二十二話
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ダッチェスの黒い服の中で、手袋だけが白かった。その小さな手を空にさしのべると、彼女に追従する明かりが灯る。満足げに頷いて少女は天井の暗闇に消えるほど高い、本棚の森の中を、すたすたと歩き出した。
「語り部は運命を見る機能があります。アトラス王家の子が腹にいるとき、我々は集まってその運命を探るのです。どういう気質で、どういうさだめの中を生き、どういう性質を持っているのか。長も短も表裏ですから、悪しき心を宿しやすいと分かっていても、その者を皇帝の候補に選出する場合もあります。語り部にはそれぞれ好みの王がおり、たとえばダイアナは英雄嗜好。トゥルーズなどは、悲劇的なほどの天才肌がお好み。今代はじつに豊作の時代でありました」
息をきらせることもなく、ダッチェスは子供のコンパスで、おどろくほど速く歩いた。暗闇の図書館は、迷路のように入り組んでいる。棚と棚の間にある隙間はその正面に立たないと分からない。滑るように進むダッチェスを見失わないように、サリヴァンとジジの気が逸った。
「候補者が重複する時代というのは、きまって動乱のきざしです。病、天災、王家の窮地。血を絶やそうと運命が大きく動くのです。だから我々は、末のアルヴィン皇子の選出を見送るつもりでした。一番若いミケが、皇子の魂に惚れこまなければ。……こっちですわ」
「まだなの? 」
「まだです」
ダッチェスはぴしゃりと言った。魔人二人が、よく似た不遜な顔で睨みあう。
「……我々には、アルヴィン皇子にまとわりつく断絶の運命が見えておりました。どこでどうなるか、具体的なことまでは見えません。けれど殿下の物語は悲劇で終わる可能性が高かった。
ミケは、それでも良いと言い張りました。我々は、語り部一体につき、九人の主人を持ち、見送ります。ミケはまだ誰の語り部にもなったことがない。栄えある最初の主に、すぐに死ぬような運命の主を選ばなくともいいのにと、皆が思ったものです」
「ミケの好みはどういう魂だったの? 」
「さあ。無垢な子でしたから。語り部は主を世界でいちばん愛すものですが、ミケの主人への愛は深く、力強かった。母親を早くに亡くした皇子の最初の友であり、最良の友であり、保護者であろうとした。時に語り部の誓約から逸脱しそうなほど、心を傾け、献身的であり、皇子のすべてを目に焼き付けようとしていました。ここを右です」
伸びる影が、ゆらめきながら暗闇に同化し、またあらわれる。ダッチェスの冷たい口調が、それは語り部としてあまりいいことではないのだと示していた。
「『語り部は自己を描写してはならない』『語り部は誰の運命にも介入してはならない』『語り部は真実から逸脱した演出をしてはならない』……これが我々に課せられた誓約のうち、最も重要な一文です。ミケは皇子を溺愛するがあまり、皇子にとっての心の支えにまでなっていた。その結果、あの子は大きな間違いを犯した。ご覧になったでしょう? あのありさまを」
「どのことを言ってる? 」
「見たでしょう? 上で。……頭蓋骨を盗まれたアルヴィン皇子の《《成れの果て》》を」
サリヴァンは顔を歪めた。
ジーン・アトラスとの相貌の一致。頭蓋骨を盗まれたというアルヴィン皇子。
「生贄にされたのか」
「さすが、あの方のお弟子様ですわね。察しがよくて助かります」
「死者をよみがえらせるために、いま生きている命を使う。どの時代でも真っ黒な禁忌の術だ。そうして蘇ったとしても魂に瑕がついて苦痛がともなう。どうしたって、そんなことを」
「さて。この惨状を成したものどもの思惑はわかりません。けれど、アルヴィン皇子がああなったのは皇子の語り部の不手際です」
ダッチェスは冷徹に断じた。
「ミケは消える直前に、皇子を生かそうと、自身の銅板を死にゆく彼の体にくべたのです。銅板は材料に万物創造の素たる混沌の泥を含み、鍛冶神の炉で生成されたもの。皇子の骸にくべられた銅板は、求めるがままに形を変えていきました。アルヴィン皇子の最後にあったのは、強く激しい怒りの心。温和で優しい少年が、壊れた心のまま蘇り、暴れている。あの存在そのものが、ミケが招いた悲劇です。あの子は語り部として、あってはならない罪を犯したのです」
