25・紫の悪夢は終わりを告げる
「若が……どこにもいらっしゃらぬ」
バートンが呆然と呟いたその言葉で、エイオンが我に返る。
ヨルデンを抱き締めていた腕をするりと解くと部屋を見回し、青ざめた顔でバートンに向き直った。
「他の部屋に居る可能性は?」
「隠し扉などがあればあるいは……いや、もしや」
バートンは慌てたように懐を漁り、一枚の札を取り出した。
リチャード、エイオン、ヨルデンが覗き込む。
何も描かれていない札に、赤い光が点滅しながら動いている。
当然の事ながらエイオンとヨルデンには何の事か全く解らない。
「ジョノ・スイルトンの動きが思ったより早い! 奴め、西区街からアド市を出ようとしておるのか! まさか奴が若を連れて」
バートンが顔面を蒼白にさせて札を読んでいる最中に、床に倒れていた老人が這いずりながら再び笑い声を上げた。
「ひひひ、ジョノ、シアリーの首が取れたか? 取れたか? ワシこそがルクラァン王宮の筆頭御殿医だ!」
「シアリーだと? シャロアンス・シアリーの事か?」
エイオンが老人の元へ足を運び、片膝をついて老人の顔を覗き込む。
老人は長い白髪をもつれさせ、顔にびっしりと汗の玉を浮かべて、それでも笑っている。その口からは唾液が滴っていた。
「そうだ! シアリーさえいなければワシは筆頭のままだ! ひひひ! ひひひひ、いひ、ひはは!」
およそ正気とも思えぬ姿にエイオンが眉を顰める。
「この男、何か知っておるようだな。リチャード、吐かせろ」
バートンの指示に、ヨルデンと同じぐらいに若いリチャードがすぐさま老人の腕を掴んで──へし折った。
ゴキッという生々しい音にエイオンが息を飲む。
「あああああああ!」
老人が口から泡を飛ばしながらもんどり打つ。
「何を知っている。吐け」
「いいい、いひ、いああああ! シアリーさえ死ねば! しねばぁ」
リチャードが溜息を吐いた。バートンを見上げる。
「爺様、今は無理。薬抜けるまで時間が必要」
「そのようじゃな。シアリー殿に因縁があるようじゃ。捕縛し王宮にて吐かせるしかあるまい」
「爺様、僕はスイルトンを追います」
リチャードが立ち上がってフードを被る。エイオンも素早く立ち上がった。
「待て! 私も行く。モニ……ハルモニア王子は私が助ける! ヨルデン、お前はここに残ってカティをルクラァンに納品しろ!」
「御意!」
リチャードがフードの下から冷たい眼差しでエイオンを見た。
「貴方の仕事は花を見つける事。花が見つかった今、出来る事は何も無い。貴方には土地勘も、札も無い。足手纏い」
「くっ……」
リチャードの言葉にエイオンの顔色が変わった。ぶるぶると震えながら歯を食いしばる。
彼は侮辱に耐える器を持ち合わせてはいなかった。
震える彼を後目に、リチャードはバートンから札を受け取る。
──どうする。カティは見つかった。
だが、それも偶然のようなもの。
自分がたまたまここに居なければ『暗軍』が見つけた筈。
自分の手柄ではないも同然。
──私はハルモニアを見つけて助け出すと、レカ様に誓ったではないか。
──ハルモニアの元へ、今すぐ……今すぐ行けたら!
