三十四話
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サリヴァンが瞼を開けると、そこはまたあの星の海だった。
眠りから覚めたときのような、頭の奥が痺れているような感覚はなく、まるで目を閉じたら夢と現実がそっくり入れ替わったような感覚だった。あたりに建物は無く、足元には心地よくぬるい水が満ちている。ブーツの甲がぎりぎり浸かりきらないほどの水深だった。
ぱちゃぱちゃと水音がして振り返ると、見慣れた背中がそこにあった。
「ジジ? 」
「えっ、サリー。いつからいたの」
「さあな。同時かも」
ジジの驚いた顔が、すぐに不機嫌そうな渋面に変わる。ジジは長年の一人旅で辛苦を舐めた経験からか、計画外のことを強要されることを非常に嫌がるのだ。
「ここどこ? 」
「さぁなあ」
サリヴァンはわざと軽く言って、首の後ろを掻いた。果ての見えない水たまりには、湿気と真水のにおいが満ちていた。
「変な場所だ。すごく変だ。悪いところってかんじはしない。むしろ懐かしいような」
ジジがまた、一瞬だけ顔を驚きに染めた。
「いまボク、懐かしいって言った? 」
「言ったな」
「……きもちわるっ」
ジジは口元を拳でおさえ、忌まわしそうに星々を睨んだ。故郷を探しているくせに、ジジはその場所が悪辣な場所だったに違いないと思っている節がある。
猜疑心に満ちた金の瞳が、この世界の裏を探してぎらついていた。
「……ここを出なくちゃ」
「じゃあ、ちょっと歩いてみるか」
「待って。水深が分からないから、ボクが前を歩く」
「そうだな。……お前がいて助かったよ」
「そうでしょ? ボクほどピンチに心強い魔人はいないさ」
ジジは一瞬でいつもの調子を取り戻し、皮肉気に唇の端を持ち上げて笑った。
他愛もないことを話しながら歩く。話題はジジの好物の、馴染みの肉屋が出す内臓煮込み。しかし話題がどうであっても、緊張感のある道程は速度が上がらない。
「あっ」と、ジジが足を止めた。
「サリー、ここだ」
ジジが右足を直角に持ち上げて何もないところを踏む。「見えない階段がある」
虚空を踏み出したジジは、軽やかな足取りで一気に三段ほど上った。
「……どうなってんだ」
「ファンタジーってことさ。行こう」
思いのほかしっかりとした足場だった。
ぐんぐんと上がっていく。天地の境も分からないところでなければ、あまりの高さに眩暈がしていたことだろう。
もう数えるのも嫌になるほどの段差を上りきると、星々の隙間のような黒い物体が行く先に見えた。それが見えた瞬間、地面が平らになったのが分かる。
「あれが『出口』か」
近づくと、思いのほか小さい。そしてそれが泣いている声が、はっきりと分かるようになった。
うずくまり、押し殺すように嗚咽する子供がいる。
顔をカーテンのように覆って背中を流れる髪は水面を撫でるほども長く、黒々としていて、着ている服もまた闇のように黒かった。
サリヴァンは隣で憮然とする相棒を見た。腰に手を当てて仁王立ちしていたジジは、ため息を吐いて、泣く子供の顔を覗き込んだ。
「ちょっとー。もしもーし」
「ヒャッ」
跳ね上がった子供は、身を縮めてあたりを見渡し、ようやく来客に気付いたようだった。
髪の間から、涙の名残が水面に落ちていくのが見える。金の瞳はまだおおいに潤んでいた。
「キミは? 」
「わ、わたしは、『宇宙』にえらばれしもの……」
「名前は? 」
「な、なま、え? 」
きょとんと立ち尽くす『宇宙』を面倒くさそうに眺めて、ジジは深いため息を吐いた。
「あんた、ミケだろ。語り部の。ボクと同じ顔のやつが、この世に二人もいてたまるもんか」
鼻をすすった子供は、両手ぜんぶで顔をぬぐうと、カーテンのように垂れた髪を耳にかけた。大きな瞳があらわれる。下がった眉のせいか、ジジよりも素直そうで、しかし同じ造形をした顔があらわれた。性格の違う双子のようだ、とサリヴァンは思った。
「あ、あの……」
ミケは、戸惑ったようにジジとサリーを上目遣いに見る。
「わ、わたしは、ミケという名前なのですか? 」
「……うっそでしょ。めんどくせ。ハァ~」
「こら、ジジ。記憶喪失なんだぞ。優しくしろ。おまえも仲間じゃないか」
「ケッ」
サリヴァンは腰を折ってミケと視線を合わせると質問した。
