黒いだけの瞳と口を持ち、胴も、腕脚も、三股に分かたれた大木のような蛇身である。醜悪な赤黒いまだらのある鱗は、毒のある茸のようだ。腹は倦んだような黄色みを帯びていて、そこから鋭い棘のついた甲虫の肢が、無数に生えている。背中から床へ黒い皮膜が垂れ下がっているが、それはおそらく、翼のようだった。
「……まあ。出番はまだ先ですよ。アポリュオン様」
「不遜にも我が名を口にするか? 神官ふぜいが」『アポリュオン』は吐き捨てた。
「いつまで待たせる? わが軍は腹ぺこだ! いつまで我が子たちにひもじい思いをさせねばならない? 」
それはねっとりとした卑屈な声色で、アポリュオンに投げかけた。
「三千年待たれたのでしょう? あと二日ほどお待ちいただけませんか」
「不遜な! 」
「しかしあなた様は、もはや奈落の王は返上なさったでしょう? あなたも、あなたの軍団も、わたしの手駒のひとつにすぎないのですよ」
「貴様――――」
床に垂れ下がっていた黒い皮膜がバサリと広がった。
息が止まるほどの硫黄の臭気がたちこめる。馬頭にある濁った黒い瞳が見開かれ、臼のような切れ目のある口が、がりがりと恐ろしい音を立てて鳴った。
「そしてわたしは、『神官ふぜい』などでもない」
相対する『神官』は、何かを持ち上げるように差し出した腕をアポリュオンに向ける。
「よりにもよって、神官などと! どちらが不遜なのか! おしおきです!」
ローブの腕が、持った何かを叩き落すように振り下ろされた。アポリュオンの白目のない瞳が、青紫に濁って『ぐしゃり』と皺が寄る。臼のような歯が、奇妙に歪んで、バグパイプを滅茶苦茶に吹き鳴らしたような断末魔が響いた。
アルヴィンが目を逸らす暇もなく、見開かれた目に映ったのは、アポリュオンが捻じられながら、『圧縮』される姿だった。
空間にまき散らされる水分に乗って、いままでにない硫黄の臭気と、はっきりと腐臭と取れる悪臭が混じり合い満たされる。
『神官』が苛立つ様に肩を上下させ、袖をひるがえすと、あたりに立ち込めていたアポリュオンの名残りともいえる霞と臭気は、なにごともなかったように消え去った。
読了ありがとうございます。
よろしければ、X(旧Twitter)での読了ポスト、お気に入り登録、評価、いいね、ポチッとお願いいたします。