『時が来たようだね。おいで、ラゼリード』
背後から『フィローリの声』が聞こえた。
「!?」
振り返ろうとしたエイオンを、背後の窓から吹き込んだ風が抱き締める。
──その瞬間、エイオンはその場から姿を消した──
◆◆◆
気が付いたらエイオンは空に浮かんでいた。
風が下から上へと立ち上り、彼の体を支えている。
しかし、下を見ても地面らしきものは無い。
どこまでも澄んだ青空が広がっているだけだ。上も同じ。果ての無い空。
「ここは……?」
問い掛けに応えたのは先ほどと同じ、フィローリの声。
『ここは風の道。君は今、本当の意味で翼を手に入れた。君は風がある限り、何処へでも何処までも行ける』
「フィローリ!?」
エイオンはせわしなく背後、または両脇を振り返った。しかし誰も居ない。
あるのは空のみ。
四方八方を空に囲まれ、エイオンは少なからずおびえていた。
「フィローリ! 居るなら答えて! 何処に居る!?」
ごうごうと渦巻く風の中でエイオンは声を張り上げた。その声さえ吸い込まれる風の音の中、フィローリの声は遠く、近く、しかし確実に響いてくる。
『君は進むべき時に居る。思い出にしがみついている場合ではない。退く事は許されない。留まる事は罪』
「罪? 貴方を思い出す事が罪だと?」
『そう。風は止まってしまえば風では無い。君は進むんだ。今、求める者の元へ!』
その瞬間、誰かに背中を押されエイオンは突き飛ばされた。
彼の目の前には白みかけた空。ルクラァンの夜明けの風景。
為す術もなく夜明けの空に飛び込みながら、エイオンは喉が裂けんばかりに叫んだ。
「フィローリ!!! 私は……! 私はまだ貴方を」
エイオンの姿がかき消えたその空間に残されたのは膝まで毛先の届く長い金髪の、男性。
◆◆◆
ハルモニアを左肩に担いだまま西区街の端を目指してスラム街を走っていたジョノは、突然足を止めた。
ナニカが来る。それは直感だった。
ジョノは汗だくの額を手で拭った。
何者が来ても驚かないつもりだった。
何故なら、ジョノもまた精霊だから。
だが、彼は結果的に驚く事になる。
ジョノの前方に轟風と共に現れたのは、頬を涙で濡らしたエイオンだったからだ。
「……なんの冗談だ。敵の一人も殺せない甘ちゃんがなんで泣きながら『風の道』なんかで追ってくるんだ? なぁ、坊ちゃん。俺を殺せるか? 無理だろ?」
「……」
エイオンは黙ったまま頬を伝う涙を乱暴に拭った。
その仕草にジョノが苛立つ。
「なんとか言えよ、激甘坊や!」
「ハルモニアを返せ」
不安定そうに見えたエイオンだがその声は低く、しっかりと芯があった。
「返せと言われて『はい、どうぞ』なんて言う訳無いだろう! ガキを取り戻したければ力ずくで来いよ、坊や!」
ジョノの挑発に、エイオンが双剣を抜いた。
「言われなくとも!」
エイオンは右手の剣に風を乗せて宙を斬る。
風が剣の軌道を外れ、真っ直ぐにジョノの右肩を狙う。
風の刃がジョノの肩を抉ろうとした瞬間、刃は風の盾に打ち消された。
「!?」
エイオンが目を見張る。
「残念だったな。俺も風精なんだよ!」
ジョノは言葉を吐き捨てると同時に姿を消した。
彼の肩に担がれていたハルモニアが薄汚い路地に投げ出される。
小さな苦鳴がハルモニアの口から漏れた。
「モニ!」
「油断してていいのか坊や」
背後から聞こえたジョノの声に、エイオンの背筋が凍る。
反射的に右側に身を捩ると、首を狙った風の刃が彼の耳元を通り過ぎた。
耳元の髪が何本か切り落とされて宙を舞う。
エイオンは身体を捻った反動のまま背後に剣を振るったが、何も手応えが無かった。
相手は『風の道』を使った瞬間移動で彼の背後に回り込み、そしてまた『風の道』に入ったらしい。
「残念。逆に避けようとしてたら首が胴から離れてたのによ」
今度は前から声がした。エイオンの全身に鳥肌が立つ。
彼は右横に大きく飛び退く。
しかし至近距離から放たれた風の刃はエイオンの左脇腹を確実に捉えていた。
「くっ……!」
避けきれない!