「なんで泣いていたんだ? 」
「哀しくて……」
「そうか。ここにずっといたのか? 」
「気づいたらここにいて、そのときはまだ自分が誰なのかを分かっていた気がします」
「そうか。なんでわからなくなったんだと思う? 」
「渡したからです。あの人に。たぶん、ぜんぶを渡してしまったから」
涙にくれていた目が、瞬きを繰り返すたびに冷静さを取り戻し、伏せられた。
「渡さなきゃ、と思ったんです。でも渡したら、こうなってしまって。それからずっと、これを見ていました。そうしたら、とても……耐えられないくらい哀しくなって」
「これ? 」
ミケは、「これです」と、サリヴァンの手を取った。
するととつぜん、サリヴァンの目の前に、膨大な、音と、においと、言葉と、状況と、感情が流れ込んでくる。
息を止めていたらしい。気が付けば、ジジがサリヴァンの前で腕を広げ、ミケが尻もちをついて怒気をあげるジジのことを見上げている。サリヴァンが咳き込んだことで、ミケは青くなってうろたえた。ジジが無言で背中をさすってくる。
「今のは……」
「す、すみません、こんなことになるなんて、わたし、わたし……」
「大丈夫なの、サリー」
「ああ、大丈夫。じゃあミケ、もう一回頼む」
「はあ? 」ジジの目が、今度はサリヴァンを大きな目で睨みつけた。
「あっというまで、よくわからなかったんだ。だから、もう一回」
「キミ、いきなり目を回してひっくり返ったんだよ!? 」
「そんなに言うなら、おまえも一緒に見てくれ」
「はあ? ちょっとアンタ、こいつに何見せたらこうなるんだよ」
にじり寄るジジを手で抑えて、サリヴァンは言った。
「ミケには説明が難しい。あれは、ミケから見た、十四年分のミケと皇子の思い出だ。自分の名前も分からないいまのミケじゃあ、これが誰から見た記憶なのかも自覚できないはずだ。その記憶の最後のほうに、この件の主犯の姿が見えたような気がするんだよ」
ジジの片方の眉が上がる。無言だったが、『それで? 』と先をうながす声が聞こえた気がした。
「……アルヴィン皇子とミケは、おそらく状況をちゃんと見ていると思うんだ。これからおれたちが対処しなければならない敵の正体や、何が起こってこうなったのか、その顛末に、誰よりも近くで立ち会っている。正直、ダッチェスの言葉だけじゃあ、アルヴィン皇子の現状も、この国に起きてる問題も、推測の域を出ないんだ。なにがしかの闇の儀式を行われていたのなら、それがどんなものかを知りたい。アルヴィン皇子を救う手立てになるかもしれないし、」
「けっきょくそれか! 」
ジジは叱りつけるように叫んで、うめきながら顔を覆った。特大で、特長のため息が続く。
「……わかった。ボクも見よう。うん。結局それが一番いいんだ」
「付き合わせて悪いな」
「ハァ~……悪いと思ってんなら……いや、いいや」
頭を振ると、ジジは座り込んだままのミケの手を取り、立ち上がらせた。
「髪の毛ぐっちゃぐちゃ。そんなに長くてどうするの? 」
「そ、そうでしょうか」
「魔人だろ。自分にいちばん正しい姿を見つけて整えろよ。見苦しいな」
ミケが上目遣いに、サリヴァンとジジの顔を往復する。ジジはおもむろにその顎をつかみ、顔をのぞきこんだ。
「いい? アンタは今からボクらにそれを見せるけど、アンタもただ眺めてるだけじゃあなくってちゃんと観察するんだ。少しでも思い出せるようにね。感情だけを拾うんじゃあない。なぜそうなったのか、なぜそう言ったのか、それからどうなるのか。アンタなら見てるだけで次にどうなるのかもぜんぶ予想ができるはず。ボクが思うに観察眼と記憶力という点においては、語り部とボクの性能差はそんなにない。ましてや今回はアンタ自身の記憶なんだから、自分の思考の流れをつかむうちに『自分がなるべき正しい形』がおのずと見えてくるはずだ。ボクら魔人は不確定な存在だけど、いまこの瞬間に『いちばん正しい形』はひとつなんだ。わかった? 」
ミケはゆっくりと深く頷いた。
「……やってみます」
ミケがてのひらを上に向けて、それぞれに差し出した。サリヴァンは積極的に、ジジも嫌そうに手を伸ばす。そうして、小さな手が――――触れる。
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