サリヴァンは顔を歪めた。
「うそだろ。それじゃあ、あの姿になっても、皇子はまだ生きてるってことになるじゃあないか」
「そもそも、命とは……」
ダッチェスは、肩で大きく息をした。
「……いったい何が定義するのでしょうか。あれを生きていると申しますが、もしアルヴィン殿下のご意思が残っていたのなら、自身の手でこの城の壁紙を傷つけることにすら罪悪感を持たれるような、そんな方が、ああも狂乱する自分のことを許せますでしょうか。殿下はそういう方でしたわ」
「……ちょっと。黙って聞いてりゃあ、それをサリーに言ってどうしようっていうの」
ジジが低く言って、サリヴァンの前に出た。
「哀れな怪物に成り果てた皇子サマを、サリーに始末してほしいって、そう言いたいの」
ジジは、冷たくさげすむような眼でダッチェスを見下ろした。
「キミは、十七の少年に殺しを依頼するのか? 」
「わたしは語り部ダッチェス。誰の運命にも干渉できない」
「良心に訴えかけたろう。それがフェルヴィンの国宝様のやることかい? 人の善意をあてにするなよ。ここまで来るのだって、サリーがどれだけ」
「ジジ。もういい」
サリヴァンは片手でジジの腹を抱え、自分の後ろへ押しやった。
「サリー」
「ここに来ると決めたのはおれだ。おれは、そうして自分が見たものをどうするか考えて行動する。……語り部ダッチェス。しかし行動には責任がともなうことも、おれには分かってる。おれは、命の定義は、口にしたい意思が残っているかどうかだと思う」
サリヴァンの眼鏡の奥の眼が、言葉を探して泳ぐ。
「……おれは、きみたちほどうまくは言えないんだが、世間では魔人を道具と見るし、道具として扱う。でもおれは、ジジやあんたを、ひとつの命だと感じている。これはどんな理屈をこねたとしても、おれの中では揺るぎない事実だ。アルヴィン皇子もそうだ。怒りのままに暴れるのなら、そこには意思がある。おれは、よく知らない人間相手でも、命を奪う責任は負いたくない。なぜなら、おれはその責任を忘れることは一生できないだろうからだ。誰もが正しい行いだったとおれを慰めたとしても、どんなに言葉を尽くされたとしても、おれには善良な誰かの命を奪ったという事実が傷跡として残る。そんな傷を負うためにここに来たんじゃない」
ダッチェスは目を瞬き、「ふふ」と笑った。
「……いいえ、よくわかりました。そして、ずいぶん無責任なことを言ってしまいましたね。わざと勘違いさせる言葉を使ったことを謝罪いたします。ほんとうは、わたしが耐えがたかっただけなのです」
おや、とジジは眉を上げた。
「こんなこと、殿下たちには言えませんもの。けれど、上に出れば、きっとお気づきになるでしょう。そのとき真実を知るものが、自分以外にもいてほしかっただけだったのかもしれません。部外者であるあなたなら、真実を前に受ける衝撃は肉親よりずっと軽いだろうという、甘えでした」
サリヴァンの『うまくない言葉』が、言葉の玄人である語り部から本音を引き出した。善良で誠実であることは、この魔法使いの持つ優れた資質のひとつだった。
「……末っ子のアルヴィン殿下は、お兄様がたとは親子ほども年が離れておいでで……城の皆で育てたようなものですから。あのような……あんまりな結末です」
語り部は、吐き捨てるように嘆いて、少しの間押し黙った。サリヴァンは静かに目を伏せて祈る。ジジも、その沈黙に何も言わなかった。
「……この先に」
手袋の手が、奥の闇を指した。
「皇子殿下たちがいらっしゃいます。重ねて念を押しますが、殿下たちはアルヴィン皇子の悲劇をお知りになりません。皇子の語り部たちは存じていますが、主が質問しないかぎりは自分から話すことはないのです」
「つらいなら、おれから話すが……」
「もうお忘れ? 語り部であるわたしがそれを願うことは、誓約に触れますのよ。わたしは真実を口にし、あなたたちは、それを受けてご自分で判断なさるのでしょう? 」
老獪な語り部は、ぱん、と手を叩いて、一転、華々しい笑顔を浮かべた。
「さあ、これでお話はおしまい。わたしもぐるぐる歩くのに飽きてきたころです。参りましょうか」
「コイツ、わざと遠回りしてたのかよ」
「おいジジ。それはやめろ」
背を向けて歩き出したダッチェスに向かって、ジジが下品なしぐさで遺憾の意をあらわした。