そう判断した瞬間、彼の身体は勝手に女性体へと変化していた。
陽炎の様に揺らめく『ラゼリード』の脇腹を風の刃が掠める。
ぴっ、と上着が切れ、脇腹の皮膚一枚を裂く。
こぼれた赤い血が薄袴を汚す。
薄袴も剣帯も、彼女の細くくびれたウエストからずり落ち、腰骨で辛うじて引っかかった。
ジョノが放った風の刃はそのままラゼリードの背後にあった襤褸い建物の壁を派手に裂く。
「!? お、女になったァ!?」
ジョノが驚愕の余り、攻撃の手を止める。
その油断が彼の命取りになった。
ラゼリードは左手の剣を捨て、素早く剣帯に差した短剣を抜くとジョノの右膝を狙って投げた。
まるで吸い込まれる様にジョノの膝に短剣が刺さる。
「てっ……!」
バランスを崩したジョノの背に、追い討ちのように炎が炸裂する。
「ぎゃあっ!」
「モニ!?」
ジョノの遙か背後で地面に倒れたまま、右手で火球を作るハルモニアの姿がラゼリードの瞳に映った。
火球がハルモニアの手を離れ、ジョノの後頭部に真っ直ぐ飛んでくる。
ジョノは避ける事も出来ず、後頭部に火球の直撃を喰らい、グラリと目眩を起こした。
火球がぶつかった勢いのまま前のめりにゆっくりと傾く。
体勢を立て直したラゼリードは、そんなジョノの首に右手の剣を向けた。
「法で裁く事もままならず、己の心にある正義も貫けないというのならば」
ずっ……とジョノの首に剣先が刺さる。
「わたくしはカテュリア国民の望むだろう正義……処刑を全うしよう。それが未来の王たる資格なれば」
ラゼリードは涙の溢れる色違いの瞳をそっと閉じて、ジョノの首を貫いた。
風が、ぶわっと吹いて……目の前の気配が消えた。
からん、とジョノの膝に刺さっていた短剣が地に落ちる音だけが彼女の耳に届いた。
ジョノの着ていた服の上に、血に濡れた剣が落ちる。
「うっ…ううっ…」
ラゼリードは何故、自分が泣いているのか解らなかった。
罪人の為に流す涙など無いと彼女は思っていたし、現にジョノを哀れんでの涙ではない。
しかし命とは皆等しく重く、簡単に奪ってしまって良いものではない。
それが例え罪人であっても。
ガノッツァ、チェルラ、ジョノ。誤って殺してしまった男。
消えていった命。消してしまった命。
自らの基準ではなく、国の為に否応無しに命を奪わなければならない自分の立場。
逃げたい、とラゼリードは思った。
しかし自身が逃げる事は生涯無いだろう事が彼女には分かっていた。
『彼』と約束したのだ、女王としていつか王冠を戴くと。
「エイ……オン」
ハルモニアの呻き声でラゼリードは現実に返る。
放り捨てた剣を拾い、鞘に納めるとハルモニアに駆け寄った。
「モニ!」
俯せて倒れている身体を抱き起こす。
ハルモニアの顔を見てラゼリードは愕然とした。
脂汗に額を濡らしながらも、純粋に笑っている。
何の憂いも無いかのように。
「無事…だったか?」
ハルモニアは眠気にまどろんでいるようなのんびりとした声でラゼリードに問い掛けた。
「馬鹿。それはこっちの台詞だ」
また新しい涙が浮かんで、ラゼリードはぽつりと雫を零した。
「泣いている…のか」
ハルモニアがラゼリードの頬を撫でた。
「泣き顔も…美しいな」
「またそんな事を」
鼻をすすり上げたラゼリードに、ハルモニアの瞳が不意にきょとんと丸くなる。
「あれ?」
「ん?」
「お前…女性……? 声が…、胸も」
「!」
ラゼリードは即座にハルモニアの額を指で軽く弾く。
「いてっ」
ハルモニアが衝撃に目を閉じた隙に性別を切り替える。
再び『エイオン』に。
「馬鹿、ま、間違えるな」
間違いでもなんでもなく、むしろハルモニアの方が正しいのだがエイオンは真実を秘匿した。
「あれ? 男性だ……」
目を開けたハルモニアがぱしぱしとまばたきを繰り返す。
「はは…。薬を盛られ過ぎたかな…。お前が男だと分かってるのに、自分にとって都合の良い幻を見たらしい」
「薬!? 大丈夫か!?」
エイオンの問いにハルモニアは答えず、ゆっくりと瞼を閉じた。
「お前が女性だったなら、一生…守るのに……」
「モニ!? ハルモニア! しっかりしろ!」
エイオンがハルモニアの頬をピタピタと叩く。
ハルモニアは大きく息を吸って吐くと、そのまま意識を失った。
「モニ! モニ!」
エイオンが揺さぶっても彼の瞳が開く事はなかった。
エイオンが最悪の事態を想定してしまい、再び涙を浮かべた頃……
ハルモニアがただ単に眠っているだけなのに気がついた。
エイオンは安堵の笑みをこぼしながら目頭を拭う。
「……心配させるなよ、馬鹿。本当にお前は馬鹿で、いい奴だよ」
気がつけばスラム街にはすっかり朝日が昇り、白い光をエイオンとハルモニアに投げかけていた。
紫の悪夢は終わったのだ。
ラゼリード──エイオンと、ハルモニアの2人によって。
誰かエイオンがラゼリードに変わって攻撃を躱すシーンをアニメにして……。
見たい(とても見たい)




