三十九話
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嫌な夢を見た。
無人の学校をアルヴィンは歩いている。斜陽がさしこむ窓を避けるように、アルヴィンは見慣れた学舎を歩いていた。
(……図書館に行かなくちゃ)
腕の中には、ずっしりと分厚い本が三冊もある。返却期限は二週間も先だったけれど、アルヴィンは早く次の物語に溺れたかった。足並みはしぜんと早くなる。このつらい日々から逃れることができるのは、寮の部屋にこもって、物語を読んでいるときだけだったから。
――――物語は、なんびとも差別いたしません。
アルヴィンのつらい日々を見て、ミケがそう言ったから。
海を越えた先にあるこの学校には、いろんな子供がやってくる。王族も、商人も、貴族も、外国人も。なにを学ぶかも、それぞれ違っている。共通しているのは、幼い彼らが、保護者の意志で学費を持たされてここに閉じ込められているということだ。その子供の意志ではない。
アルヴィンにとって、この学び舎は、望まない競争を強要され、欺瞞と虚飾で身を固めることを推奨する、汚泥の沼のような場所であった。
最初は同級生や勉強への期待があったが、皇子であるアルヴィンに近づいてくるのは、権力に鼻が利く生徒ばかりで、やがてアルヴィンが四男だと知ると、「たいしたことがない」などと勝手に言って去っていった。それでも、いくらか気軽に挨拶できる友達未満のようなクラスメイトはいたのだ。しかし、気付けばアルヴィンは孤立していた。図書館と教室と寮の往復の日々の中、決定的だったのは、ミケと話しているところを見られたことだった。
自分の影と話す。その行為は、アルヴィンの故郷を知らない子供たちには奇異に映った。
――――アルヴィンが想定したより何倍も。
どこから話が湧いて出たのか、アルヴィンの試験結果は、語り部を使ったのだという話になっていた。教師陣にも、なかば疑われていることを肌に感じるようになり、鏡越しの自分の視線すら煩わしいほどに、すぐに誰とも会いたくないと思う日常になった。
悪意ある噂は、悪意ある人を呼び寄せた。たちの悪い同級生。大柄で声が大きく、取り巻きが多い男子生徒。故郷では受けたこともない、悪意と無礼と暴力。暴流する頭の中を鎮められるのは、物語に触れているときだけだ。
語り部であるミケは何もできない。アルヴィンが頼んだから、アルヴィンが部屋にひとりでいても姿を見せない。ときおり陰から手だけを伸ばして撫でてきたり、目覚めるともう一人ぶんの温もりがあったりする。
勉強どころではなくなって、成績がどんどん落ち込んでいった。体調を悪くして、ベットから出られない日も多くなった。
ある日、男子生徒が寮の部屋に押し入ってきた。「暇つぶしに来たんだ」と薄ら笑いで、魔人というものを見せろと迫った。
早く帰ってもらいたくて、見せるだけなら、と応じ、あらわれたミケの姿に、男子生徒はすこし怯んだ。ミケが思いのほか『人間らしい』姿をしていたからだった。
男子生徒は怯んだことに恥じたのか、取り巻きに見せつけるように、冷酷なことを宣言した。
「よくできた人形みたいなもんなんだろ? じゃあ、見えないところはどうなってんのかな」
ボスのいう疑問は命令だ。少年たちの中で次にすることが決まるのが分かった。
やめろ、といつになく強い声が出た。かんたんに転がされ、押さえつけられる。これが本物のフェルヴィンの男なら、逆にこの場を支配していたのはアルヴィンだっただろう。
アルヴィンの胸に、忘れていた感情が、焦りとともに蘇った。
椅子をつかみ、窓に打ち付ける。ガラスが割れて窓枠ごとはじけ飛んだ音に、少年たちは一瞬びくりとした。
「ミケ。戻れ」
アルヴィンは低く命令した。おもちゃを取り上げられて、少年たちは不機嫌になる。
アルヴィンの胸に、薄暗くどろどろとした復讐心が流れ出す。
まだ足らない。こいつらはまだ止まらない。なら僕も、やらなければならない。
寮の窓は、アルヴィンの肩がやっと通るほどだ。アルヴィンは椅子を床に放り投げた。カーテンがはためいている。その裾をおもむろにつかみ、握り締めて、後ろ向きのまま飛び込んだ。
日焼けで褪せた薄いカーテンが、数秒だけアルヴィンの体を宙にぶら下げる。窓の中ではなく、外から悲鳴が聞こえた。誰かが見ている。この部屋は校庭に面しており、夕食まで無人ということはない。そうだ。窓から首謀者の男子生徒が身を乗り出して顔を出した。そうだ、いいぞ。
地面に横たわりながらも、痛みにうめきながらも、その胸には達成感があった。
男子生徒は「あいつが勝手に落ちた」と言うだろう。でもそんなもの、これで誰も信じない。
アルヴィンの夢見た留学生活は、こうして半年を目前に幕を下ろした。
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